ヘンリケ・ナウマン追悼──家具から政治を読み解く【3/4ページ】

家具が語るもの

佐藤小百合(以下、佐藤) 私は、美術館の機能とあなたの作品に関心があります。先ほど、家具を美術館に持ち込む行為を、ある種のディスプレイスメントだと説明されました。家具を用いる際、その機能が取り除かれているのか、あるいは保たれているのかということを、どの程度意識されていますか。また、もしそうしたことが起こるのであれば、家具からアートへの変容はどの時点で起こるのでしょうか。

ナウマン 良い質問です。私はこの問題について、制度機関と絶えず話しています。というのも、私は家具を持ち込み、人々がそこに座れるようにしたいからです。もしかすると、そこがすでに少し、美術館の中に作品があるという期待が混乱する地点なのかもしれません。なぜなら、私のインスタレーションは作品ですが、スカルプチャーセンターにある椅子はすべて私が配置したものであり、人々は、作品を理解するためにそれらに座るよう招かれているからです。

 私はいつも、人々が私の作品の周りを大きく避けて歩くのを目にします。まるでそれらが触れてはいけないもののようにです。そして、座ってよいと言うと、彼らは「引き出しも開けてよいのですか。全部触ってよいのですか」と尋ねます。私の答えは「いいえ、誰かの家を訪ねているところを想像してみてください。そこであなたは何をしますか。座りはするでしょうが、どこかに隠されているかもしれないものを次々に取り出し始めたりはしないでしょう」というものです。ですから私は、自分が展示を行う機関で働く人たちに、この方針を説明しようとしています。それは、誰かの家を初めて訪れるようなものなのです。

佐藤 以前、私たちの授業でお話しくださった際、2021年から22年にかけて、キーウのピンチュクアートセンター(PinchukArtCenter)とモスクワのトレチャコフ美術館新館(New Tretyakov Gallery)で、それぞれ同時期に展覧会に参加されたとおっしゃっていました。ロシアによるウクライナ侵攻の直前であったにもかかわらず、人々が家具と一緒に自撮りを撮っていたことに、私はとても強い印象を受けました。ヒト・シュタイエルは2016年の論考「台座の上の戦車──惑星的内戦の時代における美術館」において、ウクライナのドンバス地域の第二次世界大戦記念碑に展示されていたソ連の戦車が、2014年の紛争の際に、親ロシア分離主義勢力によって実際に再利用され、戦闘に使用されたことを記述しています。

 人々は、展示空間が日常生活から切り離されていると考えがちですが、これは、現実の社会状況に応じて、美術館の展示物が現実世界へと持ち戻されることがあることを示しています。そのいっぽうで、あなたは私的で日常的なオブジェクトを展示空間へと持ち込みます。あなたの家具の使用は、日常生活と展示空間とのあいだの隔たりを橋渡しし、展覧会での体験をそれぞれの日常生活と相互に関係づけることを促しているように思えます。それは、人々やより広い社会に対して、どのような効果を持ちうるとお考えでしょうか。

ナウマン とても美しく、複雑な質問です。少しほぐしながらお話しさせてください。私は、ロシアによるウクライナ侵攻の始まりに、博物館にあったもの、例えばチェコのハリネズミ──第二次世界大戦時代の鋼鉄製戦車バリケード──が実際に使われていて、博物館の職員たちが、まだラベルの付いたまま、それらを通りに運び出しているのを見て衝撃を受けました。あれは、戦争初期の日々のなかでもっとも考えさせられるイメージのひとつでした。ドイツおよびヨーロッパの視点から言えば、それは、再びヨーロッパに戦争があるということを意味します。そして、暖房やインターネットや平和といった種のものを当然として育ってきた私にとって、それはいっそう深く響きました。博物館にあるオブジェクトや歴史の一部となっているオブジェクトは、通常、私たちの生活に戻ってくることはありません。しかし、それらは再び使われる可能性を持っているし、あるいは、私たちが突然それを再び必要とするかもしれないのです。私は、オブジェクトは、ドキュメントとは異なる仕方で本当の歴史を語ると思っています。そしてもちろんそれは、第二次世界大戦の終結以降ずっと戦争は絶えず存在していた、ただし必ずしもヨーロッパではなかった、という現実を思い起こさせるものでもあります。「二度と繰り返してはならない」ということを、私たちは当然視することができないのだということが、いまほど明らかになったことはないと思います。

