序. デュシャンとアラカワの訣別
若き日の荒川修作(1936〜2010)は、日本で2回のネオダダ展を開いた後に瀧口修造の計らいで渡米、1961年にアメリカで晩年のマルセル・デュシャン(1887〜1968)と邂逅する。以後、芸術上の信頼関係も深かった2人だが、荒川とデュシャンは次第に距離をとるようになる。荒川は1962年に出会い、のちにアーティスト活動における生涯の伴侶ともなるマドリン・ギンズ(1941〜2014)とともに1963年から《意味のメカニズム》に着手し始める傍ら、アルファベットなどの言語記号や矢印、図形などで構成された「ダイアグラム(図形絵画)」を制作する。1966年にはニューヨークで個展を開催し、これにデュシャンも訪れた。デュシャンはダイアグラムの前に長時間立ち止まった後、ニヤッと笑いながら「これは絵画ではない(This is not painting)」と言い残して立ち去っていったという。また同年に撮影された荒川とデュシャンが映った写真について、荒川は「これは、もう僕らが喧嘩するようになってからのものですね。彼をちょっと否定するような、この写真の後ろに映っているような絵を書いちゃったから」(*1)と、デュシャンとの思想上の不一致について明かしてもいる。
荒川がデュシャンを否定するに至った理由はどこにあったのか。1997年にグッゲンハイム美術館で荒川が日本人として初めてとなる個展「We Have Decided Not To Die」を開いた際、カタログにフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが序文を寄せた際のエピソードがある。
それでこの展覧会が始まる七、八カ月前に、彼[リオタール]が電話で、「Reversible Destinyっていうのは、やっぱり詩的な、芸術的なタイトルだろう」っていうから、「冗談じゃない」ってものすごく怒っちゃったの。そしたら、「アラカワ、お前知っているだろうな。すべてのフランス人はカンティアン〔カント派〕だぞ」っていう。つまり、心と体は別だと思っているんだ。だからデュアリスト〔心身二元論者〕なんだ。そういう点から見るとね、あの人もそうだった。マルセル・デュシャンも。(*2)
荒川にはデュシャンの代表作《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称《大ガラス》)をオマージュしたアッサンブラージュ作品《デュシャンの大ガラスを小さな細部としている図式》(1964)があり、またゴミ箱から拾った建築申請用の図面で制作した「ダイアグラム」もある種の「レディメイド」として創作されたことを鑑みれば、荒川がデュシャンから大きな芸術的霊感を受けていたことは否定しがたい。しかし荒川/ギンズは1970年にヴィネチア・ビエンナーレで公開された《意味のメカニズム》を境にデュシャンの影響下から離れ、《遍在する場・奈義の龍安寺・建築する身体》(1994)や《養老天命反転地》(1995)などを皮切りに建築のほうへと活動の場を移すことになる。「デュシャンなんていう人は、「アートの終わり」と言いながら、やっていたのは精神のための贈り物なんですよ。彼はやっぱりへーゲリアンなんですよ。(中略)あの人との訣別のために、そのために、《意味のメカニズム》をやり、そこから新しいものをくみだすために建築の形式を選択したわけです」(*3)。これらを念頭に置くと、荒川/ギンズの「死なないこと」を最重要課題とするその建築思想には、デュシャンのレディメイドという方法への批判、そしてそれが保持しているカント主義、ヘーゲル主義、精神を優先する心身二元論との訣別があることが示唆される。
本論では、以上のような前提を踏まえ、デュシャンから荒川/ギンズへと至る芸術思想の変遷を論じる。まずデュシャンの革命性とそれに伴うポストモダンにおける芸術的パラダイムを確認した後、荒川/ギンズがいかにそのパラダイムを反転させ、芸術の存在論をまったく別様に構築していったかを明らかにする。またポストモダニズムにおける芸術の条件とは「芸術の人類学化」であるという観点から、デュシャンから荒川/ギンズへの思想的変遷を芸術理論のみならず人類学的な文脈からも捉え、特定の文脈に位置付けがたいその徴候性を探る。以上から明らかになるのは、デュシャンにおける「カント主義的なナチュラリズム=多文化主義の意味論」から、荒川/ギンズにおける「人工的な多自然主義としてのパラドキシカルな身体論」への反転である。
*1──塚原史『荒川修作の軌跡と奇跡』NTT出版、2009年、216–220頁。
*2──同上、232頁。
*3──荒川修作/小林康夫『〈対話〉幽霊の真理──絶対自由に向かうために』水声社、2015年、190頁。





















