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円山応挙

Okyo Maruyama

 円山応挙は江戸時代後期に活躍した絵師。円山派の祖。1733(享保18)年、丹波国桑田郡穴太村(現・京都府亀岡市)の農家の次男として生まれる。10代の頃に京の都に出て画技の研鑽に努め、ガラス製品のびいどろ道具や人形を扱う玩具店・尾張屋に奉公した。その経験は、のちの眼鏡絵制作などにもつながっていく。一時期狩野派の絵師のもとで学んだが、中国画までを含む様々な流派の画風を摂取し、写生を重視した独自の画風を確立。30代では円満院(滋賀県)の門主・祐常から、祐常没後は三井家をはじめとする京都の町衆から庇護を受け、数々の実験的な制作を試みた。

 新興の商人たちにとって、眼前の対象をありのままに描く応挙の清新な作品は、古典文芸の素養が必須ではない点においても歓迎された。応挙は多くの弟子を抱え、40代半ば以降、一門で数々の障壁画制作をこなし、国宝《雪松図屏風》(1786頃)や、兵庫県大乗寺客殿の襖絵などの傑作を生み出していく。応挙率いる円山派の実力は世に認められ、ついに寛政の御所造営に土佐派、狩野派とともに参画。物質のリアリティと空間のイリュージョンを見事に融合させた応挙の革新的な絵画は、近代の日本絵画のひとつの礎を築いたと評される。

 晩年、中断していた金刀比羅宮(香川県)と大乗寺の障壁画制作を病を押して完了させ、95(寛政7)年没。畢生の大作となった大乗寺《松に孔雀図》(1795)の落款は、円山派を継いだ息子の応瑞の手によって入れられている。