20年前ほど前に、バルセロナ現代美術館(MACBA)で見た光景をいまも時々思い出すことがある。どういうテーマの展示だったか忘れてしまったが、そこではロベルト・ロッセリーニの映画『ドイツ零年』(1948)が、ほかのさまざまな美術作品とともに「展示」されていたのだ。もちろん映画館ではないので、モノクロの画面はどこかぼやけており、音もはっきりとは聞き取れない。ただ、わたしは不思議と、すでによく知っていたそのネオレアリスモの映画に見入っていた。映画を丸々一本「展示」することができるという、美術館(博物館)の特異な機能に関心を寄せはじめたのも、おそらくその頃だった。
これに関連して、やはりいまから20年ほど前の東京で見た、もうひとつの展示を話題にしておこう。当時(2003年)、東京オペラシティアートギャラリーで行われたエイヤ゠リーサ・アハティラの個展のことだ。アハティラは1959年生まれのフィンランドの作家であり、その作品が日本国内で紹介されるのはほぼ初めてのことだった。
当時は、いまほど美術館に映像インスタレーションが氾濫していなかったこともあり、この展覧会はその後もしばらくわたしの記憶にとどまった。そこで何が特徴的だったかといえば、《ハウス》(2002)をはじめとする作品の大部分が、複数のスクリーンからなる映像作品であったことだ。この種のマルチスクリーンの使用はいまではそう珍しいものではないが、若かった当時の自分にはそれなりに強い印象を残した。よくよく考えてみると、こうした大画面のマルチスクリーンというのは、数ある視聴環境のなかでも「映像インスタレーション」にのみ許された形式だと言ってよい。映画館にせよ、おのおののスマートフォンにせよ、基本的にわたしたちが同時に視聴するのは「ひとつの」映像である。これに対し、しばしば空間を取り囲むように設営される映像インスタレーションは、複数の映像を──もっぱら不完全なかたちで──見るよう、鑑賞者に要請するのだ。
この小文に与えられた(編集部からの)課題は、美術館やギャラリーにおける映像作品について考察することである。ただし、どうもそこで前提とされているのは、美術館やギャラリーにおける映像作品の評判が総じて悪い、もっと言えば、それらをどのように見ればよいかわからないというネガティブな反応であるようだ。もちろん、そのさいに挙げられる理由の多くは、おおむね同意できるものである。つまり、冒頭で挙げた『ドイツ零年』のように、そもそも映画館のような視聴環境を理想的とする大半の映像作品にとって、ホワイトキューブはけっして望ましい展示=上映環境ではない。そこではほかの作品と干渉しないように音量を極端に絞ったり、場合によっては無音にせざるをえないこともあるだろう。また、原則的にループ上映を基本とする展示形態にしても、本来あるべき始点と終点がなし崩しになることで、眼前の映像をまとまった作品として視聴する妨げとなる。また、映画館とは異なり多くの座席を並べることのできない展示空間では、ほとんどの鑑賞者は長時間立ったままで──すなわち身体に負担をかけながら──映像を見ざるをえない。
おそらく以上のような理由から、展示空間における映像上映、ないし映像インスタレーションに苦手意識をもつ美術愛好家は少なくないだろう。拙文の目的は、そうした趨勢に対して反論を試みることではない。だが、以上にその特徴を列挙したような作品について考えてみるとき、そこでは映像をめぐる数々の先入観をくつがえす契機が見てとれることも事実である。ここから先では、展示空間における映像作品の原理的特徴をいくつか挙げたうえで、それを積極的に利用した映像インスタレーションを紙幅の許す範囲で紹介したい。