椹木野衣 月評第96回 否(アン)パン人間 「生きるアート 折元立身」展
「パン人間」や「アート・ママ」の連作で、ユーモラスかつ意表を突くパフォーマンス・アーティストとして広く知られるようになった折元立身への見方が、大きく揺さぶられる画期的な展示であった。
いま画期的と書いたが、むろん、年代を遡りながら、最初期の素描や個展案内まで周到、かつ執拗に並べて見せた点で、同時にこれは日本におけるひとつのまとまった回顧の機会ということができる(それだけに、作品を網羅した図録が発行されないのが残念で仕方がない)。けれども、本展がそこに留まらないのは、これまで日本ではほとんど見る機会のなかった膨大な数のパワフル、カラフル、そしてワイルド極まりないドローイングが壁面をところ狭しと埋め尽くす様で、これはもう圧巻というしかない。みずからの病身はもとより、介護中の母、そして鶏や豚といった家畜にまで拡張された折元のパフォーマンスの根底に、このような描画への衝動が横たわっていることを思い知らされる。裏返してみれば、彼のパフォーマンスが構図や色彩の点で、もともと絵画的要素を持っていたことにもなるだろう。そこにはつねに、個体としての「自分」を包む表皮を突き破って、本来なら無縁なはずの他者や物質とどんどん交わり、繋がっていこうとする、不気味と呼びたくなるほどの生命力の横溢がある。
なかでも、折元の芸術が持つこうした力動性がもっとも端的、かつ無遠慮なまでにあらわにされたのが、「処刑」と題された連作だ。 「処刑」は、折元のトレードマークとも言えるフランスパンが登場する点で「パン人間」の延長線上に出てきたものだが、受ける印象はまったく違っている。あるとき長崎で折元は、かつて処刑された「日本二十六聖人」の話を知る。これは、慶長年間にキリスト教の布教による悪弊を恐れた豊臣秀吉によって行われた、日本でもっとも広く知られたキリスト教徒への迫害で、美術の世界では、これをモニュメントとして刻んだ舟越保武による彫像が有名である。折元はここから着想し、目隠しをして柱に縛り付けられたパンの売り子を模する26人の生身の男女が、合図ののち一斉に、パンがすべて床に落ちるまで身を激しく震わせ、絶叫するパフォーマンスに仕立て上げた。
現在までに川崎、ベルリン、マドリード、インスブルックで行われたこれらの「処刑」は、その各地におけるキリスト教カトリックが持つ異なった歴史的文脈や、そこから派生した「美術そのもの」の是非について、知識だけではなく体験として考えることを迫ってくる。その様は、まるで身にまとわれたキリストの痕を必死に振り払おうとしているかのように見える。
とりわけ日本でこれを見るとき、西洋=美術の原基としてのキリスト教を容赦なく破壊しようとした歴史と、現在の美術≠アートをめぐる見かけ上の隆盛とのギャップがいったいなんなのかについて、思いがよぎらずにはいられない。硬くて湿気を持たず、嚥下するにも喉の筋力を要するこん棒のようなフランスパンは、日本における美術という異物の存在を、食物を通じて物質的に固形化したものだろう。だいいち、その由縁は「イエス・キリストの肉」ではないか─果たして私たちは、こうしたパンの異形と味わいを、本当の意味で噛み締められているのだろうか。
(『美術手帖』2016年8月号「REWIEWS 01」より)