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第17回芸術評論募集【佳作】吉見太一「荒川修作/マドリン・ギンズという人類学的徴候──デュシャン的なパラダイムと訣別するため」【4/5ページ】

3. 身体──シャーマニスティックな媒体=霊媒(メディウム)

 荒川/ギンズの作品は、荒川とデュシャンとの個人的な交友関係から、ある種の連続性のうちで論じられることが多い。しかし、荒川/ギンズの作品とその思想を論じた工藤順一は「荒川こそマルセル・デュシャン以降、芸術の王道をいくものだという一部の荒川ファンの意見も聞くが、私はそうも思わない」と述べる。「所詮西欧近代芸術、あるいはデュシャン以降の現代美術、そのどちらにしろ、最終的に荒川のくみするものではないとするならどうだろうか」と続け、荒川とデュシャン──および西欧の近現代美術全体──との決定的な差異を以下のように指摘している。

彼[荒川]はマルセル・デュシャンを横滑りさせたのではなく、彼をさらに反転させることで、そのデュシャン=西欧近代芸術さえ乗り越えていこうとしたのだと私は思う。決定的なのは、デュシャンの「見る者が芸術をつくる」にたいして、荒川の場合は全くその逆、「見る者が(芸術によって)つくられる」のであるから。(*31)

 序論で見たように、初期の荒川がデュシャンやウィトゲンシュタインと通じる「意味」の問題を中心に制作を行ってきたことは自明だろう。しかし《意味のメカニズム》以後、「荒川修作の実験展:見る者がつくられる場」(1991、東京国立近代美術館)のインスタレーションなどをはじめとして、荒川は身体を明確に思考の対象にし始める。これついて、荒川自身は「《意味のメカニズム》をつくってはっきりとわかったのは、意味を追求していったら結果的には身体論になってしまうということです」(*32)と明かしている。小林康夫は、J・L・オースティンの言語行為論を引き合いに出して「荒川さんは意味の方から入って、言語の謎めいた場に対する問いかけをずっとなさってきて、それを突き抜けてしまった。普通のアーティストならそこで世界の方にいくのですが、荒川さんはそうではなく、時間と空間が一緒になった行為の場というのは何なのかを徹底的に明晰にするというテーマに向かわれた」と指摘している。

 また荒川/ギンズが、こうしてあらゆる表現様式を放棄して建築に活路を見出した背景には、ヘーゲル美学において建築がもっとも不完全な芸術とされていたのをむしろ「唯一生活空間を内に秘めていたのが建築」(*33)であると捉える、身体に対するプラグマティックな逆転の発想があった。つまり荒川/ギンズの建築作品では、デュシャン的な意味論とヘーゲル的な美術史観の双方が反転させられることで、「見る者がつくられる」場=「時間と空間が一緒になった行為の場」としての身体が問題となるのだ。

 彼らの思想において、この時間と空間を多元的に組み替えるような身体行為の場とは、「切り閉じ(クリーヴィング)」という概念によって提示されている。『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』(1994)によると、この概念は「『くっつく』と『切り離す・切り離される』との両方を意味する」(*34)。この切り閉じは、『死なないために』(1987)で提起した「ブランク(空白)」の思想を、身体的なレベルでさらに発展させたものでもあり、それは多元的な時空間の同時的な殺到を、身体という可塑的なメディウムにおいて把握するための思考の条件である。その意味で、荒川/ギンズにおいて建築とは、身体に直接的な負荷を与えることで所与としての時間・空間をまったく別様に切り閉じる潜勢力を与えるための人工的な装置となる。

 その建築的実践は、例えば筒状のドームに二対の龍安寺の石庭を左右に配置した《奈義の龍安寺》に顕著に現れている。ここでは、身体における錯綜した時空間の切り閉じによって、自らの「分身」あるいは「身代わり」が無数に分裂生成される。「身体がいたるところで自分の見えない分身である『肉体』を発見し、また同時に、自分自身がその不可視の『肉体』の分身のように感じる空間」(*35)が現れ、そこでは身体における無数の「切り閉じ」が幾層にも重なり合うことで身体と場所の双方が分身的に複数化するのだ。

