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第17回芸術評論募集【次席】久保田荻須智広「返済不能な作品たち──その死の設計へ向けて」【3/5ページ】

教員室にて:美術教育における作品のその後

 前章では、作家のアトリエというもっとも私的な場所において、作品の負債性がすでに発生し、先送りされ、複利的に蓄積していく過程を見てきた。本章では視点を少しずらし、その無自覚がどのような環境のなかで再生産されていくのかを、制作教育の現場から検討したい。作家として活動を続けるうえで、作品制作を最優先する態度は、むしろ奨励されてきた。市場を前提に活動する場合であっても、完成した作品が誰かの手に渡ることは想定されるが、その後の管理や判断の連鎖がどのように生じるかは、制作の外部へと押し出されがちである。こうした分業的な態度は、個々の作家の倫理に還元されるものではなく、制作教育の構造そのものと深く結びついている。

 本章で参照するのは、美術大学における制作教育の現場である。ただし、以下に挙げる事例や証言は、筆者が所属する東京藝術大学において各専攻の教職員に対して行ったインタビューに基づく限られた観測点にすぎない。それでもなお、これらは制作の自由度が高まった現代美術の教育環境において、判断や責任がどのように分配され、どこで宙吊りになるのかを具体的に捉えるための有効な視座を与えてくれる。本章では、固有の制度や運用そのものを批判するのではなく、制作教育という環境が、いかなる態度や分業倫理を生成し、作品の負債性をどのように外部化しているのかを、構造的に読み解くことを目的とする。

 制作教育の現場を観察すると、その構造は大きく二つの型に分けられる。ひとつは、特定の技法やメディウムに特化した技法特化型の制作であり、もうひとつは、コンセプトを起点にしながら、必要な技法を後から選択・組み合わせていくコンセプト主導型の制作である(*18)。前者では、制作過程そのものが素材理解や耐久性への配慮を内包しており、結果として作品は長期的な安定性を獲得しやすい。とりわけ伝統的なメディウムを扱う分野では、制作指導がそのまま保存管理や保存修復に接続しているという認識が共有されている。一方で後者の制作では、作品ごとに素材や構造が大きく異なり、その選択も可変的であるため、完成後の管理や再展示を想定した判断が、制作段階から置き去りにされやすい。

 技法特化型の制作教育を担う専攻において、素材の扱いと作品の堅牢性を結びつける指導は顕著である。たとえば日本画では、カリキュラムの基本構造が数十年にわたりほとんど変わっていない。岩絵具の扱い方、筆や紙、箔といった材料講義が体系化され、技法の習得と素材の理解が不可分のものとして教えられている。ある教員は、学生の制作に対して「1年後にボロボロになるようなものはちょっと良くないんじゃないの」と伝えることがあると語った。これは保存修復の専門的な指導ではないが、物としての堅牢性への配慮が、制作指導の延長線上に自然と組み込まれていることを示している。工芸においても同様の傾向が見られる。鋳金では、素材を溶かして再利用することが技術的に可能であり、十数年前の卒業生から「後輩のために使ってください」と作品が送られてくることもあるという。漆芸では、蒔絵や螺鈿といった複数の加飾技法を複合的に扱う教育が行われており、その過程で素材の特性や経年変化への理解が深められていく。彫刻においても、木彫・石彫・金属・塑像といった素材ごとに技法が分かれ、1・2年次に各素材を一通り経験したうえで、3年次以降に専門を深めていく構造がとられている。こうした分野では、素材の扱い方を学ぶことが、同時にその素材の限界や変化を知ることにつながりやすく、完成後の扱いについても一定の見通しが立てやすい。しかし、作品が役割を終えたとき、どの段階で「作品としての生を終えるのか」という終末条件は、明示的には語られない。保存される前提が暗黙のうちに共有されているが、その前提が崩れたときの判断基準は用意されていない。

 コンセプト主導型の制作が主流となる現代美術の教育現場では、制作を支える教員や技術職員、助手が、作品の全体像を十分に把握できないまま判断を求められる場面が少なくない。ある助手は、作品の構造や使用された素材について一定の知識を持っている。しかし、その作品を今後どのように保管し、再展示が可能かどうかを決定する権限は与えられていない。学生本人はすでに制作から離れ、教員は別の授業や業務に追われている。知識は存在するが、判断を下す主体が不在であるため、決定は先送りされる。複数の素材や技法が組み合わされた作品においては、制作に用いられた手順や意図が学生本人にしか共有されておらず、展示後の保管や修復、再展示の可否を第三者が判断することが困難になる。これは特定の担当者の力量不足ではなく、制作の自由度が高まるにつれて、判断に必要な情報が制作の内部に閉じ込められたまま、組織的に外部化されていく構造の問題である(*19)。

 こうして外部化された問題は、最終的に保存修復の現場へと持ち込まれる。そこでは、すでに完成し、流通し、劣化が進行した作品に対して、素材の不安定さや構造上の問題が初めて顕在化する。しかし、制作時の判断や意図を遡って確認することは難しく、修復の可否や方法は、その場で新たに決定されることになる。責任は事後的に回収されるが、その起点は曖昧なままである。東京藝術大学においては修士課程より保存修復の専攻が存在し、保存修復の教育や研究は伝統的なメディウムごとに体系化されてきた歴史をもつ。一方で、制作教育の側では表現の多様化が急速に進み、両者の前提となる分類体系のあいだには大きな非対称性が生じている(*20)。この非対称性は、作品の負債性を制作段階から外部化し、それを前提としない分業倫理を再生産する。制作に専念することが善とされる一方で、作品のその後を考える態度は、制度の外部に押し出され続けている。

 現代美術の保存修復をめぐっては、学芸員や保存修復家だけでなく、作家や遺族、ギャラリー、インストーラーといった複数の主体が関与する「ケアのネットワーク」(*21)の重要性が指摘されてきた。しかし、その多くは完成した作品をいかに引き受けるかという事後的な対応に焦点を当てている。制作段階において、作家自身がどのような情報や判断条件を外部に残すのかという問いは、なお十分に検討されていない。次章では、この問いを制作実践そのものへ引き戻し、作家はどこまで関与しうるのかを検討する。

*18──本稿で用いる「技法特化型/コンセプト主導型」という整理は、美術教育の現場における制作方法の差異を便宜的に示すものであり、厳密な分類を意図するものではない。
*19──専門分化が進んだ組織において、知識と決定権が乖離し、判断が宙吊りになる状況は、芸術分野に限らず広く指摘されてきた。制作の自由度が高まる一方で、その判断に必要な情報が制作主体の内部に閉じ込められると、組織的には「判断不能な空白」が生じやすくなる。本稿ではこの現象を、教育現場における個人の力量不足ではなく、情報と責任の配置をめぐる構造的問題として捉えている。
*20──保存修復の教育や研究は、長らく絵画、彫刻、工芸といった伝統的メディウムごとに体系化されてきた。一方、制作教育の側では、1960年代以降、メディア横断的・可変的な表現が急速に拡張している。この両者の時間差と分類原理の違いは、完成後の管理や判断をめぐる困難として現れやすい。本稿では、このズレをたんなる過渡期の問題ではなく、制度的な非対称性として位置づけている。
*21──本稿における「ケアのネットワーク」の概念については*5を参照。

編集部

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