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身体感覚を研ぎ澄ますという静かな抵抗。菊池裕子評「身体と物質のエスノグラフィー 加速社会における遅さと深さ」展【2/4ページ】

Fig.4 綿結《プラトニックダンサー》(2026) 撮影:池田紀幸

 梁から重く垂れ下がる赤みがかった土色のファイバーアートは綿結の作品である(Fig. 4)。大学院を卒業したばかりの気鋭である。この修了制作の作品は、綿で糸を捻り、金沢の土で染め、織る、組む、絡める、結ぶなどの各種技術を駆使している。素材と身体が不可分となっていて、機織りで織ったもの、二重織で袋状になったもの、そして巣──3点がつなぎ合わせられてひとつの作品になっている。この巣は、木箱を支えに蜘蛛にならって「起点から次の支点に糸を張り、規則性を持って糸を固定していく(中略)糸が塊になっていき、自分の周りを囲うほどになったら、蚕のように自分が中でくるくる回りながら糸を追加していく方法」でつくったという(*8)。バスケタリーの構造力学を用いて素材のもつ特性と技術の関連性の文法を編み出した関島寿子のような、構造を模索する実験である(*9)。

 綿結の作品は、2022年のヴェネチア・ビエンナーレで話題になり、バービカン・アートギャラリー(ロンドン)で個展「Unravel」 展(2024)、そしてロイヤル・アカデミー(ロンドン)で回顧展(2025)が開かれた、ムリナリーニ・ムカジー(Mrinalini Mukherjee)を思い出さずにはいられない。ムカジーの作品は、ロープや麻糸でつくられたおどろおどろしい神々であるが、女性性、植民地主義、階級社会の問題を提示している。綿結自身は素材を身体感覚から選んでいるが、綿という素材は、奴隷労働や搾取の国際的文脈から切り離せない。「Unravel 」展で明確化されたように、布やファイバーには素材や身体(とくに女性の)と直結した強い表現力が内在し、ローカルな個人の身体性から出発しながら、グローバルな政治性とも接続するストーリーができてしまうのである。

 ファイバーアートが現在、世界的に再評価されている背景には、こうしたジェンダーや植民地主義の問題が存在している。しかしこうして境界に穴を開け、中心性を排除する力を世界的に見せつけたいっぽう、工芸の問題はそう簡単に失せない。ロイヤル・アカデミーという美術のハイアートの殿堂で行われた際、ムカジーの作品は「編まれた彫刻(woven sculpture)」と評された(*10)。そしてもっとも皮肉だと思われたのは、作家のインド・ムンバイでの複雑で多様なアートコンテクストを咀嚼せず、インターナショナルなモダニスト彫刻として紹介したということだ(*11)。これは「インド」「女性」というだけで民族学的フォークアートとして扱われてしまい、現代アートとして評価されにくくなる境界があるためだ。ここで、綿結というファイバーアーティストを日本の外で紹介するときに抱える深刻な問題が見えてくる。現代のローカルな脈略をもつ非西欧白人であり、女性であるというインターセクショナルな要素をもち、さらに工芸的なものでもあるからだ。強靭でびくともしない階級人種社会がある英国などで現代的な共通言語を見つけるのは、日本からは想像もつかないほど至難のわざである。そのような場所で展示するときにどのような語り口が必要なのか、どんなタイトルで人は何を想起するのかなど、受け手がどのような社会的コンテキストのなかに生き、どのような二項対立思想を持っているかによって、対話の可能性を広げたり、失ったりすることになるだろう。構造、組織、染めに使う金沢の土に原初的な興味をもつ綿結が今後、その個人の身体性にどのようなグローバルな共通項を見つけていくのか期待が大きく膨らむ。

