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身体感覚を研ぎ澄ますという静かな抵抗。菊池裕子評「身体と物質のエスノグラフィー 加速社会における遅さと深さ」展【3/4ページ】

Fig.8 三嶋りつ惠の展示風景 撮影:池田紀幸

 2階へ上がると、三嶋りつ惠の透明ガラス作品群が整然と並ぶ(Fig. 8)。人工的な白光で下から照らされたライトボックスのように、38点のガラス作品は色彩を排除することで、ガラスそのものの透明性とフォルムを際立たせている。三嶋の作品では、ムラーノ島の親方職人との協働制作を通じて、高熱のなかで変化し続けるガラスの身体的経験をそのまま作品化している点が重要である。2024年の東京庭園美術館での展示(青木野枝との二人展)のときと同様に、彼女が愛し自分のルーツとするヴェネチアンガラスという伝統に深く根ざしながらも、その枠組みを抽象的に拡張している。

Fig.9 沖潤子《月と蛹 01》(2017)の展示風景 撮影:池田紀幸

 2021年の「GO FOR KOGEI」の石川県那谷寺での展示と同様、7つの作品が鉄枠に貼られて衝立のように立ち、奥の窓から差し込む自然光が柔らかく生成りの綿や麻布を透かせて見せているのが、沖潤子の刺繍作品である(Fig. 9)。生成りの布に赤い糸が執拗に刺し重ねられ、血や皮膚、かさぶたを思わせる。母の遺品や古布を素材にし、長い時間をかけて刺繍を重ねる行為は、修繕やケアを担ってきた女性労働とも重なる。展示室の真ん中に位置する3点の「月と蛹」シリーズでは、自らを蛹(サナギ)に重ねながら、夜通し針を刺し続けて外皮を成形し、最後は自分の身体ごと溶けてなくなってしまい羽化するような、神秘的な長い時間について語っている(*14)。一針一針の動きと針目の堆積に記憶された時間をじっくり読み取らなければならないのである。布や刺繍は長く「女性的」「家庭的」なものとして周縁化されてきたが、近年のクラフティヴィズムやフェミニズム批評によって再評価されている。沖の作品もまた、手芸とアートの境界を横断しながら、時間と身体の記憶と感覚を強く呼び起こしている(*15)。

Fig.10 シゲ・フジシロの展示風景 撮影:池田紀幸

 シゲ・フジシロの空間では、環境破壊や消費社会の問題が非常にストレートに表現されている。対になったビーズによる巨大なバスケットボールのゴールと滝のように流れるネットの作品がまず目につく(Fig. 10)。右のゴールに留まる孔雀の長く垂れる羽と呼応してイヴニングドレスの裾のように華麗に流れるビーズの網は、孔雀色のヴェネチアのラグーンの水を思わせる。いっぽう左のゴールに垂れる網は、黒のビーズで汚染や乱獲を暗示している。人を指すこともできる安全ピンでつながれた美しいビーズの細かいガラスは輝き、天井から下がるシャンデリアや自然光とも乱反射して、繊細で危険でフラジャイルな世界ができあがっている。部屋の隅には、すべてビーズ製のブランドロゴ入りショッピングバッグやゴミの山がある。赤白の三角コーンや黄黒の立ち入り禁止ベルトが自然と人間社会の境界を示している。2羽のドイツのカラスが、最先端のファッションが詰まっているであろう洋服ダンスの上から街に溢れているゴミや私たちを凝視している。ビーズはいま、布と同時に非常に注目されている素材である。ヴェネチアで社会から周縁化された女性の労働でつくられたビーズが欧州の植民地貿易により西アフリカに広まり奴隷貿易にも使われた「アフリカンビーズ」のもたらした搾取の歴史がここでは蘇る(*16)。 そして、先住民社会の視点から論じる「ビーズ・トーク(Bead Talk)」が強調するように、ビーズは静止したものではなく、アクティヴな媒体となり長い時間の記憶や精神性を持ち運び、対話を生み出す。フジシロの作品においても世界観を語ることができるビーズという素材についての考えを深めることができる(*17)。

Fig.11 舘鼻則孝の展示風景 撮影:池田紀幸

 舘鼻則孝の展示では、天井から下がりシャンデリアも包み込む薄水色と赤の組紐の簾に囲まれた空間に、3足のヒールレスシューズと真紅の花魁の履く45センチもある高下駄が商品のように置かれている(Fig. 11)。レディー・ガガがライブで履いたことで一躍有名になったエンボスレザーの作品とは違い、龍工房とのコラボで組紐と「結び」が全面に施されている。裏表の色を巧みに使い分け、江戸的な「粋」を現代的に再解釈している。花魁が高下駄を履くときの不安定さや緊張感を現代人の身体へと接続し、伝統技術をファッションと身体表現へ結びつけている。

編集部

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