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「Taiwan Pavilion」キュレーター・陳湘汶が語る光州ビエンナーレ「Instance Dungeons: Gray Zone」。情報とテクノロジー、現実の境界【3/3ページ】

名称問題を経て、展示の「読み」はどう変わったか

 本展の開幕前には、「Taiwan Pavilion」という名称をめぐる問題が起きた。本展の参加作家・キュレーター側は、「Taiwan Pavilion」として受理された展覧会が同意なく「NTMoFA」へと変更されたとして批判。これに対して光州ビエンナーレ財団は、国立台湾美術館(NTMoFA)との協約を根拠に、公式広報で機関名を使用したものだと説明し、展示内容や作品への検閲は否定した。最終的には財団が「Taiwan Pavilion」の名称使用を承認している。

オープニングでの陳湘汶 撮影:編集部

 この出来事をめぐっては、契約・参加主体がどの機関であったのかという点と、パビリオンがどの名称で申請・合意されていたのかという点について、それぞれの説明を区別して見る必要がある。名称問題を経たことで「Instance Dungeons: Gray Zone」展そのものは変化したのだろうか。

 「作品自体は、最初から今日まで何も変更していません。ただ、観客が作品をどのように読むかは、完全に違うものになると思います。当初、私は台湾の歴史、あるいは台湾のある種の『隠された歴史』について話したいと思っていました。今回の出来事が起きたことで、人々は、台湾がアジアのなかで非常に特殊な位置に置かれていることについて、より意識するようになると思います。そしてこれは、人々が『国家とは何なのか』ということや、その定義について考える、ひとつの転換点にもなりうると思っています」。

 ただし陳は、「Taiwan Pavilion」という名称そのものに、政治的な意味を付与しようとはしない。パビリオンの名称はプロジェクトの名前だとして今回の出来事をこのように振り返る。

「Instance Dungeons: Gray Zone」展示風景 撮影=編集部

 「最初に私たちは『Taiwan Pavilion』として話を始めたので、そのまま『Taiwan Pavilion』として進めたかっただけです。私個人の立場からすると、これはそれほど政治的なことではありません。最初から『Taiwan Pavilion』として話をしていたのだから、それを維持したかったというだけです。

 もし最初から別の名称のパビリオンとして話を進めていたのであれば、その名前を維持していたと思います。今回の場合で問題だったのは、誰かが私たちの同意なしに名称を変更したことです。名称を明確にしておくことは、アーティストや、このプロジェクトに関わる多くの人々を守ることにもつながると思います」。

 陳にとって問題だったのは名称そのものの政治性以上に、自分たちの同意なくパビリオンの名称が変更されたと認識したことだったと語る。

アイデンティティを明確にするのではなく、固定しない

 また、そのうえで本展の鑑賞者に受け取ってほしいことを問うと、本展は「台湾とは何か」を示しているのでなく、むしろ台湾のもつ複雑さを提示しているということだった。

 「私たちは、アイデンティティを明確に定義しようとしているわけではありません。私にとって、アートのもっとも魅力的なところは、物事を改めて問い直し、アイデンティティをひとつの定義に固定しないことです。

 とくに台湾には、とても複雑な歴史があります。台湾の歴史を見れば、アメリカも、日本も、中国も存在しています。だから私は、そうした台湾の複雑さを見せたいと思っています。そして、ここ光州でこの展覧会を開催することに意味があると思っています。光州もまた、戒厳令のような歴史的経験と向き合ってきた場所だからです」。

「Instance Dungeons: Gray Zone」展示風景 撮影:編集部

 地政学、インターネット、AI、記憶、シミュレーション。会場を満たす作品はそれぞれ異なる対象を扱いながら、どれも世界を白か黒かの二択へと収束させることを拒む。陳が最後に強調したのは、現在の政治状況だけに展示を回収するのではなく、作品そのものを見てほしいということだった。

 「なんらかの『共感』を感じてもらえたらと思っています。感情的なつながり。今回のアーティストたちの作品を見ると、ユーモアのある表現もいくつかあります。だから私は、みんなに作品そのものを楽しんでもらいたいと思っています」。

 ユーモアを備えた作品の数々は、シリアスな問題を扱いながらもひとつの正解へと鑑賞者を導くわけではない。本展が提示するのも、現実について白黒はっきりさせるような説明ではなく、そのあわいにある多数の視点だ。何が現実で、何がそのコピーなのか。私たちが自分で選んでいると思うものは、どこまで自分自身の選択なのか。そして、複雑なものを複雑なまま見ることは可能なのか。その問いが、いくつものスクリーンとイメージが交錯する会場のなかに残されている。