クリテリオム93 益永梢子「Daily Routine」展 exposition/imposition 沢山遼 評
本展には、益永梢子が近年取り組む、アクリルボックスに複数のキャンバスを収めた作品が複数出品された。益永の制作の中心には、一貫して絵画という媒体がある。だが、知られるように益永の活動において、絵画はきわめて多様な実践となって表現されてきた。益永の作品にあって、絵画は、周囲の空気や気流を巻き込み掴みながら解体-展開、そして分解-再構築を繰り返す動的な対象である。彼女は、静止し、固定したイメージとしての絵画のあり方を疑い、絵画を例えば衣服づくりにも似た眼と手の連携からなる、立体的で動的なプロセスに開かれたものへと変えてきたのだ。
本作においてキャンバス(布地)は、折られ、畳まれ、巻かれ、切られ、包まれる等々の複数の挙動を見せながら、透明なボックスの中で複数のブロックを形成する。これらの作品は、アクリルボックス以外は基本的にキャンバスと絵具というオーソドックスな素材から成立するが、同時に私たちの常識的な絵画理解を逸脱する。その印象は、複数のキャンバスが、透明なボックスの中で相互に寄りかかり、押し合いへし合いする、物体としての現実性によってもたらされるものだろう。複数のキャンバスは、ボックス内で特定の区画を占めるブロックとなり、支えるものと支えられるものとの拮抗と干渉からなる力学場を成立させているのだ。
ゆえに、本作に見られるのは、絵画における「支持体」という言葉が、その意味を引きずったまま、複数の意味場に引き裂かれる様である。支持体(support)とは通常、絵画の素材となる木枠やキャンバス地のことを言う。支持体は、絵画の顔料や視覚表象を支える物理的条件である。だが、本作では、アクリルボックス内で支持体こそがほかの支持体に支持され、かつ、ほかの支持体を支持している。つまり、ここでは「支持体」という言葉の意味の分岐が生じているのだ。ここで暗示されているのは、支持体が、絵画の視覚表象を「支える」ものであると同時に、重量を持つ物体としてほかの物体を「支える」ことの重層性にほかならない。
益永は、「Daily Routine」と名付けられた本展で、作品を日常生活のなかで感じるさまざまな重さと関連づけて構成したという。日常生活において重さは、フライパンやタオルを「持つ」こと、すなわち手の介在によってもたらされる。すなわち、本作において示される「支持体」の意味の分岐は、ちょうど眼と手の分岐に対応する。言うまでもなく、この眼と手の連携という図式は、益永のこれまでの仕事に接続することが可能である。
おそらくこの眼と手の連携を背後から可能にしているのが、キャンバスが「布」として持つ物体としての多様な現れだ。物理的に屈折展開するこれらのキャンバス地が思わせるのは、日常生活における「布」の諸機能にほかならない。私たちは装飾の歴史がテキスタイルというメディウムなしに語り得ないものであることを知っている。だが同時に、私たちの日常において布は、衣服、シーツ、テーブルクロス、カーテン、風呂敷にいたるまで、包むこと、外気や視線を遮る防御性を持つものとしてある。つまり、布は外界への表象と外界からの遮蔽という二重性を持つのである。
「exposition」という言葉がある。これは、展示すること、見せること、すなわちさらけ出し、露呈することを意味する。通常、絵画がもつのはこの「exposition」の原理である。だが、益永は本作において、キャンバスをロール状に巻き、見えない箱を梱包する。それは、そこに「imposition」つまり折り込み、組み込むことの原理を付け加えることである。それは、視覚的原理である「exposition」に運動的原理となる「imposition」を巻き込むことだ。本展企画者の井関悠が言うように、本作では、絵画的な可視性とともに、梱包されたものの中身が見えないことによる不可視の領域が確保されている。本作では、それが布(キャンバス)というメディウムに内在する、自らの姿を可塑的に変形させる力を引き出すことによって生じていることが重要である。そして、布のこの可塑的な力は、益永の手によってこそ導かれる。
つまり、この作品に見られる可視性と不可視との拮抗は、折られ、畳まれ、巻かれ、切られ、包まれる等々の、布が手とともに可能にするあらゆる力動を全面的に駆動することによってこそ可能にされている。布が持つ遮蔽と屈折展開の力学は、絵画空間を複数の知覚、運動、物質が干渉し、連続する力学場へと変貌させる。それはつまり、絵画が、「exposition/imposition」が相互貫入する視覚的・運動的錯綜体となることである。それは、眼と手の複合をつくりあげることだ。益永梢子の作品に見られるのはこの原理である。