副田一穂 年間月評第2回 「アルチンボルド」展 騙し絵の絵師、まだ?
アルチンボルドがウィーンに招かれる以前に描いた最初期の寄せ絵に基づく版画の胸像は、まるで菊人形のように、確かにそこに立っている。強力な接着剤でもなければすぐにでも崩れ落ちてしまいそうな多くの寄せ絵と違って、本展の冒頭に示された「自然描写の集大成」たる《四季》を含む幾つかの作品には、版画同様の実在感を見てとることができる。だとすれば、ここで言われている「自然描写」には、寄せ集められた個々の要素と、それらを統合した一体の像という、ふたつの異なる水準の対象があることになる。
約80種の草花を描いた《春》や、60種類以上の魚介類からなる《水》のように、構成要素の数を強調する記述の背後には、画家の自然物への博物学的な関心が措定されている。実際、自然科学研究が飛躍的な発展を遂げたこの16世紀という時代における、フックスの『植物誌』やヴェサリウスの『人体の構造について』、そしてマッティオーリの『ディオスコリデス薬物誌註解』といった、数々の輝かしい業績に連なるように位置づけられることで、アルチンボルドの絵画はある種の必然性を獲得する。加えて本展は、小動物を直に型取りしたブロンズ像や、まるで紙の上に置かれているかのように影を付された甲殻類の騙し絵的な素描によって、自然描写を支えていたad vivium(生き写しの)という考え方の中にも、対象の何をどのように再現するかについていくつものヴァリエーションがあったことを、手際よく示している。
他方、胸像としての構造を強く意識した《夏》や《秋》、ほぼ一木からなる《冬》、上下絵、あるいはアルチンボルドの追随者たちによる擬人化された風景は、素材の豊富さにではなく、全体像がいかに自然であるかに成功の鍵がある。アルチンボルドを、ダ・ヴィンチの壁の染みからダリのパラノイア的=批判的方法へと至る「潜在的イメージ」(ダリオ・ガンボー二)へと引き寄せているのは、この手の自然さにほかならない。
本展が控えめに扱っている騙し絵画家としてのアルチンボルドと、本展が積極的に提示する前述の自然科学者然としたアルチンボルド。画家のふたつの横顔に共通して備わっているのは、絵画を言語として読解しうるという信念だ。この発想は、アルチンボルドを稀代の修辞家と呼び、上下絵を回文に例えたロラン・バルトの専売特許ではない(ちなみに、バルトも半ば認めているが、上下絵は回文ではなく倒語に比すべきだ)。アンドレ・ブルトンは、『魔術的芸術』でアルチンボルドとその追随者たちによる擬人化された風景に「暗号文」という比喩を採用しているし、そもそも存命中からすでにこの画家は、ヒエログリフを駆使するエジプト人に例えられていたのだ。だが自然が紙の表意文字だという解釈は、物質的な重さを持たない文字のように完全で理想的な種の姿を描こうとする同時代の科学とは相性が良いいっぽうで、冒頭に挙げた《四季》や上下絵のように、そこに存在する物を見たままに模倣しようとする絵画とは、実は相性が悪い。というのも、そのとき文字は文字として読まれるのではなく、受肉した形態として見られているのだから。