ヴェネチアのピンク色のバナー
会場はヴェネチアのもっともアイコニックなリアルト橋からほど近い静かな裏路地にある。15世紀のヴェネチア・ゴシック様式で有力貴族ピザーニ家の邸宅のひとつである(Fig. 1)。1、2階の約500平米の空間をクラパット・ヤントラサストがデザインした。入り口は裏道沿いにあり建物の裏側は支流の運河に接している。暗い空間の奥に運河からの強烈な光が切り取られた窓のように見え、朽ちかけた木造の内装には、長年積み重なった人々の生活の痕跡が深く染み込んでいる。これまで「GO FOR KOGEI」シリーズが北陸の寺社や町屋で繰り広げてきた展示空間を想起させ、土地も歴史も異なるはずなのに、不思議なほど共通する「歴史の堆積」を感じさせ心地がいい。本展の核には、アーティスティック・ディレクターの秋元雄史が長年温めてきた、「身体と物質の関係をいかに制作のなかで統制し、あるいは委ねるか」(*1)という問いがある。そのうえで、「GO FOR KOGEI」を通して関係を築いてきた作家たちと、新たに加わった作家たち計10名による約100点の展示となっている。
会場へ向かう小さな橋からは、サイケデリックなピンク色のバナーが見える。このピンクはヴェネチア特有の淡いコーラルピンクでもなく、プレビュー期間中のヴェネチア・ビエンナーレ会場で抗議表明をしたプッシーライオットや、あるいはビエンナーレ企画展の参加作家である嶋田美子の「おまえが決めるな!」のバナーが象徴するフェミニズム的実践とも多少呼応しながらも、どちらかというと現代のアジアの消費社会を象徴する超人工的な日常のピンクだろうか。ともあれ、この展覧会は現代社会の批評を切り口として、「工芸」を近代的な「美術/工芸」というヒエラルキーから解放しようとする試みであり、その背景には1990年代以降の工芸論の蓄積がある。

日本では1990年代初めに金子賢治が「工芸的造形」という概念を提示し、素材や装飾、触覚性の問題を美術批評のなかへ導入した。いっぽう英米ではグレン・アダムソンらが、工芸が「美術」に従属させられてきた構造そのものを問い直した。それは工芸が周縁化されてきた背景に、近代国家、植民地主義、知識の再生産装置としての美術制度と、それを操るエージェンシー(行為主体性)が存在するという視点である。秋元自身の脈絡のなかでは、遡って2012年の「工芸未来派」展(金沢21世紀美術館)で同様の問題が金沢から発信され、巡回したニュヨークではグローバルな議論と交差しながら問い続けている課題である。「工芸独自の技法を用い、工芸独自の歴史観を参照しながら、今日の表現になろうとする主体性」をどのように見出せるだろうかという問いを、表面や装飾、土着的なもの、技術、触覚などを工芸的なものの特徴として探り、再評価の仕方へとつなげてきた(*2)。近年のヴェネチア・ビエンナーレでも、女性・クィア・移民・先住民など、歴史的に周縁化されてきた主体を再評価する流れのなかで、工芸的表現が急速に存在感を増している。本展もまた、そのグローバルな議論と呼応しながら、日本から工芸を再定義しようとするものだ。
作家と作品
選ばれた作家は多様である。アダムソンが工芸をたとえて「星座(constellation of stars)」(*3)と言うように、無関係に見えながら関係がありそうに見えてくるもの、またグレイソン・ペリーの言うような、果てしない大海とつながりながらも囲われた「潟(lagoon)」(*4)のなかで工芸的な特徴を探すという隠喩がぴったりくる組み合わせである。
入り口でまず観客を迎えるのは、コムロタカヒロによる一対のドラゴン像である(Fig. 2)。これはポスター、そしてピンクのトートバッグのデザインにもなっている。寺社の阿吽像や狛犬を思わせる配置だが、その姿はアニメやソフビ玩具のキャラクターである。ヴェネチアのサンマルコ広場にある聖ゲルギオスと悪の象徴竜退治の神話の像は、キリスト教世界においてもっとも広く人口に膾炙する正邪の表象だが、『ドラゴンアトラス』(*5)が示すようにドラゴン神話は世界中にあり、それは現代のサブカルチャーにも生きている。コムロにとってドラゴンは、日本のサブカルチャーの魅力的存在であると同時に、新興宗教の家庭に育ち、そこから離脱した自身のトラウマとも重なる「神聖」な存在であるという。信仰を失った後に残る空白を埋めるものとして、ドラゴンは極めて個人的な意味を帯びている。仏像と同様の木彫であり、胡粉を思わせる繊細な彩色がされた表面の表情が独特である。背後には対のゾーイとキーラのスフィンクス像があり、中二階には小型木彫のキャラクター作品が並び、宗教性、玩具文化、工芸技術が独特に混ざり合う世界が形成されている。

会場中央には、桑田卓郎のインスタレーションが広がる(Fig. 3)。色鮮やかな失敗作のマグカップが無造作に積み重ねられ、その上に巨大な作品が立ち上がっている。通常であれば廃棄されるものをあえて作品の一部に取り込み、大量廃棄される陶器のゴミ問題に触れている。巨大な作品には白の梅花皮(かいらぎ)がアイシングされたチョコレートマフィンのような塊、表面に桑田の指でマーキングを残したボディに、黄色と青に金の突起がある点滴の塊が2つ、そして高さ約1メートルの光沢のある原色緑のウレタン塗装釉が垂れている巨大なバケツ状カップがある。これは陶器に見えてじつはブロンズ製であり、工芸と彫刻、美術と工芸の境界を揺さぶる作品となっている。秋元が「工芸未来派」展以来、桑田に強い関心を寄せてきた理由は、桑田が「茶碗」という日本独自の美意識を、現代的身体感覚によって日本から再評価しようとしているからだろう(*6)。またデイヴィッド・ステントが言うように、桑田の「破壊的な造形性(Destructive Plasticity)」は新しい価値組み替えの可能性をグローバルにも刺激している(*7)。

