 ニューヨークで私が制作した、アメリカ連邦議会議事堂襲撃についての作品は、アメリカにおける共有された記憶に触れると同時に、まだ本当には扱われてこなかった何かにも取り組んでいると思います。というのも、それはあまりにも最近のことであり、しかも、アメリカ政府の内部からクーデター未遂が起こったという事実を理解すること自体が非常に難しいからです。それはあまりにも突飛に思えます。最近のアメリカ政治で起きた多くのことは、あまりにも行き過ぎています。私はトランプ時代の美学を調べながら、なぜトランプやトランプ政権についての優れた作品がそれほど多くないのだろうと考えていました。ほとんどは、裸の赤ん坊やピエロとしてのトランプの描写であり、それらはそれほど鋭くなく、問題の核心に届くこともできません。意味のある仕方でそれについて語ることへの沈黙やためらいがありました。だから私は、その状況に挑みたかったのです。なぜなら私は、奇妙な美学と危険な内容の両方を扱うことにかけては専門家だからです。「よし、これを家具に分解してみよう。そして、家具を使って、アメリカにおける最近の政治史と、それがどのように社会をかたちづくっているかについて語れるか見てみよう」と思いました。

 これまで私が行ってきたことや考えてきたことについて言えば、歴史博物館に近い何かもありました。歴史博物館は、私にとって、リサーチのインスピレーションの源であるだけでなく、家具がドキュメントになりうるのか、あるいはある時点をアーカイブする方法になりうるのか、という問いを試みる場所でもあります。私は実践の初期に「アウラを帯びた」オブジェクトに非常に関心を持っていました。オブジェクトは、ある特定の歴史的瞬間に属しているがゆえに、ある種のアウラを持っています。1999年頃から2011年にかけて活動していたドイツのネオナチ・テロリスト集団、国家社会主義地下組織についての最初の作品を制作したとき、私は、そのメンバーの何人かが住んでいたツヴィッカウの家に入りました。警察がすべての証拠を押収したあとで、家が取り壊される前のことでした。私はカーペットの一片と壁紙の一片をなんとか持ち出しました。それらは実際のドキュメントであるようなアウラを持っていましたが、同時に、警察がそれほど重要視しなかったものでもあり、それで私はそれらを使って作業を始めました。それらを自分のインスタレーションのために再現したのです。同じカーペットを見つけ、同じ壁紙を見つけました。その作品には、私が再現したり、コピーしたり、サンプルとして使ったりした歴史的ドキュメントも含まれていました。それは、非常にねじれたインテリアデザイナーのムードボードのようなものでした。

 私のアプローチは、これは壁紙、これはカーペット、ではこれに合うものは何か、というものでした。あるいは写真のなかにランプを見たので、そのランプを見つけなければならなかったのです。家具の歴史、家具の記憶、あるいは政治的現象を家具化することについて考えました。そしてそのとき、もはやオリジナルは必要ではないのだと理解しました。なぜなら私は、政治的過激主義のインテリアデザイナーのようなものだったからです。参照物をもとに作業し、オリジナルを持たずに再現することができたのです。オリジナルのアウラの代わりに、私の焦点は、私たちすべてがこれらのオブジェクトや素材を共有しているがゆえに、暴力がどのように私たちの日常生活のいたるところに存在しうるのか、ということに移っていきました。

釜山ビエンナーレ2018「Divided We Stand」の展示風景より、ヘンリケ・ナウマン《2000》(2018) Photo by Andrew Maerkle

 アメリカ連邦議会議事堂襲撃についての作品のために、私は、暴徒たちが議事堂に侵入するために使った家具と、議員たちが自分たちを守るために使った家具の両方を調べました。スカルプチャーセンターの大きなバリケードに使われている家具はすべてフェデラル様式ですが、それらはすべてニューヨーカーの家や、リサイクルショップや、路上からきています。ある時点では、ワシントンD.C.のスミソニアンに連絡を取り、実際に襲撃で使われた家具を入手できないかと尋ねましたが、彼らは何も持っていませんでした。また、フロリダにあるトランプ・ホーム・コレクションの家具も調べましたが、それをニューヨークに運ぶには莫大なお金がかかったでしょう。そこで、議事堂襲撃で使われた家具や、オリジナルのトランプ・ブランドの家具は必要ないのだと気づきました。ニューヨーカーたちが手放した家具を使って、同じ物語を語ることができたし、そのほうがむしろいっそう不気味だったのです。なぜなら、私たちが見ているのは、誰もが知っている家具だからです。

