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身体はどのようにジェンダーを演じるのか。アイザック・チョン・ワイが大館「An Intimate Surrender」で問うもの【2/3ページ】

京劇の身振りを、ジェンダーの身体へと翻訳する

──「An Intimate Surrender」展では、とりわけ映画に登場する京劇の「身段(しぐさや型)」を振付に取り入れていることが印象的です。今回の振付をどのように構想していったのか、教えてください。

チョン・ワイ 私は京劇を専門的に学んだ経験はありませんが、その視覚言語には非常に鮮明で、一目でそれとわかる特徴があります。中国語圏の文化に由来する様々な形式は、視覚的な記号や美的イメージを通じて流通し、ディアスポラや異文化間の状況のなかで、その意味を絶えず変化させてきました。

 今回の振付では、京劇の身段や映画の場面から動きのヴォキャブラリーを抽出し、パフォーマーたちが一連の動作を繰り返し演じる構成にしました。

 とくに興味を持ったのが、「蘭花指」と呼ばれる手のかたちです。この身振りは女性性と強く結びつけられることで、ジェンダーに対する私たちの認識を直接的にかたちづくっています。今回のライブ・パフォーマンスでは、この「蘭花指」をひとつのダンス・ヴォキャブラリーへと変換しました。それは身体を分け隔てるものではなく、身体と身体を結びつける接点になります。手は別の身体へと伸びていき、ときには相手を導き、ときには相手に導かれるのです。

今回のライブ・パフォーマンスでは、女性性と強く結びつけられる「蘭花指」と呼ばれる身振りがひとつのダンス・ヴォキャブラリーへと変換された Photo by Tai Ngai Lung. Courtesy of Tai Kwun Contemporary

──今回参加した10名のパフォーマーは本当に素晴らしかったですね。アジアの様々な地域にルーツを持ち、ダンスのバックグラウンドもそれぞれ異なります。そうした多様性が、パフォーマンスをつくり上げていく過程で、予想もしなかったような化学反応を生み出していたように思います。

チョン・ワイ そうですね。とくにリハーサルでは、パフォーマーたちと一緒に様々な可能性を試すことができました。彼らから具体的なフィードバックをたくさんもらい、お互いのアイデアをぶつけ合いながら、より実験的な振付へと発展させていきました。

 動きを考えるとき、私はよく「どんな動きが自分を触発するのか」「自分自身の経験と結びついている動きとは何か」と考えます。例えば「蘭花指」について言えば、香港で育った子供の頃、男の子がこの手のかたちをすると、ほかの子供たちから「娘娘腔(ニャンニャンチャン)」とからかわれることがありました。男性らしさに欠け、女性的すぎるという意味を含んだ蔑称です。

 いま振り返ると、なぜ社会はこれほど単純な手のしぐさを嘲笑の対象にしてしまうのだろう、と疑問に思います。なぜ男の子はこうした身振りをしてはいけないのか。いっぽう、ドイツで同じ手のかたちをしても、それが何を意味するのか知っている人はほとんどいません。そこから、ジェンダー表現が文化によってどれほど異なる意味を持つのかを考えるようになりました。

 京劇の文化的文脈において、「蘭花指」はむしろひとつの芸術であり、美を表現する身振りです。だからこそ今回のパフォーマンスでは、この身振りを現代美術の文脈から改めて解釈しました。かつて嘲笑の対象だった記号が、いまでは振付を構成する中心的な動作のひとつになっています。

本展では、複数のパフォーマーの身体と、ガラスに残された身体の痕跡とを細やかに対応させている Photo by Tai Ngai Lung. Courtesy of Tai Kwun Contemporary

 「An Intimate Surrender」展では、複数のパフォーマーの身体と、ガラスに残された身体の痕跡とを細やかに対応させています。互いの差異が存在することを認めながらも、身体同士が重なり合う瞬間を探り、ひとりの主人公のイメージを複製し、拡張していくような構成です。

 私たちは意図的に、パフォーマーに固定された役柄やジェンダー・アイデンティティを与えませんでした。その代わり、彼らは導く/導かれる、支える/支えられるといった絶えず変化する関係のあいだを行き来します。アイデンティティはあらかじめ決められているのではなく、パフォーマンスを通じてつねに交渉され、形成されていくのです。

 また、この作品において「反復」は、レジリエンスを培うためのひとつの実践でもあります。頭を垂れ、互いの高さをそろえる「降伏」の姿勢や、落下と回転が繰り返されながら、そのたびに中断される動きは、映画のなかで反復される死や、揺るぎない献身のイメージとも呼応しています。

 『さらば、わが愛/覇王別姫』と京劇の論理をひとつの集合的な身体へと展開することで、「アジアの男性性」を、ひとつの美学であると同時に、パフォーマティヴに構築されるものとして捉え直すための議論を開きたいと考えました。

編集部