 以上から、荒川/ギンズがもはやデュシャン=ウィトゲンシュタイン的な「使用」のパラダイムとは程遠い地点にいることは明白だろう。おそらく荒川が芸術というカテゴリーそのものを放棄し、哲学・科学・芸術を綜合する創造家を意味する「コーデノロジスト」を自称するようになったのもこれと無関係ではない。第2章を踏まえ、ここからは荒川/ギンズの身体論を、とりわけ人間と非−人間の関係性をめぐる昨今の存在論的転回以後の人類学の観点から考えていきたい(*36)。

 『建築−宿命反転の場──アウシュヴィッツ−広島以降の建築的実験』(1995)で、荒川/ギンズは「ひと」の発生に対する身体の先行性について記述している(*37)。様々な諸身体の差異に応じて世界は複数的に切り分けられ、そこに初めて「ひと」が事後的に発生する。ここで荒川/ギンズが「ひと」という抽象的な概念を採用しているのは、身体における差異の先行性に着目することで、生物学的な意味での人間とは異なる議論を展開しようとしたためだと考えられる。さらに本論の文脈において重要なのは、荒川/ギンズが、建築が与える環境的な負荷によって、身体はむしろ「『ひと』的ではないもの」へと生成しうる潜在性を持っていると述べている点だ。

この習慣的でかつ死をもたらすプロセスをくつがえすには、二つの方法がある。一つは、環境をきわめて濃縮して発展させることで、慣れ親しんでいるものに負荷をかけ、それを見知らぬものにしてしまうことである。もう一つは、肉体をひどく、そして執拗にアンバランスな状態に投げ出し、肉体の努力の大半がバランスを取り戻すために使われ、慣れ親しんでいるものの社会=歴史的な母体の日常的なとりまとめのための、つまり「ひとらしく」あるための余力が残っていないようにしてしまうことである。(*38)

 荒川/ギンズの思想において、建築が身体に与える物理的な負荷には「ひとらしく」ある状態を乗り越えるという企図が含意されている。『建築する身体』(2002)などの諸著作において「切り閉じ」の概念は、知覚の降り立つ場所を意味する「ランディング・サイト」の概念へと発展をみせる。「建築的身体、それは建築的環境とのかかわりで、ランディング・サイトを分散させ、配置し、選択することである。建築する身体は無数の召還を超えた召還であり、(中略)それらは暫定的なものの集合化であり、遍在する接続である」(*39)。同書の邦訳に「人間を超えていくために」というサブタイトルが付けられているように、荒川/ギンズが身体と建築の関係性においてある種のポストヒューマン(トランスヒューマン)的な視座を持っていたことは明白だろう。

 その目論見は、とりわけ「人間の概念を大幅に拡張する」ために採用された「有機体−人間(organism that persons)」という語に見出すことができる。有機体の潜在性は、身体の差異とその様々な使用に従って次第に具体的な人間として現勢化されていく。つまり「人間へとなるというこの傾向は、有機体が身体をどのように配置していくかに直接依存している」。したがって、身体の配置によって有機体が人間になるかどうかが決定されるのであれば、その有機体には必然的にほかなる有機体と接続されうる可能性が伴っていなければならないだろう。これについて、荒川/ギンズは「建築的身体は、他の有機体と、共時的にも通時的にも共作動することにおいて、身体そのものと建築的環境とを媒介し、それゆえ、それじたい共同的なものだと考えられねばならない」(*40)と述べる。

 つまり、荒川/ギンズは「有機体」と「身体」の問題を必ずしも人間的なものに限定していない。「有機体−人間は、人になっていく潜在能力をもつが、必ずしも人間になる必要もなく、一人にとどまる必要もない」(*41)。また『死ぬのは法律違反です』(2006)では「切り閉じによって生き生きと作動している全領域」を意味する概念である「バイオスクリーヴ」は、「多様性の一切において共同して生きるものおよびその領域全体としての生命を意味する」と説明されている(*42)。以上から読み取れるのは、有機体という位相における人間と非−人間との潜在的な共同性である。「有機体−人間(organism that persons)」が、personを動詞化させた用法(直訳すると「人間する有機体」)によって表現されているのもそのためだろう。「他のタイプの有機体、イヌやキリンやゴキブリも、それぞれの世界をもつ」が、これを上に習ってorganism that dogs(イヌする有機体)などと表現できるように、荒川/ギンズは有機体における人間と非−人間の潜在的な共同性と具体的な身体の使用によるその動詞的な分有を重視しているのである。