佐藤 このインタビューの冒頭で、私たちが当然のものとして受け取っている何かの意味を、それを失ったあとで初めて理解することがしばしばある、という考えを示唆されていました。それを聞いて、私たちは家具の機能も当然のものと見なしがちですが、それが展示されると、もともとそれがもっていた力や機能を知ることができるのではないかと思いました。一般に、私たちは建築のような外部が、権力やプロパガンダの提示に使われるという考えにはよく馴染んでいます。それに対して、家具のようなインテリアの要素は、イデオロギー的な観点から論じられることがあまりありません。おそらくそれは、家具がたいてい私的空間を占めているからではないかと思います。では、イデオロギーあるいはプロパガンダという観点から見たとき、外部に対してインテリアの固有の特徴とはどのようなものだとお考えでしょうか。あるいは、インテリアデザインが人々に及ぼしうる固有の影響とは、どのようなものだとお考えでしょうか。

ナウマン 私は建築にも非常に関心があります──そしてとりわけ、ニューヨークという文脈においてトランプ政権を見るときにはそうです。ニューヨーカーの大多数はトランプに反対票を投じましたが、同時に、トランプは完全にニューヨークの産物でもあります。彼は何十年にもわたり、この都市の不動産と建築をかたちづくってきましたし、もちろん彼自身もこの都市によってかたちづくられてきました。ですから、このテーマにおいてニューヨークはとても大きな役割を果たしています。たとえそれが私的な建物であれ、個人所有の不動産であれ、建築は公共意識の大きな一部です。なぜなら、それはただそこにあるからです。無視することはできませんし、そのまわりを歩かなければなりません。権力とお金を通して、それは都市全体と社会全体に影響を及ぼし、共有された環境に確かな痕跡を刻みます。しかし家具は、主としてそれが内部で起こるから、そしてまた可逆的であり容易に変化しうるから、見過ごされている部分です。家具は建築ほどの影響力をもちません。むしろそれはファッションや衣服に近いものです。なぜなら、それは身体に近く、人々の欲望の表現として絶えず変化しているからです。

 しかし、ファッションは都市のなかで着られ、より広い社会的文脈のなかで自己の反映となるのに対し、家具は家にとどまります。ですから家具は、社会全体のなかで興味深い位置を占めています。なぜなら、それは人が持ちうるもののなかでもっとも私的なもののひとつだからです。もちろん、家具の写真を投稿したり共有したり、人を家に招いたりすることはできます。しかし、ほとんどの時間、それはあなたが家具と一緒に過ごしているだけなのです。

 興味深いのは、家具が誰の人生にもこれほど深く関わっているにもかかわらず、なお十分に分析されていないということです。私は、ちょっとした決まり文句を持っています。家具とは、誰もが話す言語のようなものだ、と言うのです。どこへ行っても、私は椅子に座ることができるし、たとえ互いに異なる言語を話していても、何かについて議論することができます。ファッションと並んで、家具は究極の人間的参照物です。それは人間の身体寸法に合わせてつくられています。ですから、たとえそのとき誰も座っていなくても、椅子はつねに人間に関係しているのです。そして、それがスカルプチャーセンターでの展覧会を興味深いものにしていました。というのも、空間自体が非常に工業的で粗造りな美学を持っているだけでなく、巨大でもあるからです。私は大きな作品をつくるのが好きですが、私の作品の要素はつねに人間のスケールです。椅子があり、テーブルがあります。そして、巨大な椅子があっても意味をなしません。なぜなら、私の家具は現実的なサイズでなければならないからです。私は、人々が作品の前に立ち、オブジェクトと関係をもつことを望んでいます。ですからスカルプチャーセンターでは、より大きな文脈のなかで人間のスケールを保ちながら、いかにしてあのような巨大な空間に存在することができるのかを理解しようとしていました。私にとって非常に興味深いことでした。なぜなら、議事堂の家具を積み上げ始めたとき、それは私がこれまでに行ったなかでもっとも大きなインスタレーションになったいっぽうで、なお人間的スケールに結びつけられるものであり続けたからです。それは私にとって新しい発見でした。というのも、あのような空間という意味で、私はこれまでそのような挑戦を経験したことがなかったからです。

「Re-Education」展の展示風景より、《Rustic Traditions》(2022、部分) Courtesy the artist. Photo by Charles Benton

 しかし質問に戻ると、私は実際、建築理論を家具のディスコースへと翻訳することが可能かどうかを、つねに見たいと思っています。例えば、第三帝国の建築については多くの本があります。それをなんらかのかたちで家具へと翻訳できるのだろうか。もしできるとしたら、それはどのようなものになるのだろうか。ほとんどの人は家具についてそれほど真剣ではないですし、それが建築ほど大きな影響を持つとは考えていません。しかし、それは異なる影響をもっています。私たちが毎日ただ通り過ぎるだけの建物や、ある特定の目的のためにしか入らない建物は、それほど私たちに力を及ぼさないかもしれません。しかし、私たちが住む建物は非常に強い影響をもっています。そしてそれは家具にも及ぶのです。

編集部