“個”の体験から土地の記憶の共感へ:志賀理江子 《なぬもかぬも》
2011年の震災を体験した志賀は、災害そのものよりも以後に起こった復興の内実に受けた衝撃が大きかったという。一生をかけて向き合い、そこに潜っていく決意を語る志賀にとってそれは、10代のころから感じていた「近代以降」への不気味な感覚や自己への内省であり、標準化によって周縁へと追いやられ、抑圧され、破壊されてゆく土地特有の文化や尊厳へのまなざしである。
本作は、東北各地を撮影・取材の運転中にすれ違った10トントラックのフロントスクリーンに掲げられた「なぬもかぬも」のひらがな6文字との出会いが出発点となった。宮城沿岸部の方言で、標準語にすれば「何でもかんでも」ととらえられようが、トーンや言い回しで地域により異なる認識で使われていることを知った志賀は、これを「何にもとどまらない、多様な意味に開かれている」反プロパガンダの言葉としてとらえたときに見えてくる風景を求めていく。
そして、その過程で見出したのが「褜(えな)」だ。胎児と母体をつなぐ「へその緒」や胎盤のことで、地域によっては儀礼などに用いられるも、字は常用漢字からも外れ、忘れられつつある。出産時、まれに胎児にへその緒が首に絡みついていることがあり、死産や身体的な障害を負う危険性がある。この地方では、生死の境をさまよって生まれたこうした子供に、褜を仏の傘と見立て災いを福に転じさせるため、褜の字を名に付ける風習があったそうだ。現在もこの名を持つ男女が十数名いるという。志賀は、この「褜がらみ」をひとつの象徴として、見えないものが見える「内海褜男」という架空の存在が語りだす物語を、空間いっぱいの高さ4.2メートルの巨大な写真絵巻に仕立てた。


絵巻は大きく3章で構成される。三陸での海から陸(おか)への物流の変化を「人間の作る道=人間社会のやり方」ととらえ、漁師たちの生き方やコミュニティのなかに、海に生まれ、海に死んでいくサイクルを提示するが、その語りはたくさんの「私」に分岐していく。
死はタコとクジラの体内でエネルギーに変換されることに暗示される。そこから復興の10年をそれなしでは語りえない原発という巨大なエネルギーが、命のそれと対照される。絵巻は左から右へと展開し、時間を遡行して、過去から現在への流れとぶつかり合う。
原発の悲劇を見ながらも依存せざるを得ない現代のあり様は、絶えることのない戦争にも通じていく。それらは権力構造のなかでそこに生じる亀裂や抑圧を覆い隠す。世界へと向けられた意識は、この世界・社会でわたしたちはどう生きているのか、「私たちは見ている」という宣言とともに問いかける。























