折元のアートの根底を貫いてきたもの
川崎生まれの現代美術家、折元立身が逝去した。1990年代前半、折元の代名詞となった作品「パン人間」が誕生して世界を闊歩し、作家としての飛躍を見せた。2001年、第49回ヴェネチア・ビエンナーレの企画展「人間の台地」に、ディレクターのハラルド・ゼーマンにより日本人作家として唯一人選ばれて参加。展示したのは、自らが介護者として生活を共にする母を自らの芸術に招き入れた作品「アート・ママ」である。折元の名を一挙に世界に知らしめることになった。21世紀に入っても旺盛な制作活動を続け、パフォーマンスを核にして実験精神溢れる作品を制作し続けた。その作品群は、一見、奇異奇抜で過激さも見せるが、人間への尽きることのない関心と想いが渾然一体となっており、見る人の心に温かな余韻を響かせ続けた。半世紀以上に渡る折元立身のアートの足跡をスケッチし、追悼したい。
元々、画家を目指していた。七度の東京藝術大学受験の失敗を経て、1969年、新天地を求めて渡米。まずカルフォルニアで学ぶ。折元の絵画は学内で高く評価されたが、それに満足せず、恩師の勧めもあって、1971年、当時、実験的芸術活動の坩堝となっていたニューヨークに移住。そこで出会ったフルクサス・グループの活動、ヨーゼフ・ボイス、ヴォルフ・フォステル、ヴィト・アコンチなど過激なアーティストたちのパフォーマンスを目の当たりにして衝撃を受け、絵筆を捨てた。パフォーマンス・アーティストとしての実験はここから始まる。ニューヨークでは、フルクサスのメンバーでもあったナム・ジュン・パイクとの出会いがあり、彼のアシスタントを務めている。また、フルクサスの中心人物であるジョージ・マチューナスの知己も得て、1974年にはフルクサスのグルーブ展「クロック・ショー」に自身の作品「皿時計」で参加。最初の重要な国際展デビューとなった。
折元が追求したパフォーマンス・アートの真髄とは何であろうか? 「パン人間」についての自身の次の言葉は示唆的である。
「私は、顔に数個のパンを付けて、世界中の街に突然出没して、それぞれの国の人々とのコミュニケーションを記録しているパフォーマーです。駅、カフェ、レストラン、ストリート、病院、なるたけ多くの地元の人がいる所のパブリックスペースを絶好の場所として、パン人間パフォーマンスを始める。面白がる人、驚く人、変な物を見る眼でのぞく人、レストランで、ウェイトレスに追い出される時もある。怒鳴られたり、喜ばれたり、色々な異なったリアクションがあるが、色々なコミュニケーションこそ、私のアートなのである。」(*1)
不可視かつエフェメラルな「コミュニケーション」をいわばアートの素材として扱う。この姿勢が、折元のアートの根底を貫いてきた。その端緒と展開を見ておこう。
*1──深川雅文『生きるアート 折元立身』(美術出版社、2024年、 p.323)