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2018.4.5

桂離宮にミースを見た写真家。
副田一穂が見た「モダニストの日本美―石元泰博『桂』の系譜」展

伝統的な日本美と西洋のモダニズムの親和をとらえた写真家・石元泰博。桂離宮を撮影した代表的シリーズと、その周縁が記録された資料から、石元の日本美を読み解く。

文=副田一穂

展示風景
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副田一穂 年間月評第10回 「モダニストの日本美―石元泰博「桂」の系譜」展 作品・資料の再配列リアレンジメント

 人目を引く派手な作品も、凝ったディスプレイもない。展示台やのぞきケースに書籍や雑誌が整然と並んだ本展の構成は、美術館ではしばしば揶揄めいたニュアンスを込めて資料・・展示と呼ばれる類いのものだ。だがうんざりしそうな量の誌面を順に追ってゆくうちに、いつしかじつはまったく逆の事態が展示室の隅々にまで生じていたことに気付かされる。

「モダニストの日本美」とは、さしあたっては近代的な視点で過去の日本文化を見通し、そこにひとつの美のあり方を仮構しようとする態度のことだと言ってよいだろう。それは、現存する様々な日本の文物の中から、西欧合理主義に合致する要素だけを文字通りクローズアップする(言い換えれば、そのほかの部分を極力見ない)ことで組み立てられる。この「日本美」を視覚的に十全に示すためには、岸田日出刀が『過去の構成』(1929)において古建築の幾何学的細部のみを切り出したように、あるいは石元泰博が『桂 日本建築における伝統と創造』(造形社、1960)においてむくり・・・のついた屋根をばっさりとトリミングしたように、カメラの視野、写真のフレームこそがもっとも有効なツールとなる。

 その切り飛ばされた余白には、例えば東京帝室博物館(現・東京国立博物館本館)を代表例とする「帝冠様式」の瓦屋根も含まれていただろう。同館競技設計の応募規定に盛り込まれた「日本趣味ヲ基調トスル東洋式」は、モダニストたちからは「偏狭ナル個人的趣味」にすぎぬと即座に反発を招いた。それと同様に、『画帖――桂離宮』(岩波書店、1934)に折本形式を採用するブルーノ・タウトの「個人的趣味」もまた、都合よく視界の外に追いやられて言説のみが際立たせられてきた。会場で手に取ることができるこの折本の復刻版を実際にめくってみれば、桂を散策するタウトの視点が、モダニストのそれと必ずしも一致しないことが了解されよう。

岸田日出刀『過去の構成』(構成社書房、1929)

 学生時代をシカゴで過ごし、ミース・ファン・デル・ローエ設計のレイク・ショア・ドライブ・アパートメントで建築写真のあおり・・・の練習を行っていた石元泰博は、数年後に桂離宮を撮影しながらそのことを思い出していた。水平・垂直を極端に強調したこの石元の桂写真こそ、まさに「モダニストの日本美」のひとつの到達点であるとする本展の主張はもっともだ。が、事態を複雑にしているのは、石元が時をおいて2度桂を撮影しており、またそれが大別して4つの異なる写真集として流通しているという事実である。前述の『桂』は、1954年撮影のモノクロ写真をバウハウスのデザイナー、ヘルベルト・バイヤーがレイアウト、ヴァルター・グロピウスと丹下健三が解説を付して60年に刊行された。続いて71年、同じ写真を亀倉雄策が新たにレイアウトした改訂版が刊行される。そして81年、石元は桂をカラーで改めて撮影し、その写真を田中一光がレイアウト、磯崎新が解説を付した『桂離宮 空間と形』(岩波書店)が83年に刊行される。さらに2010年、これまでに撮影した写真を組み合わせてモノクロで統一した『石元泰博 桂離宮』が刊行された。

石元泰博 楽器の間広縁前の雨落排水溝と飛石 1953-54 ゼラチンシルバープリント © Kochi Prefecture, Ishimoto Yasuhiro Photo Center
石元泰博 桂離宮 新御殿外観南面部分 1981-82 ゼラチンシルバープリント © Kochi Prefecture, Ishimoto Yasuhiro Photo Center

 さて、展示室には定寸で焼かれたモノクロプリントが撮影の時系列とは無関係に整然と並んでおり、鑑賞者はこれらが掲載された4種の写真集を手元に置いて、それぞれを見比べることができる。だが、例えば磯崎新が「これが同じ桂か」と強調するほどには、初回と2回目いずれの撮影によるものかは、展示されたプリントを見るかぎりでは判然としない。そもそも石元が再度の撮影を敢行するに至った背景には、6年の歳月と9億円もの巨費、延べ4万人以上を動員した空前の大規模修理を経た桂の姿、とりわけその内装を記録に残す意図があった。石元の初回の撮影に先立つこと数年、画家の長谷川三郎は誌面に桂とモンドリアンの図版を並べながら、日本文化の機能主義と簡素さ、その技術的完成に気付かない人々に向け、執筆前年の法隆寺金堂壁画焼損にふれて「我々は――現代日本人は――何もかも焼いてしまう危い関頭に立っているのではあるまいか」と警鐘を鳴らしていた(が、それもむなしく1949年から翌年にかけて松山城、福山城が焼損、長楽寺本堂、金閣寺が焼失と1年半で国宝建造物5件を焼き、その代償として文化財保護法が施行された)。

 法隆寺金堂壁画の焼損は、戦時下で中断していた模写事業が再開した矢先の失火によるものであった。ものを克明に見ることは、すなわち対象を光と熱でなぶり、緩やかに(そしてやり方を誤れば即座に)破壊することにほかならない。現実の建築やその直接的な写しは、現象に脅かされて純粋さを保てない。印刷物という編集された世界においてこそ、その純然たるコンセプトは十全かつ半永続的に実現される。「モダニストの日本美」は、実在の建築にでも壁に掛かる作品にでもなく、静かに横たわる資料・・の中にこそ宿る。