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橋本雅邦

Gaho Hashimoto

 橋本雅邦は幕末から明治時代に活躍した狩野派の絵師、日本画家。1835(天保6)年、江戸木挽町(東京都中央区)の狩野家の邸内に生まれる。父は狩野養信門下の狩野派絵師・橋本養邦。幼少時より父から絵を学び、12歳で養信に入門。同日入門した7歳年上の狩野芳崖はその生涯にわたる朋友となる。直後に養信が亡くなり、子の雅信(勝川院)の門下となる。芳崖とともに勝川院門下の四天王と呼ばれ、とくに二人は「勝川院の二神足」「勝川院の龍虎」と称された。

 26歳で独立し結婚するが、狩野派絵画の需要減少と幕末維新の動乱に際し苦しい生活が続き、絵師としての活動は低迷する。71(明治4)年、海軍兵学校の製図掛に勤務。77(明治10)年、山口県に帰郷していた狩野芳崖が上京し、ともに画業の研鑽に努める。82年に内国絵画共進会に出品した作品が高い評価を得て以降、国内外の展覧会に作品を出品し数々の受賞を果たす。

 86年、海軍兵学校を辞し、芳崖とともに新たな日本の絵画表現の確立を目指す岡倉天心、フェノロサらの東京美術学校設立に携わる。88年、美術学校開校を目前に芳崖が亡くなり、絶筆の《悲母観音》を仕上げる。翌年、東京美術学校絵画科の主任に就任。90年、第3回内国勧業博覧会にて、狩野派の絵画様式に西洋的な表現を加えた《白雲紅樹》が妙技一等賞を受賞。また同年、帝室技芸員となる。

 98年、岡倉天心が東京美術学校を去るにあたり、横山大観、菱田春草らとともに辞職し、日本美術院の創立に参加。1900年、パリ万国博覧会に《龍虎図》を出品し銀賞を受賞。08年病没。その年の正月、狩野派の古例に倣い、病身で描いた宝珠三顆の図が絶筆となった。