川合玉堂(1873〜1957)は、明治から昭和にかけて、日本の豊かな自然とそこに暮らす人々の姿を描き、東京画壇の中心的存在として活躍した日本画家。
本展は、玉堂の没後60年を記念し、玉堂と親しい交流のあった山﨑種二が創立した山種美術館で開催されるもの。同館が所蔵する71点ものコレクションのうち56点と、他館からの借用作品を合わせ、多くの代表作を含む全85点が展示される(会期中一部展示替えあり)。
幼い頃から絵が得意だった玉堂は、小学校を卒業後すぐに京都の望月玉泉に師事。その後、円山四条派の流れを汲む幸野楳嶺の門下に移る。楳嶺が他界した後には、第四回内国勧業博覧会で出会った橋本雅邦の絵に衝撃を受けて上京。狩野派の技法を受け継ぐ雅邦のもとでさらなる研鑽を積んだ。
16歳〜17歳のときに描かれた《写生画巻》(1889-90)には、動物や植物が毛の一本一本まで緻密に描き込まれており、山種美術館顧問の山下裕二は「円山四条派でもっとも重視された写生の力を10代ですでにしっかりと身に付けていることがわかる」と語る。
琳派を強く意識しながらも、白梅と紅梅で遠近差をつけ、鳥を点在させるなど独自の構図で描いた《紅白梅》(1919頃)や、古典的なやまと絵の技法を用いながら、自転車に乗る人など現代の風俗を描き込んだ《悠紀地方風俗屏風》(1928)、雪舟の山水画の空間づくりを意識した《渓山四時図》(1939)などの作品からは、玉堂が様々な様式を融合させながら、独自の風景表現を追究していたことがわかる。
昭和に入ると、四季の風景や自然とともに生きる人々の姿を織り交ぜた、牧歌的で情趣に富んだ独自の風景画のスタイルを確立。《彩雨》(1940)《早乙女》(1945)といった代表作が数多く生まれた。
晩年に描かれた《屋根草を刈る》(1954)には、孫の意見を取り入れて蝶が描き加えられたというエピソードが添えられ、玉堂の穏やかで優しい人柄を感じることができる。
円山四条派、狩野派、琳派など豊かな下地のうえに、自然や人々への温かい眼差しが加わることで生み出された玉堂の独自の風景画の世界を、会場で体感してみてほしい。