2021.10.7

「写真は限りなく『思い出す』という行為に近い気がします」。インタビュー:志賀理江子

雑誌『美術手帖』2021年8月号の特集「女性たちの美術史」にあわせて、同特集でも登場している志賀理江子のインタビューを掲載。生と死に向き合いながら写真を撮り続けてきた作家に、イメージにまつわる感覚や、社会が制作に与える影響について聞いた。

聞き手=竹内万里子

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館「ブラインドデート」展示風景
撮影=松見拓也 © Lieko Shiga
タイ・バンコクでバイクに二人乗りする恋人たちを撮影した「ブラインドデート」シリーズでは暗闇に浮かび上がる女性たちの眼差しが、鑑賞者の視線とぶつかる。スライドプロジェクターで投影されている作品は「弔い」と題されたシリーズ
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 志賀理江子は1980年愛知県生まれ。渡英を経て、2008年からは宮城県で暮らし、土地や人々を写真に記録する活動を続けながら自身の制作を行ってきた。本誌特集では、志賀にとっての写真と身体の結びつきや、いまも変わらず自身の制作に流れている被災地の時間について、馬定延の文章を通じて綴られている。

 ここでは2017年の個展「ブラインドデート」展(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)にあわせて取材されたインタビューを公開。2009年から8年をかけて生まれた同展において、志賀が写真を通じて描いた「目に見えない」世界を語る。

「ブラインドデート」展示風景
撮影=松見拓也 © Lieko Shiga
2017年、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(香川)にて開催。バイクに二人乗りする恋人たちを撮影したシリーズ「ブラインドデート」から出発し、写真プリントとスライドプロジェクターを使ったインスタレーションを展開。プロジェクターの動作音のなか赤色の光が明滅し「弔い」と題されたシリーズのほか「死」や「人間の始まり」をキーワードとして撮られたイメージが一斉に映し出され、移り変わっていく。志賀が執筆した作品と呼応するテキストも掲示された

生と死を問うことで、個人の中に潜む誰も侵すことのできない物語を写す。

 写真を通じて自身と社会の接点を求め、人間の普遍的な営みに接続するイメージを探求してきた志賀理江子。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で開催中の個展「ブラインドデート」で新作インスタレーションを発表した志賀に、作品制作を通じて追求するものについて聞いた。

「ブラインドデート」展の展示室にて
撮影=松見拓也

女の子たちの眼差しと目で見ぬ人々の世界

──今回の展覧会はたんなる新作展ではなく、2009年に撮影された「ブラインドデート」が核になり、そこから時間をかけて生み出されたものですね。

志賀 09年にバンコクで撮影をしました。交換留学のように、知らない国に行ってアート作品をつくるという内容のアートプログラムで、自分に何ができるのかを考えながらまっさらな状態で行きました。ルールが日本と全然違う国で自分とクロスするポイントを見つけようとする感じですね。ところが写真を撮ることはできても、ただ撮って帰ってくるだけになってしまった。何も写らなかった。そこでやり方を変え、バイクの後ろに乗って街を回り始めました。すると同じようにバイクの後ろに乗った女の子たちと妙に目が合った。こんなふうに他者と街中で視線が合うことは、日常生活ではあまりないことです。やたらと視線が行き来するので、この人たちは何を見ているのか、私が観光客だから珍しくて見ているのかと戸惑い、興味を持ちました。

 いま思えば、自分が最初に写真のまなざしを意識したのは仏壇に飾られている写真を見たときでした。それが私にとって最初の写真的な体験だったんです。バイクの後ろの女の子たちの目線は、それとちょっと似ていた。触れないで見る、みたいな。野性の勘とかテレパシーとまではいかないけれど、そういうまなざしに出合ったときに考えさせられることがあると思い、これらの目線を集め始めました。すごく乱暴に。その人の名前も聞かず、自分も名前を聞かれず、その場限りで写真を撮るという体験でした。それは日本では絶対できないことだったけれど、かと言って普段自分が考えているような繊細なことはバンコクではできなかった。その結果、ある意味で普段の自分の写真とはかなり違うものが生まれました。

 そこでふと、「ブラインドデート(*1)」という言葉が浮かんできたんです。辞書を引くと、知らない人とデートするという意味で、ちょっとセクシーでエロチックな感じが気に入りました。そもそも二人乗りをしていた彼らが恋人たちだったというのもありますし。「ブラインド(blind)」という言葉には、盲目、目が見えないという意味がありますが、ふと思いついたタイトルに「ブラインド」という言葉が入っているのはどういうことなのかと問う長い8年間の旅が、そこから始まったんです。

 思い起こせば私は子供の頃、目が見えない人たちがいることを知り、私と彼らがどのように違うのかということに興味を持ってきました。写真をやっていると、目に見えることしかできない苦しさがあります。そこで「ブラインド」という言葉にあえて向き合ってみようと思いました。いまこそ全盲の人に会って、自分と彼らは何がどう違うのかということを教えてもらわなきゃいけないと思いました。すると生まれたときから全盲の人がすぐ見つかって会うことができ、いろいろな話をしました。私も自分のことをたくさん話しました。そのとき、彼女がこんな言葉を言ったんです。

「目が見えぬ、らしいのです。それは私の知らない前世に関係するでしょうか。本当のことを知りたくて、大学に行き、世界中の様々な宗教について学びました。それらは生死について実に様々なことを述べています。でも、その全てに違和感を感じました。」

 展覧会は、この言葉から出発しました。どんな宗教も文明も文化も常識も、すべてに違和感を感じると盲目の彼女は言っている。私はそれを聞いてとても納得しました。社会は目が見える身体を前提につくられていて、そこから言葉が発生している。けれども、目で見ぬ彼女たちはもっと違うように世界をとらえていて、すぐ隣にまったく違う世界があるということを教えてもらいました。「すべてが私に当てはまらない気がする」というその言葉によって、私も許された感じがあったし、ひとつの世界にもたくさんの世界があるということを教えられました。いろいろな見え方がありますよとかいう単純な話ではなくて、もっと深い部分で、身体が知覚する世界はもっと自由な領域にあるんじゃないかということです。

YING & YHAI(ブラインドデート) 2016-17 
タイプCプリント 120×180cm
© Lieko Shiga

──「ブラインド」という言葉には目に見えない闇のイメージが付きまといますが、「まぶしくてよく見えない」という意味もあるということ、つまりじつは光の過剰さ、光のことでもあるという話を、震災直後に志賀さんとしたことがありますね。この言葉にはさらに、「行き当たりばったり、むやみやたらな」「無計画、理性によらない」「匿名の、判読しにくい」「行き止まりの、出口がない」、さらに「密封された」という意味もあるそうです。初対面同士のデートという意味の「ブラインドデート」も、その人の秘めているものを密封した状態で会うという意味では確かにその通りですよね。