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第17回芸術評論募集【佳作】吉見太一「荒川修作/マドリン・ギンズという人類学的徴候──デュシャン的なパラダイムと訣別するため」【5/5ページ】

結. 人工的な多自然主義へ

 以上から荒川/ギンズの身体論には、デュシャン的なパラダイムからの3つの転回=反転があると結論付けられる。つまり、1.「見る者が芸術をつくる」図式から「見る者が(芸術によって)つくられる」図式への反転、2.ウィトゲンシュタイン的な意味論からマニエリスティックな身体論への反転、3.カント主義的なナチュラリズムの多文化主義からアニミスティックな多自然主義への反転である。最後に、本論における荒川/ギンズの思想史的な位置づけを再確認したい。とりわけ問題となるのが、荒川/ギンズと前衛芸術思想との差異であり、そこで重要な参照項となるのが序章でも触れたリオタールである。

 第2章で芸術と資本主義とのあいだにある共犯関係を確認してきたが、星野太によるとリオタールの「非−人間的なもの」という概念にも同様の両義性が含まれている。「非−人間的なもの」には「後期資本主義社会のシステムがわれわれを非人間的なものにする」というネガティヴな意味があるいっぽうで、「人間のうちに住まう『人間未満』の部分」というポジティヴな意味が含まれている(*52)。後者の「非−人間的なもの」とは、社会による道徳的な人間化に対する通約不可能性としての「残余=過ぎ去っていくものではない幼年期」を意味する。「芸術家たちは、同じ非人間的な未決定性を、その体制への批判として機能させねばならない」という点において、後者の「非−人間的なもの」はリオタールにおける前衛芸術の問題と大きく関わっている。

 デュシャンを論じたモノグラフやコスースの著作集の序文をリオタールが書いているほか、荒川とリオタールの個人的な親交も念頭に置くと、以上のような前衛の美術史的な連続性に荒川/ギンズの身体論を位置づけることは確かに妥当なことかもしれない。実際、荒川の思想は、多自然主義的な身体論を実践するための装置=建築によって、自然そのものをむしろ人工的=文化的につくり上げるというアンビヴァレントな発想に立脚しており、そこには自然を支配する人間という近代的な自然観が確認される。そのため、荒川もまた、デュシャン以後のパラダイムにおけるナチュラリズムとは無縁ではありえなかった。実際、小林との対談で「自然に立ち向かうためには、あれと同じようなものを人工的につくり出すしかない。ぼくはもうこれは人間の本能だと思う」と荒川は発言している。つまり荒川/ギンズの実践は、資本主義と多文化主義に板挟みになった芸術のポストモダン的状況において、身体の複数性を立ち上げるために自然そのものを逆に一から人工的につくり直すという無謀な試みでもあった。いわば、それは人工的な多自然主義とでもいうべきパラドックスそのものなのだ。

 しかしリオタールの質問に対して怒りを顕にし、同時にデュシャンのカント主義やヘーゲル主義、精神に偏った心身二元論を指摘していたように、荒川にとって、アヴァンギャルドおよび西洋美術の歴史的な流れはもはや問題ではなかった。「いわゆる前衛なんてもう信じている人は一人もいない」という荒川の過激な発言は、カント、グリーンバーグ、デュシャン(ウィトゲンシュタイン)、コスース、ダントー、リオタールといった、モダニズムからポストモダニズムに至る、「前衛」を含めた西洋美学全体──およびカント的な先験的-経験的二重体から派生するナチュラリズムの思想、多文化主義による自然と文化の大分割──に対する痛烈な批判として捉えられなければならない。「もう人間の歴史なんか、ぼくの眼中にないんだ」(*53)。むしろ荒川/ギンズの実践は、人間/非−人間における有機体レベルでの共同性から、身体のマニエリスティックな使用によって、切り閉じあるいはランディング・サイトの無数の錯乱を生成させ、中心性なき多自然的な身体の獲得を目指す。その意味で荒川/ギンズの方法とは、カントの先験的–経験的二重体およびナチュラリズムによって自然から切り離されてしまった「定点」としての人間を、建築という人工物によって複数的な身体=多自然の情動性のうちに再び置き直すという破格の試みだったのだ(*54)。

 人工(文化)的な建築によって、多文化主義による単一的な自然への還元を反転させ、逆にそれを複数的な身体=多自然へと開いていくこと。それはつまり、建築という人工(文化)によって、逆説的にも多文化主義から多自然的な身体を救済することである。ここには自然と人工(文化)をめぐる幾重もの倒錯がある。自然と人工(文化)が対義語である以上、荒川の試みは初めから狂気じみた身振りを免れないため、その意味でたしかに「アラカワは狂っている」(*55)のだろう。しかし、こうした無数の「反語的な」(*56)身振りにおいてこそ、荒川/ギンズの思想は、ナチュラリズムの多文化主義、そしてアニミズムの多自然主義にも位置付けがたいパラドキシカルな人類学的徴候として残存し続けている。

*52──星野太『崇高と資本主義――ジャン=フランソワ・リオタール論』青土社、2025年、148頁。
*53──荒川/小林『幽霊の真理』、65頁。
*54──「私が追っている場というのは無意識的、情動的で非常に支離滅裂であり、つまり自然科学者が定点と思っていたものがそこには最初からないんです。私はまさにそういうところで場をつくろうとしているんです」(同上、96–97頁)。
*55──樫村晴香「アトリエの毛沢東──その精神病的=分析哲学的表象システムと上下運動の論理的解明」、『現代思想 総特集:荒川修作+マドリン・ギンズ』、163頁。
*56──荒川/小林『幽霊の真理』、110頁。「つまりイメージというのは、全部反語的なものでできているんです。外があってないもの、遠くて近いもの、高くて低いもの、底なしに底のあるもの、色があってないもの、全部こういった反転可能なもので成り立っているんです」(同書、 111頁)。

[編集部註]
・本文の傍点は、本サイトの仕様上、下線として表記しています。
・引用内の[ ]は、筆者による補足となる。

編集部