第5章「動物たちも行く」
散歩を人間に限らず広くとらえる章である。うらあやかの作品は、ベトナム・ホイアンの街を歩く犬を追い、歩行主体の揺らぎを問いかける。鵜飼結一朗による妖怪や動物たちの練り歩きは、行列のエネルギーを感じさせ、散歩が集団的・祝祭的な意味を帯びることを示す。犬と人との散歩もまた、どちらが主体かを考えさせる契機となり、動物と人間の関係性を映す鏡である。

第6章「散歩で出会う」
散歩が生む発見と感覚が作品にどう結実したかが示される興味深いセクション。黒田清輝が鎌倉の別荘で描いた庭や海辺の風景、佐伯祐三《下落合風景》に表された都市近郊の景色は、散歩から生まれた視覚体験の結晶である。八木一夫《歩行》は歩く身体を彫刻として表現し、身体運動を造形へと転換した。谷口ジロー『歩くひと』原画は、清瀬の住宅街を淡々と歩く人物を描き、日常に潜む発見や喜びを静かに伝える。

第7章「明日も、どこかへ」
最終章では、散歩が創造的な「自由」や「未来」への想像力と結びついていることが示される。東郷青児《超現実派の散歩》(1929年、二科展出品)は「散歩のつもりで超現実主義の試運転をやった」と自ら記した作品で、日本におけるシュルレアリスム受容の先駆とも評される。主義や表現の枠に縛られず、そぞろ歩くような自由な試行錯誤から生まれた軽やかな表現は、散歩のリズムと通じ合う。評価や主義を超え、気ままな歩みから新たな創造が芽生えることを象徴する章である。




















