おわりに──歴史というタペストリー
今回訪れた展覧会の多くは、ストリートアートの歴史をどう文脈化し、いかにナラティブを形成するかという意識を潜在させていた。ストリートアートに限らず、現代美術全般においても、70〜80年代、場合によっては90年代すら、すでに歴史家の視野に収まり始めている。ストリートアートが「グローバル化、商業化、そして歴史化という異なる複数の力学の到来に一挙に直面している」と先述したが、それは美術もしくは文化全体がトータルで差しかかりつつある局面かもしれない。私自身、そのダイナミズムに関心を寄せるひとりである。
同時に、歴史が果たす役割や、それを支えるメカニズムが変わりつつあるとも感じている。いわゆる「正史」はこれからも必要だろう。しかしそれは、かつてのように権威やイデオロギーが規範を押しつけるためのトップダウンの装置ではなく、そのままではバラバラに散逸しかねない、非公式でボトムアップの語りをつなぎ留め、多声的な共存を可能にする公共のプラットフォームとして機能すべきではないか。
あらゆる歴史は、特定の視点から編まれたゆえの偏りを避けがたく帯びている。純粋に中立で、完全な歴史は成立しえない。それは程度の差こそあれ、利害にもとづく政治的な操作や、情報不足による誤謬にまみれた、不完全な構成物にすぎない。高度な情報社会を生きる現代人にとって、そうした歴史の人工性は明らかである。
したがって私たちは、歴史を、過去の世界や出来事のありのままのドキュメントではなく、一定の合意のもとに編成された議論の土台に、断片的で流動的な無数の意見が織り込まれては解かれていく「言説のタペストリー」としてとらえるべきかもしれない。
それはときに清書され、ときに加筆または修正され、ときに激しくかき換えられる。あるいはページごと破り捨てられるかもしれない。丸めて捨てられたページが拾われ、しわを伸ばして清書され直すこともある。
しかし、どれだけ丁寧に字をなぞっても、消え切らない折り目の跡が、テクストの肌理にわずかな歪みを残し、それは過去と現在のあいだに沈澱する。その歪みの粒は、あるとき時代の表層に浮いてくるかもしれない。歴史とは、このような一回性、反復性、多動性、不確定性を抱えた、呼吸する言説の束にほかならない。
こうした現実は、ストリートアートの歴史が検証され、構築されていくさまに鮮明に立ち現れている。それは静的なプロセスではない。路上に繁茂するライティングが相互にかき換え合い、ときに上塗りし合いながら景観を刷新し、同時にそこに溶け込むように、言説もまた、複数のかき手による応答の連鎖によって生成され、歴史に埋め込まれ、同時にそれを象っていく。
その媒体は、出版や活字に限られない。このテクストで概観したように、展覧会、トーク、また資本との関係を含め、多様な経路をつうじて歴史は像を結んでいく。そしてストリートアートの内部にとどまらず、現代美術、都市論、アクティヴィズムといった他分野との交差や越境、あるいは個人の実践と時代の趨勢のずれや一致を、理解の解像度をたくみに切り替えて的確に把握することにより、いっそう複雑な様相があらわになるだろう。
ストリートアートの最前線はいま、言説から歴史が紡がれるもっとも刺激的なモーメントを、リアルタイムで体感できる数少ない現場のひとつなのである。

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