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第17回芸術評論募集【佳作】吉見太一「荒川修作/マドリン・ギンズという人類学的徴候──デュシャン的なパラダイムと訣別するため」【3/5ページ】

2. 人類学=芸術機械という例外状態

 ダントーは、デュシャン以後の状況を、ヘーゲルの『美学講義』を踏まえて「芸術の終焉」として捉えている。それは、まさしくモダニズムの失効後という意味で文字通りポストモダン的な状況でもあるだろう。しかし「使用」のパラダイムでは、どんな物・事でも芸術作品として意味を成すというポストモダニズムに典型的な相対主義に陥ってしまうのではないか。

 これについてダントーは「芸術作品と芸術作品ではないものとが、もし実際にまったく似ているようにみえるなら、両者を区別するものとはなにか?」と問い、「芸術」と「現実(非−芸術)」を区別するものについて問題化している。晩年に書かれた『アートとは何か』でダントーは「眼に見える差異が何もなかったのだとすれば、そこには眼に見えない差異がなければならなかった」と言い、芸術と現実との差異とは「受肉化された意味(embodied meaning)」(*19)であると結論づける。デュシャン以後のパラダイムでは、使用のモーメントにおいて「眼に見えない差異」──アンフラマンスやアスペクト転換のようなモアレ状の差異──が、あるなんらかの意味として作品に内在的に「受肉化」される。つまり、そこではもはや芸術と現実の外在的な区別は問題とされない。むしろつねに「これは芸術なのか、あるいは現実なのか」という問題が、当の作品の使用における「意味の受肉」において内在的に問われることになる。つまりデュシャン以後では、アンディ・ウォーホルの《リブロ・ボックス》のように「芸術と現実の内在的な識別不可能性」とでもいうべきものが問題化されるのである。ダントーはこの識別不可能性を、目覚めながら見る夢=「うつつの夢(wakeful dream)」とも呼んでいる。

 しかし、こうした現実と芸術の識別不可能は、ポストモダン的な相対主義をより強化する方向に働くのではないだろうか。1章でダントーとともに論じたコスースは「20世紀の芸術について学ぶべき教訓のひとつは、(中略)芸術がゲームであるとすれば、それはルールに従うものではなく、ルールを作ることについてのものだ、ということである」(*20)というが、芸術と現実の識別不可能において、規則を事後的につくり出す根拠なき作品の「使用」は、ある種の例外状態における法の決定作用と見分けがつかなくなってしまう。その意味で、デュシャン=ウィトゲンシュタインの「使用」のパラダイムは、例外状態が常態化した60年代以後の後期資本主義における芸術上の権力=ヘゲモニー争いを背後から裏書きしている。また、そもそもコスースの思考自体が、市場の原理が作品の意味を決定している当時のポストモダン的な状況に対する反抗からなされたものでもあった。「現在のいわゆるポストモダンの時代においては、ますます芸術の伝統的な歴史主義的原則が、歴史的な理解ではなく、市場で認められるプロセスになってきた」(*21)。

 事実、デュシャンの方法が、ポップ・アートなどをはじめとしてキッチュな視覚文化とパラレルなものであるように、20世紀以後のデュシャン的な芸術の展開が、資本主義とある意味で共犯関係にあったことは否定できないだろう。ダントーやコスースが主張する「芸術の終焉」は、「デュシャン以後」という歴史的断絶を想定しているが、それはモダニズムの挫折のみならず、資本主義の大規模な展開の末に表面化したポストモダン的な相対主義と表裏一体であり、あらゆるものがスペクタクル化した社会において「いかなるものも芸術になりうる」というある種の例外状態的な状況論と不可分なのだ。

 では、ポストモダンにおける芸術実践はいかにして可能か。コスースはそれを「芸術の人類学化」および「人類学者としての芸術家」と呼んでいる(*22)。

 一般的な人類学が異文化をメタ的に認識する行為なのに対して、「人類学者としての芸術家」は、いわば自文化への内在においてそれをメタ的に捉えることのできる逆説的な存在である。このとき「人類学者としての芸術家」による自文化に対する「内在=メタ的」な認識は、自文化そのものの規則を書き換えることにつながるとコスースは述べる。「芸術はルールを作る」「芸術は意味を創出する」という、デュシャンから引き継がれたコスースの一貫した主張はこれに基づいている。コスース著作集の編者であるガブリエレ・グルチョがいうように、「芸術の人類学化」で問題になっているのは、「世界の内部に存在し、芸術機構のなかに目的を持って介入する芸術家が置かれている条件についての感覚」(*23)である。端的に言えば、コスースが「哲学以後の芸術」で述べたデュシャン=ウィトゲンシュタイン的な「使用」のパラダイムとは、まさしく「芸術の人類学化」のことなのだ。