Fig.5 牟田陽日の展示風景 撮影:池田紀幸

 牟田陽日の3点の巨大な壺の展示は、運河へ開かれた空間に配置されている(Fig. 5)。老年と若年の心臓を描いた《脈打つ洞》という題の壺が中央に、山の動物や植物たちが絡みつく山男が左、口に魚をくわえ海の幸を背負っている磯女を描いた壺が右に並び、その周囲には北陸の山や海の写真をプリントしたクッションが置かれている。牟田の作品が置かれた展示室の突き当たりは外の運河とつながる船寄せの開口となっている。心臓は「生命のポンプとして会場と運河、ベニスの都市、作家と観客」をつなげ、「性別、人種、地域、今昔」をつなげようという意図がある(*12)。柳田國男の『遠野物語』や世界の神話が描く人間界と自然界の交錯する神秘、北陸土着の文化風土などがトランスナショナルな想像へつながる。磯女は美しく怖い妖怪で、加賀国に伝承する浜姫、西欧の人魚など男の船乗りが投射するジェンダー化された恐怖、そして「玉取り姫」という子と夫のために自己犠牲になる海女のイメージとも重ねられている(Fig. 6)。

Fig.6 牟田陽日《磯女》(部分、2025)陶器 撮影:池田紀幸

 ここでは日本文化にかぎらず世界中で周縁化されてきた女性が問題化されている。古いものから新しい神話を批評的につくり、中心から外されてきた文化や工芸の再評価につなげる牟田の戦略は、カミーラ・マーティンの提案する「呪術戦略のフェミニズム(Conjure Feminism)」や、シアスター・ゲイツが実験する「アフロ・クラフト・フューチャリズム」がジェンダーや人種の問題に創造的なアプローチで挑戦することに似ている。ここで重要なのは、牟田の九谷伝来の釉薬や技術にひねりを入れた使い方である。例えば、心臓の薄く透明感のあるピンクは、伝統的な九谷の赤絵に使われてきた有鉛の酸化鉄の不透明なものではなく、金微粒子と和絵具の材料ガラス粉砕物のフリット(しかし現代的に無鉛)と洋絵具の中間色の赤が混ぜられた新しいハイブリッドである。また、凸盛(でこもり)という明治時代に輸出されていた九谷焼のインパクトある装飾技法を使い、青い背景に金で心臓を囲む神経・血管・リンパ・細胞等と、植物・根・太陽・光などの自然のモチーフを組み合わせたヴェネチア風の紋章が描かれている。明治以来の九谷焼の技術革新の流れも引き継ぎ、牟田の工夫により透明感・光沢・層の厚みを醸し出す物質観と表面の装飾から、現代のナラティブが一体となってつくられている。

Fig.7 川井雄仁の展示風景 撮影:池田紀幸

 さらに進んで川井雄仁の展示室に入ると、低い天井に雑誌の切り抜きやアイドルの写真に囲まれるように陶器の作品が並ぶ濃密な空間がある(Fig. 7)。カラフルなトッピングのあるアイスクリーム状の陶造形から精液のように噴水が噴き出し、三島由紀夫、『ヴェニスに死す』のタビオ、特攻隊の青年たちの有終の美への憧憬、若さへの執着、ナルシシズム、死への欲望が入り混じっている。個人的なセクシュアリティの自分史を振り返りながら、陶芸を通して身体感覚と欲望の記憶を語る作品であり、どこか甘美で危うい。三島由紀夫の永遠の肉体への執着とも重なりながら、現代人が芸術や宗教を失った後に抱える空虚さも浮かび上がらせている。四方の壁に繰り返し埋め込まれた三島のポートレートは、そんな永遠の若い生と身体美への溺愛と執着が、甘いアイスクリームの舌触りと重なり、脳裏に濃厚にしみつく。現代社会には「性的放縦と殺人の観念を、水にうすめて、ヴィタミン剤のやうに供給し(中略)いたるところにエロチシズムが漂ひ、従って死の匂非が浸透している」毎日があると書いた三島のエロティシズムと、川井流の身体感覚を通した陶芸の新しいナラティブがこの部屋には充満している(*13)。

編集部

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