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「川合玉堂―なつかしい日本の情景―」(山種美術館)開幕レポート。ノスタルジーを風景に託した玉堂の画業を辿る【2/4ページ】

第1章 研鑽の時代―明治期

 会場は4章で構成されている。「第1章 研鑽の時代―明治期」では、玉堂が明治期に手がけた作品が展示され、若き日の画業の歩みを辿ることができる。1873年に愛知に生まれ、岐阜で育った玉堂は、87年、13歳で京都の画家・望月玉泉のもとで日本画を学びはじめる。会場で紹介されている15歳のときに描いた《写生画巻》(1888)からは、写生を忠実に行う円山・四条派の教えを早いうちから実践していたことがわかる。

川合玉堂《写生画巻》(1888)紙本、彩色、巻子(一巻) 26.5×654.5cm 玉堂美術館
川合玉堂《鵜飼》(1895)絹本、彩色、軸(一幅) 158×85.3cm 山種美術館 第4回内国勧業博覧会の出品作

 その後、さらなる高みを目指すべく、円山・四条派の幸野楳嶺(ばいれい)の門に移り、同じ門人たちと切磋琢磨し合いながら制作を続けた。楳嶺が他界した1895年、玉堂は第4回内国勧業博覧会に出品する。そのときに制作したのが《鵜飼》(1895)だ。当時22歳だった玉堂は、少年時代を過ごした岐阜の代表的な風物である長良川の鵜飼を描き、三等銅牌を受賞。本作の構図は円山応挙の《鵜飼図》(1770)に類似しているが、「鵜飼」をテーマにした作品は生涯を通じて繰り返し描くこととなる。

 この第4回内国勧業博覧会は、玉堂にとって大きな転機となった。同会に出品されていた橋本雅邦(がほう)の作品に感銘を受け、翌年上京し、雅邦のもとで学ぶことを決意。これ以降、玉泉や楳嶺から学んだ円山・四条派の基礎に、雅邦のもとで学んだ狩野派の様式を取り入れ、独自の画風を確立していく。

川合玉堂《朝江炊煙》(1903)絹本、彩色、軸(一幅) 70×114cm 玉堂美術館

 会場では、輪郭線を用いず、墨の濃淡による「面」で立体感を表す没骨(もっこつ)技法を用いた《朝江炊煙》(1903)なども並び、若いうちから様々な表現手法を取り入れようとしていた意欲的な姿勢を見て取れる。

編集部