 この議論で問題になっているのは、有機体レベルにおける「人間/非−人間の共同性」であると同時に、それを具体的に分有させる「身体における差異」の問題であると考えられる。つまり「有機体–人間」という語で、人間/非−人間を束ねるもの(=有機体)と切り分けるもの(=身体)とが同時に重ね合わされているのである。この意味で、『建築する身体』で荒川/ギンズが提起しているのは、人間/非−人間を束ねると同時に切り分ける──「人間/非−人間」それ自体の切り閉じ──ような、非本質主義的で可変的ともいえるマニエリスティックな身体の使用法である。「日常とは異なる環境のなかで振る舞うことは、われわれを時に人間にし、時に犬にする。われわれは人間にも、犬にも、キリンにもなれる」(*43)。荒川/ギンズが企図していたこととは、人間身体の通俗的な使用を、有機体レベルでの非−人間との共同性にまで遡行することで変容させ、人間/非−人間の身体的な差異のあいだにマリリン・ストラザーンが言うような「部分的つながり」(*44)を無数に創出することだったともいえる。

 実際、荒川は「どんなものも、ことも、主体になる可能性を持っていますね。いわゆるイヴェントの集成としての身体でしょう」(*45)と発言しているほか、《三鷹天命反転住宅》(2005)の使用法には「月ごとにいろいろな動物(例えば、ヘビ、シカ、カメ、ゾウ、キリン、ペンギンなど)のふりをして、住戸内を動きまわりましょう」と記されているなど、頻繁に「人間/非−人間の共同性」と「諸身体における差異」を問題化している。以上の議論は、荒川/ギンズの身体論にある種のアニミズム的なもの、ひいては多自然主義的なものを認めることでもあるだろう。アニミズムの存在論とは、2章ですでに論じたデスコラの図式によれば、内面性(精神)の類似と肉体性(身体)の差異を意味する。これはちょうど西欧における近代的な自然観であるナチュラリズムを反転させた図式であり、その意味でアニミズムの存在論は、あらゆる非−人間的なものに人間性=人格を認める「多自然主義」に通じるものである。だがそれは人間による非−人間の一方的な擬人化のようなものではない。多自然主義においては非−人間的なものにも人間性=人格が認められることになるが、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロが言うように、そこでは人間性=人格におけるそれぞれの視点(パースペクティヴ)は身体の差異に応じて「相互に反照的なもの」として現れる。例えば人間が自らを人間として意識するように、ジャガーもまた自らを人間として意識する。だが、そこでは人間が血として認識するものを、ジャガーはビールとして認識するという反照的な存在論=パースペクティヴが現れるのである。

多自然主義は、それぞれの種に固有な悟性のカテゴリーによって部分的に把握される物自体を前提とするものではない。先住民が「Xという何か」、たとえば人間が血として飲み、ジャガーがビールとして飲む何かが存在すると想像しているとは考えないことにしよう。多自然のなかに実在するものは、異なった仕方で知覚される自己同一的な実体ではなく、血/ビールというタイプの関係論的な直接的多様性である。(中略)結局、ある種にとって血であり、他の種にとってビールであるようなXなどは存在しない。はじめから血/ビールしか存在しないのであり、それは人間/ジャガーという多様性に特徴的な特異性もしくは情動性なのである。(*46)

 これは、デュシャンのアンフラマンス、ウィトゲンシュタインのアスペクト転換が、同一対象Aにおける複数の知覚のされ方という多文化主義的な図式──「見る者が芸術をつくる」図式──だったのとはまさに対照的である。多自然主義は、カントのような超越論的な同一対象としての物自体や特定主体の統覚による支配を前提としておらず、そこには初めから「血/ビール」という関係論的な直接的多様性しかないのである。

