副田一穂 年間月評第11回 「澤田華 見えないボールの跳ねる音」展 再現の際限
展示は、ある本に掲載された1枚の写真から出発する。そこに写っているのは、TVシリーズ『Mr.ビーン』(1990〜95)で知られるイギリスのコメディアン、ローワン・アトキンソンだ。写真の中の彼は、少し欠けた白くて円いものを右手に、銀色のワイングラスのようなものを左手に持って、とぼけた表情で立っている。本展は、外形的にはこの白くて円いものがいったいなんであるのかについての調査の記録から成る。
その調査方法は、例えば美術史家がある絵画に描かれた不明瞭な対象の正体を同定するために踏むプロセスと大きく異なっているわけではない。とはいえ、ここで提示される仮説は草加せんべいやソースせんべい、餃子の皮、あるいは干し大根といった愚にもつかないものだし、根拠となる資料もWikipediaをはじめとするウェブサイトを印刷したものに過ぎない。これらの事実は、この調査の記録が信頼に足るものではなさそうだということを一義的には示している。もちろん研究者ではなく芸術家である澤田華の本来の目的が、この白くて円いものを同定すること自体ではないのは明らかだが、では研究者ならば仮に思いついたとしても即座に却下するような馬鹿げた仮説を冗長に検証してみせることによって、澤田はここでいったい何を問うているのだろうか?
じつのところ、本展の主眼は画像(pictures)が対象を再現する仕方についての哲学的な考察にほかならない。そもそも白くて円いものの正体については、「The priest absently takes a bite from the wafer and then dips the uneaten half in the chalice of wine, finishing it off, during the next bit of dialogue(次のセリフのあいだに、司祭はうっかり聖体をひとかじりし、残り半分を聖杯のワインに浸けてたいらげてしまう)」(展示作品より)という台本=さしあたっての解答がすでに展示のなかで示されている。この解答(つまり「聖体」)がまさに物語っているように、言語による再現は、画像がそうであるような曖昧さを許容しない。
このような画像を見るとき、わたしたちは再現されている対象のクラスに対して、暗黙裡になんらかの制限を課している(「この写真はソースせんべいを再現している」とは言っても、「欠けた円を再現している」とは言わない)。また、白くて円いものは月や電球や削り出された石などいくらでも存在するが、いちいちそれらをすべて思い浮かべる必要もない。というのも、目下の白くて円いものはその周囲のいくつかの対象との適合性という点から、片手で持てる大きさや重さでかじることができるものであるという推測が十分に可能だからだ。
いっぽうで、本の掲載写真を複写したデジタル画像をもとに、白くて円いものの色をRGB値で示したり、そのデジタル画像をモニター上で拡大するさまを見せたりすることは、再現の対象を同定するのには役立たない。画像が示す色やかたちが、再現の対象の色やかたちを部分的に共有しているのは明らかだが、その画像をデジタルデータに変換した際の各種の数値や画素の配列自体は、再現された対象の性質ではなく、複写の持つ統語論的な性質である。もちろんわたしたちは画像を見るとき、画像の表面に気づきつつ、同時にそこに描かれている画像の内容に気づいているが、画像の表面の性質は画像の内容について何かを教えてくれるわけではない。この画像の画像という二重構造を強調するために、澤田はオリジナルの画像を差す指を繰り返し写し込む。「これ」と言う
さて、最後のフロアで澤田はふいに調査の矛先をアトキンソンの右手から左手に変更する。といってもワイングラスのようなものの正体は、聖餅に対応する聖杯であることに疑念の余地はない。問題は、聖体を持つ左手首あたりに見える黒い妙な模様だ。それは周囲の事物からは明らかに浮いており、「アトキンソンの左手にタトゥーがある」、あるいは「裂け目から何者かが覗いている」といった直感的にもっともらしいとは到底言いがたい仮説を提示せざるを得ない。つまり、前者は画像が再現する対象の側の色とかたちについての、そして後者は物理的な裂け目という画像の表面の色とかたちについての、ありえそうもない仮説である。
このようにして本展は、一見再現の対象の際限のない拡張可能性を問うているようなふりをしながら、実際には画像が対象を再現するとはどういうことかという込み入った問いについての解像度を引き上げようと試みているのである。