 しかし、このデュシャン以後の「芸術の人類学化」は、例外状態化した芸術というカテゴリーそのものを悪循環的に肥大化させることにつながりかねないのではないか。これを明らかにするために一度、実際の人類学に関する議論に迂回する必要があるだろう。

 人類学者のフィリップ・デスコラは、内面性(精神)の類似と差異、肉体性(身体)の類似と差異、これら4つの組み合わせから、人間と非−人間をめぐる世界の存在論を分類している。それが、トーテミズム、アニミズム、ナチュラリズム、アナロジズムである。本論の文脈で重要なのが、3つ目の「ナチュラリズム」である。ナチュラリズムは、デスコラの存在論分析における「内面性(精神)の差異」と「肉体性(身体)の類似」の組み合わせを意味する。例えば、人間と動物は分子レベルでは肉体の類似性を立証することができるいっぽうで、言語使用などをはじめとする精神の水準では大きく異なる。西洋の科学思想の前提となっているのがこのナチュラリズムであり、それは近代的な自然観を代表するものでもある。その意味で、ナチュラリズムの台頭には「自然/文化の大分割」が伴っている。デスコラは、ギリシャ思想からキリスト教、デカルト、そして近代の科学思想という西洋思想の大きな流れを汲みながら、「近代人における自然」が登場するためには、「人間が自然に対して外部的になり、優越的になる必要があった」と述べる。つまり、近代的な自然という概念は「人間本性」という概念の裏返しとして発生するのである。

〔自然という〕この概念は、或る意味ではそこから分裂増殖によって生み出されたもう一つの概念、つまり人間本性という概念と切り離すことができない。自然のメカニズムと規則性が把握される場所の輪郭をさらにはっきりさせるために、存在者の小さな一領域〔=人間〕が自然から切り離され、定点として用いられることになったのである。(*24)

 重要なのが、里見龍樹が「デスコラの言う『ナチュラリズム』あるいは近代的な『自然』観 と、フーコーの言う『近代のエピステーメー』は大部分重なり合うということになる」と指摘している点だ。「言い換えると、デスコラの理解において、フーコーの言う『先験的=経験的二重体としての人間』を中心とする知の枠組みと、彼自身の言うナチュラリズムの『自然/文化』観は表裏一体なのである」(*25)。『言葉と物』でミシェル・フーコーがカントの批判哲学に見出した「先験的=経験的二重体としての人間」という近代のエピステーメーは、まさにこのナチュラリズムによる「自然/文化」の二元論の発生に関わっている。その意味で、「自然/文化」と「人間」の発生は、「人類学」という学問そのものの成立とも切り離せない。というのも、19世紀における人類学の成立には、カント的な超越論的主体=「人間」という概念が、これまで非−人間として考えられてきた「未開人」にも適用可能な普遍概念となることが前提条件だったからである(*26)。つまり、この「人間の普遍性」という考え方において、自然の超越論的な自律性から各々の民族が文化を形成するという「多文化主義」の図式が生まれることになる。しかし、多文化主義はナチュラリズムが浸透しているという点で、本質的に「西洋の自文化中心主義=カント的な人間の普遍性」の例外性を免れていない。「このような自文化中心主義は、私たちの習慣に深く根ざしているゆえに、根絶することが非常に困難である」(*27)。

 ここで芸術の議論のほうへ話を戻そう。以上の議論から、コスースのいう「芸術の人類学化」は、まさに近代以後の自然観としてのナチュラリズムを存続させていると言えるだろう。というのも、この議論は、デュシャン以後の芸術的状況と人類学におけるナチュラリズムが、「芸術の人類学化」という意味で文字どおり同型の議論を成すことを示す証左でもあるからだ。つまり、ナチュラリズムが自然から切り離された普遍的な人間主体を例外的に想定することで人間/非−人間の差異をつくり出すように、デュシャン以後の芸術もまた、芸術という空疎なカテゴリーそのものを例外化することによって芸術/現実(非−芸術)の差異をつくり出しているのである。

 ボリス・グロイスの「芸術作品をほかの事物から区別しうる基準は、人間的なものと非人間的なものを区別するための基準と似ていなくもないのだ」(*28)という重要な指摘は、まさにこの「人類学=芸術」という文脈で考えられなければならないだろう。より議論を具体的にするためにダントーに話を移そう。ダントーはデュシャン以後の芸術とは「受肉された意味」であると定義するが、しかし「芸術とは何か」ということがあらかじめ理解されているのでなければ、そもそもその定義さえ意味をなさないだろう。ダントーのこのトートロジカルな悪循環 は、ジョルジョ・アガンベンのいう「人類学機械」から帰結しているように思われる。アガンベンは、人類学がつねに想定する人間/非−人間の区別のなかに、あらかじめ例外的に設定された前提を同語反復的に確認する「機械」的なメカニズムを看破している。