 またアニミズムの存在論において「シャーマン」とは、この異なる複数的な身体=パースペクティヴを同時的に占めることでそれらを束ね、多なる自然をつなぎ合わせる存在である。エドゥアルド・コーンが言うように「それ[パースペクティヴ主義]が可能にするのは、同時に二つの観点に、シャーマンのように気づくこと、そして二つの観点が突如としてそれらを包含するより大きなものにつながっているのに気づく空間…に居残ることである」(*47)。多自然主義のパースペクティヴ主義は、自己同一性なき「血/ビール/etc. 」の多自然的な表出の重層性をシャーマニスティックに感受させる。デ・カストロが多自然主義におけるパースペクティヴ主義を「情動と能力の束であるような身体」において起こる「身体的なマニエリスム」であるとするのは、この意味においてである(*48)。またデ・カストロは自身のパースペクティヴ主義をブルーノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク理論(ANT)やドゥルーズ=ガタリの多様体やリゾーム、ライプニッツのモナドロジーなどに結びつけ、それを差異の強度的な動力によって駆動する「中心のない網状のシステム」であるとも述べている(*49)。これらを踏まえると、切り閉じやランディング・サイトの無数の分散を生み出す荒川/ギンズの「建築する身体」とは、身体を可塑的なメディウムとして捉えるという点で、その「媒体=霊媒(メディウム)」という語源の通り、身体をシャーマニスティックな多自然主義のうちに置くことであると考えられる。シャーマンがその肉体に人間/非−人間の身体的な差異を複合的に束ねるように、荒川/ギンズの建築思想において、身体というメディウムは、複数の多自然的な観点の重なり合いが殺到する汎−パースペクティヴ的なものになるのだ。

 平倉圭は、荒川の絵画作品における「両立しがたい複数のパースペクティヴ」の重複について言及しているほか、同様に山本浩貴(いぬのせなか座)も「相容れないいくつかの遠近法が混在するように描かれている」と指摘している(*50)。絵画では依然としてデュシャン=ウィトゲンシュタイン的な「意味」が問題となっていたものの、その後の建築作品においては、絵画に見られたような両立しがたいパースペクティヴの混在は、リテラルな身体のレベルにまで引き下げられ、非−人間の観点をも含んだアニミズム的かつ多自然主義的なものへと変容する。そして人間/非−人間のパースペクティヴを幾重にも含んだ「建築する身体」は、その閾値を超え、最終的にはパースペクティヴそのものの否定にまで至るだろう。

未決定性。未決定性の塊。実際、これに対してのそれは、それなのか? サイズがないこと、あるいは多くの異なったサイズのないものが同時にあること。パースペクティヴがないこと。(*51)

 ここにおいて、荒川/ギンズの多自然主義はもっとも極限的なかたちで現れる。汎−パースペクティヴから非−パースペクティヴへ。人間/非−人間の複数的なパースペクティヴが過剰に束ねられることによって、もはや特定の「ひとらしい」パースペクティヴそのものが徹底的に消尽してしまうような──中心なき〈空白(ブランク)〉としかいいようのない──非−場所。「遍在する場(ubiquitous site)」とは、まさしくこのような事態にほかならないだろう。

