追悼:折元立身 パフォーマンス・アートの巨星墜つ【2/3ページ】

「パン人間」、そして「アート・ママ」へ

 1970年代末、折元は試行錯誤の実験を経て、自身の「コミュニケーション・アート」の原型にたどりつく。作品としてこの名を添えた初めてのイベント「うで輪をつける」が1978年にインドで実施された。様々な名前を刻印した金属のうで輪を持参してインドからタイ、インドネシア、中国などで地元の人々とコミュニケーションを図った。さらに、1980年代半ばには、金属製の耳を引く器具を用いる「耳を引く」が生まれ、インド、インドネシア、そしてオーストラリアなどで行われた。折元は、この作品で、1989年、ニューヨークのクロックタワー・ギャラリーで開催された現代美術のグループ展「あちこち、トラベル  Part2: 悲しいトラベル」に選ばれ、自身のアートの方向性に手応えを感じていた。1990年に生まれる「パン人間」は、こうしたコミュニケーション・アートの追求という流れの中での突然変異であった。それまでは、道具立てとして「うで輪」や「耳を引く器具」を他の人に付けることでコミュニケーションを行なってきたのに対し、道具立てとして、自身の顔につける「パン」が招来されたのである。

折元立身 うで輪をつける(タイ) 1982
©︎ART-MAMA Foundation

 その頃、折元は、パンのみならず、時計や帆船模型やマグロの頭など様々な物を顔に付けることを試みていた。なぜパンが選ばれたのか? 自身のパンへの憧憬、キリスト教文化におけるパンの象徴性、身近で日常的な食べ物であること等々、いくつかの動機が絡み合っての直感的判断だった。こうしてパンを頭部に付けて、公の空間で出会う人々と関わり合う「パン人間」が生まれ、1990年代の前半、アジア、アメリカ、ヨーロッパ各地へパン人間の旅が続けられた。この流れは、1990年代半ばに、母と息子、二人きりの介護生活という環境変化によりドラスティックな展開を生み出す。自由に世界を股にかけて活動することが難しくなった折元は、この状況下でいかにして作品を制作し続けるのか?という切実な問いに直面した。しかし、ある日、生活のなかで母とのコミュニケーションをアートにするというアイデアが降りてくる。傑作「アート・ママ」が誕生し、2017年の母の逝去直前まで、約20年間留まることなく続けられた。21世紀に入ると、「パン人間」と「アート・ママ」に加えて、「おばあさんのランチ」や動物とのコミュニケーションを試みる「アニマル・アート」など新シリーズも生まれ、加えてドローイングやオブジェの制作など多彩な展開を見せた。

2017年、富山県美術館の全面開館記念として「パン人間」のパフォーマンスを行った折元
撮影=編集部

 「アート・ママ」の誕生は折元の作家人生において極めて重要な出来事であった。折元は述懐している。

 「『パン人間』だけをやっているときは模索だった。『アート・ママ』でより自分のオリジナリティが出てきた。…」(*2)

 「アート・ママ」は、2000年初頭、介護問題への社会的関心が高まる中、母との介護生活から作品を生み出す国際的作家として、新聞、雑誌、テレビなどのマスコミにも注目された。NHKは『人間ドキュメント』で折元を取材し「アートで人生に輝きを」というテレビ・ドキュメンタリーを制作し放映した。それを受けて著書『介護もアート 折元立身 パフォーマンス・アート』(KTC中央出版)が出版され、折元の名が広く知られるようになった。ところで、「アート・ママ」の発想には、折元がかねてから抱いていたアートとケアについてのビジョンが伏線としてあった。92年にはすでに横須賀の久里浜病院内で病院にいる人びととのコミュニケーションを行う「パン人間」のパフォーマンスを行っていた。様々な理由で病院や施設で生きている人々に対して、自らのアートで思いやりを持ってコミュニケーションすることはケアになるのではないかという信念は、「アート・ママ」を経由して、介護施設や病院などで行われるプロジェクトへと深化した。

2016年、東京・目黒の青山|目黒でパフォーマンス「化粧して、アート・ママに成る」を行った折元
撮影=編集部

*2──深川雅文『生きるアート 折元立身』(美術出版社、2024年、 p.221)

編集部

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