人間/非人間といった人間の産出が、今日の文化においてかけられているかぎり、人類学機械は、必然的に排除(エクスクルジオーネ)(つねにすでに勾留である)と包摂(インクルジオーネ)(つねにすでに排除でもある)によって機能している。事実、まさに人間をそのつどそのつどあらかじめ前提としているからこそ、人類学機械は、一種の例外状態、つまり外部が内部の排除でしかなく内部が外部の包摂でしかないような未確定の領域を現実に生み出すのである。(*29)

 グロイスの指摘を踏まえ、上のアガンベンの引用における「人間/非−人間」の問題を、そのまま「芸術/現実(非−芸術)」の問題に置き換え、デュシャン以後における芸術の状況論そのものとして読み替えることができる。つまりデュシャン=ウィトゲンシュタイン的な「使用」のパラダイムは、人類学における人間/非−人間の分割と同様に、「すでに芸術であるものを(いまだ)芸術ならざるものとして」排除することで機能するような、芸術というカテゴリーそのものの例外化を前提にしているのである。デュシャン以後の芸術の存在論における悪循環に顕在化しているのは、芸術と非−芸術を分割する「未確定な領域」を暗黙のうちに例外として排除したうえで包摂する、いわば「人類学=芸術機械」とも言える状況なのだ。

 以上から、デュシャン=ウィトゲンシュタイン的な「使用」のパラダイムは、人類学そのものがカント以来の人間主義に由来する自然の超越論的な同一性を前提にしているように、芸術というカテゴリーそのものを排除的包摂によって例外化させる「人類学=芸術機械」の効果によってあらかじめ規定されていることがわかる。久保明教は、ナチュラリズムおよび多文化主義を突き詰めた先に現れるのは「独我論」であると重要な指摘をしている(*30)。つまり、ウィトゲンシュタインが独我論の解決として言語ゲームの問題を見出したように、「使用」のパラダイムは、ナチュラリズムの自然な帰結としての各芸術ジャンルの独我論(モダニズム)に陥るか、資本によって例外状態化した芸術というカテゴリー自体の自閉的な肥大化(ポストモダニズム)の二者択一を迫られるのだ。

 ここにはもう出口はない。この袋小路を抜け出るためには、人類学は人間というカテゴリーそのものを捨てなければならないし、芸術もまた芸術というカテゴリーそのものを放棄しなければならない。はたしてこうした二者択一を超えて芸術実践を考えるためにはいかなる方法があり得るのか。本論は、この問題の核心には「意味」から「身体」への転回があると考える。荒川/ギンズによるデュシャン的なパラダイムとの訣別は、まさしくここに見出すことができるだろう。

*19──アーサー・C・ダントー『アートとは何か──芸術の存在論と目的論』佐藤一進訳、人文書院、2018年、48頁。
*20──コスース「イヴ・クラインについて」、『哲学以後の芸術とその後』、342頁。
*21──コスース「言葉にできないものの戯れ」、同上、385頁。
*22──コスース「⼈類学者としての芸術家」、同上、201–228⾴。
*23──ガブリエレ・グルチョ「イントロダクション」、同上、38頁。
*24──フィリップ・デスコラ『自然と文化を超えて』小林徹訳、水声社、2020年、111頁。
*25──里見龍樹『不穏な熱帯──人間〈以前〉と〈以後〉の人類学』河出書房新社、2022年、137頁。
*26──久保明教『内在的多様性批判──ポストモダン人類学から存在論的転回へ』作品社、2025年、32頁。
*27──デスコラ『自然と文化を超えて』、125頁。
*28──ボリス・グロイス『アート・パワー』石田圭子・齋木克裕・三本松倫代・角尾宣信訳、現代企画室、2017年、287–288頁。
*29──ジョルジョ・アガンベン『開かれ──人間と動物』岡田温司・多賀健太郎訳、平凡社ライブラリー、2011年、69–70頁。またアガンベンは『身体の使用』において、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』で言語ゲームとともに論じた〈生の形式(Lebensform)〉を 20世紀の前衛芸術以後の「芸術と生」の問題とともに論じており、そこでは〈生の形式〉を「ゾーエーとビオス、生命と形式、私的なものと公的なものが無区別の閾に入りこむ」場であると述べている。「〈生の形式〉は無責任性のゾーンが分節化されたものであって、そのなかでは法の在りかを同定したり責任を負わせたりすることは宙づりにされているのである」(アガンベン『身体の使用──脱構成的可能態の理論のために』上村忠男訳、みすず書房、2016年、414頁)。
*30──久保明教『内在的多様性批判』、226頁。

編集部