*31──工藤順一「A+G プロジェクト・概念地図──新しい文明(パラダイム)をつくるために」、『現代思想 総特集:荒川修作+マドリン・ギンズ』青土社、1996年、50頁。
*32──荒川/小林『幽霊の真理』、86頁。
*33──荒川修作/得丸公明「荒川修作の意味のメカニズムを読解する(2)──荒川修作インタビュー『建築で人間の意識を生み出す』」、『電子情報通信学会技術研究報告』111(87)、電子情報通信学会、2011年、7頁。
*34──「『切り閉じ』の二つの意味(付くことと分離すること)に、いわばサンドイッチにされていると思われているのは、思考の『素材』そのもの、つまり通常は『透明である』とか『透明性そのもの』と見なされているものであろう。知覚するテクスチャー=媒体は、切り閉じするという相反する二つの行為が同時に発生した時、その中と間とで形づくられると言ってもよい。この媒体は、…あらゆる切り閉じ──生起するごとに、時間においても空間においても、次に来るもののすべて、今まで形づくってきたこと、また形づくりつつあること──の結果なのである」(マドリン・ギンズ/荒川修作『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』渡部桃子監訳、新書館、2010年、30頁)。
*35──内田隆三「場所とは何か──荒川修作と〈肉体〉の建築術」、『現代思想 総特集:荒川修作+マドリン・ギンズ』、224頁。
*36──これまで多くの荒川/ギンズの身体論は、主にモーリス・メルロ=ポンティの現象学、ジェームズ・J・ギブソンのアフォーダンス、マトゥラーナ=ヴァレラのオートポイエーシス理論、西田幾多郎における場所の論理、また身体の可塑性や情動性を介した新たな倫理の創設という点においては、スピノザの『エチカ』およびドゥルーズ=ガタリの諸著作などとともに論じられてきたが、本論はこれらに加え、荒川/ギンズの思想には明白な人類学的な視座があるとする立場を取る。
*37──「肉体を持つということは、世界を、その一つの特別なものを持つということを含んでいる。この世界は、その中にさまざまな要素や出来事が分散されて場を持つ世界である。肉体は動きと感覚を通して世界を形作る、もっと詳しくいうなら、それぞれの肉体は『ひと』を発生させ、その『ひと』が世界を新たに作り出す、つまり、互いに新しく作りあうのである」(荒川修作/マドリン・ギンズ『建築−宿命反転の場──アウシュヴィッツ−広島以降の建築的実験』工藤順一・塚本明子訳、水声社、1995年、18頁)。
*38──同上、8頁。
*39──荒川修作/マドリン・ギンズ『建築する身体──人間を超えていくために』河本英夫訳、春秋社、2004年、98頁。
*40──同上、105頁。
*41──同上、72頁。同上、149頁。
*42──荒川修作/マドリン・ギンズ『死ぬのは法律違反です──死に抗する建築:21世紀への源流』河本英夫・稲垣論訳、春秋社、2007年、328–329頁。
*43──三村尚彦「仮説としての荒川/ギンズ──『建築する身体』の切り閉じ」、三村尚彦・門林岳史『22世紀の荒川修作+マドリン・ギンズ──天命反転する経験と身体』フィルムアート社、2019年、134頁。
*44──マリリン・ストラザーン『部分的つながり』大杉高司・浜田明範・田口陽子・丹羽充・里見龍樹訳、水声社、2015年。ストラザーンの人類学において「部分的つながり」とは、複数の人格間における「原子論的な見方(全体は独立した要素の寄せ集めから構成される)と全体論的な見方(要素は全体的な構造や体系から離れて存在しない)の二者択一」に囚われないような他者との関係記述の方法のことである。「それ自体で一となることもなく、複数から成る多数のなかの一粒子でもなく、また総和でも断片でもないイメージ」としての異なる人格間のパースペクティヴを記述するための方法が「部分的つながり」であり、そこでは「各部分は、お互いのスケールに組み込まれ」ないままで双方のポジションを対称的に拡張し合うため、部分/全体のホーリスティックな関係性が形成されない。つまり「いずれのポジションも包括的な文脈やすべてを見渡すパースペクティヴを提供しない」ため、部分的つながりは「特定の場を持たない」とストラザーンは述べている(『部分的つながり』、95–137頁)。
*45──荒川修作/松野孝一郎/郡司ペギオ幸夫/中島敏幸「Einstein or ARAKAWA」、『現代思想総特集:荒川修作+マドリン・ギンズ』、396頁。
