追悼:折元立身 パフォーマンス・アートの巨星墜つ【3/3ページ】

折元のパフォーマンスに潜むユーモア

 コミュニケーションとは何か? 折元に尋ねたことがある。

 「関わりかな。人間と人間との関わりかな。人間の基本はコミュニケーションだと思う。」(*3)

 折元は、自らが生きている時代の動きについても鋭敏な感性を働かせながら、自身のコミュニケーション・アートに向き合っていた。

 「…AIなどの技術の進歩は、もっともっと人を置き換えていくでしょうが、便利さと引き換えに何か人間にとって大切なものがどんどん欠けていく社会になっていくような気がしています。だけど、人間の本質は変わらず、何か温かいコミュニケーションを求めているのです。僕は、人と人との関わりをアートにしてきました。コミュニケーション・アートです。そのコミニュケーションは、人間的な温かさを持ったものです。」(*4)

 「『パン人間』は、死ぬまでやり続けますよ」としばしば語っていた。最後の「パン人間」は、2024年5月12日に東京都渋谷公園通りギャラリー主催の展覧会「共棲の間合い」の関連イベント「『パン人間』パフォーマンス〆」となった。誕生から30年以上経ち、その間、300回近く実施してきたこの作品を、久々に東京、しかも渋谷のストリートで遂行できたのは折元にとって大きな喜びであったに違いない。10人のパン人間が突然、ストリートに姿を現したとき、日本人を含む様々な国籍の道行く人々が足を止め、好奇の眼差しと驚きでもって彼らを迎え、様々な反応が交錯した。世代を超えて示された熱狂は、この作品が現代においてもその根源的な力を失っていないことを多くの人々に印象づけた。人間の本質に根差した作品ならではの共感力が人々の心を掴み、異次元の空間・時間をしばし現出させた。クライマックスでは、集団での「パン人間」の決まり文句となったあの言葉が、渋谷の雑踏に放たれ、繰り返される。

2024年2月10日に「パン人間」パフォーマンスを行った際の折元立身
撮影=編集部

 「私たちはパン人間であり、人間様ではありません!」(We are Bread-men, not human-beings!)

 もう、折元の声でこの言葉が聞けない現実を想うと、大きな喪失感が迫ってくる。

 折元のパフォーマンスに直に触れたことのある人は、その立ち上がり時の息を呑むようなシリアスさと緊張感を記憶しているだろう。それと共に、張りつめた時間と空間の隙間から、時折、何か温かいものが浮かび上がるのを感じただろう。その温かさは、折元のパフォーマンスの隠れた次元に潜む独特のユーモアを介して滲み出してくる。ユーモアは、折元作品の絶妙なスパイスだった。

 「人に会うのも好きだしユーモアも好きですが、同時に、人生が悲劇的なものだという事実から目を逸らすこともできないのです。私が頭の上にパンをつけた姿を見ると、電車の中でも街頭でも笑いが起こります。ユーモアが鑑賞者と私の間に絆を発生させるのです。それと同時にパンという強烈なシンボルが恐怖と危惧を誘発します。パンが意味するのは人生です。今日でも貧しい国々では何百万人もの人々が餓死しています。人生をジョークとして扱うべきではありませんが、人生という悲劇を耐えられるものにしてくれるのはユーモアなのです!」(*5)

 アーティストとして、けして一所にとどまることなく、新作を生むことに心血を注ぎ続けた折元立身。あの世に旅立つ直前までその姿勢は変わらなかった。私には、そのまま突然に飛び去ったように感じられる。天国でも一心に制作に勤しんでいる折元の姿が自ずと目に浮かぶ。

 不世出のアーティスト、折元立身の冥福を祈る。

*3──深川雅文『生きるアート 折元立身』(美術出版社、2024年、 p.365)
*4──同上、p.370
*5──『装苑』(第56巻11月号、文化出版局、2001年、p.128)

編集部

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