*46──エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学──ポスト構造主義的人類学への道』檜垣立哉・山崎吾郎訳、洛北出版、2015年、76–77頁。デスコラは『自然と文化を超えて』においてデ・カストロの多自然主義を踏まえてアニミズムの存在論の議論を展開しているが、いっぽうで「この議論を、アニミズム的存在論の総体にまで一般化することはできるのだろうか」と異議を呈しており、デスコラとデ・カストロのあいだには思想的な類縁性とともに微妙な立場の相違がある。デ・カストロは、両者の相違はレヴィ=ストロースの人類学に対するスタンスの違いであると記述している。「デスコラが明らかにし乗り越えた挑戦は、ある意味では、『野生の思考』を深く『言葉と物』と同一視したあとで、それを書きなおすという挑戦なのであるが、私がしばらくのあいだ試みた挑戦とは、『千のプラトー』によって、私が人類学をすっかり『忘れて』しまってから、『神話論理』を読みなおすことなのである」(『食人の形而上学』、95頁)。
*47──エドゥアルド・コーン『森は考える──人間的なるものを超えた人類学』奥野克巳・近藤宏監訳、亜紀書房、2016年、172頁。
*48──デ・カストロ『食人の形而上学』、75頁。
*49──同上、135–149頁。デ・カストロは、多自然主義のパースペクティヴ主義に通ずるANTや多様体、リゾームなどを「『部分』と『全体』の区別を棄却する根本的にフラットな存在論」であるとし、それを「バロック的な複雑性の概念」とも呼んでいる。《遍在する場・奈義の竜安寺・建築する身体》がもともと「大きな場所にモナドを造ろう」として実現した作品であることを鑑みれば、非−メレオロジカルで中心性を廃棄する荒川/ギンズの身体論を、ライプニッツやドゥルーズの『襞』、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド、チャールズ・サンダース・パース、西田幾多郎など、檜垣立哉が論じた広義の意味での「バロックの哲学」との関係性から考えることも可能だろう(檜垣立哉『バロックの哲学──反-理性の星座たち』岩波書店、2022年)。
*50──平倉圭「裂き接ぎ──荒川/ギンズ/瀧口」、『交信詩あるいは書簡と触発──瀧口修造と荒川修作/マドリン・ギンズ』慶應義塾大学アート・センター、2025年、89頁。山本浩貴(いぬのせなか座)「私的宛先から交通網そのものの彫刻へ──marginとblankにおける「白」の位置」、同前、104頁。荒川/ギンズの思想における人類学的な視座を提示する本論の立場上、平倉が上記の論考で荒川の絵画作品《The Virgin, the Vivid, the Fine Today》(1985-86)におけるダイアグラム性について、マルセル・モースの「人格(パーソン)」の概念を用いて説明していることは極めて示唆的な指摘である。平倉の著書『かたちは思考する──芸術制作の分析』(東京大学出版会、2019年)で参照されているイギリスの社会人類学者アルフレッド・ジェルの『アートとエージェンシー──ある人類学的な理論』(内山田康・中谷和人・吉田ゆか子・深川宏樹・渡辺文訳、水声社、2025年)によると、ある芸術的対象がなんらかの「人格」として考えられるとき、それはある主体になんらかの行為を促す行為体=エージェントとして現れ、その芸術的対象が「一つの「心(マインド)」をもつことを含意」しうる(同書、214頁)。このような「人格」における「心」の発生を論じたジェルの著書は、チャールズ・サンダース・パースの記号論における対象との直接的・痕跡的な接触を意味する「インデックス」の概念に多くを負っているが、このインデックスとは、矢印などを多く含む荒川の絵画作品においても指摘されてきたことでもあった。「アラカワの作品のいくつかは、イコン(イメージ)、シンボル(言語)のいずれの範疇にも属さない意味作用の因子を持っている。それらは、パースの記号論において、〈インデックス〉と呼ばれているものだろう」(C.W.ハクストハウゼン「アラカワを見る」中林和雄訳、『荒川修作の実験展──見る者がつくられる場』カタログ、東京国立近代美術館、1991年、40頁)。インデックス的な接触を介して発生する「人格」と「心」の問題は、むろん、本論で論じてきた「アニミズム」の問題にも通底するが、何よりも《遍在する場・奈義の龍安寺・建築する身体》が当初は《遍在する場・奈義の龍安寺・心》という作品名だったことも踏まえると、荒川/ギンズの建築思想を、パースの思想のみならず、マリリン・ストラザーンやロイ・ワグナーによるメラネシアの人格性の研究にも拡張できると考えられる。
*51──荒川/ギンズ『建築する身体』、103頁。

編集部