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私たちは何を学べるのか? 小田原のどか評「表現の不自由展・その後」

「あいちトリエンナーレ2019」の一企画であり、8月3日に展示が中止された「表現の不自由展・その後」。この展示中止をめぐっては、「検閲」「表現の自由」「キュレーション」など様々な角度から議論が巻き起こっている。この企画を、「あいちトリエンナーレ2019」参加作家でもある小田原のどかが「表現の不自由展・その後」の全17の出品作にも目を向けながら分析する。

文=小田原のどか

扉が閉ざされた「表現の不自由展・その後」と「CIR」の展示室

「失敗」の研究

 先月末、筆者は「広島市平和記念資料館」について書いた。展覧会レビューという形式を借り、日本の戦時の「加害」について展示することをめぐって広島と長崎の二つの原爆資料館を架橋し、1996年の長崎で起こった「加害展示論争」に光を当てる内容だ。

 このような論考を書いたのは、まだ日本には存在しない国立の戦争博物館というナショナルな記憶の場がつくられる未来を想定し、その道程で必ずや大きな分断を可視化することになる「加害展示」について、議論の準備を始めたいという意図による。過去に学び、かつて長崎で起きた「失敗」と、それにより実現した「共同」の内実を多く人と共有したいと考えたのだ。そして同時に、96年の長崎では存在していなかった、インターネットやソーシャルネットワーキングサービスによってかたちづくられる「民意」や「公共」が、加害展示をめぐる論争にどのように影響するのかを考えるための下地をつくっていきたいという思いもあった。

 96年の長崎原爆資料館の展示リニューアルは、一度は躓き失敗した。けれども、対立する市民の協働がなされたという点で、決して失敗だけに終わるものではない。むしろ、失敗や拒絶からこそ学ぶことがあるということは、筆者が昨年書いた「サン・チャイルド論争」をめぐる稿とも共通する。冷静な議論を始めるためには、失敗の研究を行う必要がある。しかしながら、そのような準備のための時間は限られていた。分断はすでに目の前に広がっている。

 8月1日、筆者も参加作家のひとりである「あいちトリエンナーレ2019」が開幕した。100を超える企画のなかで、開幕前日からもっともメディアに取り上げられたのが「表現の不自由展・その後」だ。いわゆる「炎上」状態になった本企画の顛末は、多くの方がご存じのことだろう。72日の会期を残し、8月3日で本企画は中止になった。

 さて、本来ならこの展覧会レビューでは、別の展覧会を取り上げる予定だった。しかし3日間という短い期間のなかで「表現の不自由展・その後」を見た者のひとりとして、そしてまた、あいちトリエンナーレ参加作家のひとりとして、提言の意味も込め、今回は「表現の不自由展・その後」について書くことにしたい。最初に、「表現の不自由展・その後」の中止について、所感を述べておく。

「表現の不自由展・その後」の展示風景より、左が《平和の少女像》(2011)

 多くの出品作家と同じく、「表現の不自由展・その後」の出品作品と出品作家を知ったのは7月31日、内覧会当日であった。「表現の不自由展・その後」という企画が開催されることはプレスリリースを通して知っていたが、まさか《平和の少女像》の実物が展示されるとは思っていなかった。というのも、「表現の不自由展・その後」の前身の、2015年に開催された「表現の不自由展 消されたものたち」(ギャラリー古藤、東京)での《平和の少女像》の展示をめぐる妨害工作を耳にしていたし、2016年から行っている韓国の《平和の少女像》の取材を通じて、この彫刻に悪感情をいだく人々や、問題を惹起するということでこの像を忌避する人々がいることを知っていたからだ。もしこの彫刻をあいちトリエンナーレに置くことになれば、ただではすまないだろうと思っていた。

 したがって、31日に《平和の少女像》の実物展示を知ったとき、どれだけ強固な防犯体制を敷いたのだろうか、相当な「覚悟」と「準備」のうえの開催だと、筆者は強く感心したのだ。しかし3日後、そうではなかったことが明らかになる。とはいえ、今回の中止を「覚悟不足」「準備不足」と断じるつもりはない。様々な思いはあるが、筆者は「表現の不自由展」の中止を決断した津田大介芸術監督と大村愛知県知事を支持する。「表現の自由」と「人命」が天秤にかけられる状況は、検閲が厳しい国や地域ではともすれば、ままあることかもしれない。しかし今回脅迫に対応したのは日本最大規模の芸術祭という大きな組織の職員である。そして、もしも美術館でテロが起こった際に、犠牲になるのも職員やボランティアスタッフであり、そして来場者だ。表現の自由を侵害する暴力と徹底的に対抗するというのならば、それは表現の遂行主体が行い、引き受けるべきであるだろう。

 「表現の不自由展・その後」の中止は、安全確保が理由とされている。中止に至った問題の諸相を単純に腑分けすれば、政府高官からの介入、市民による抗議、そして脅迫があると考えられる。ごく一般的に言って、市民には抗議をする権利がある。例えば、昨年福島市の公共空間に設置され撤去されたヤノベケンジによる大型彫刻《サン・チャイルド》についても、Twitterを中心に抗議の声があがった。どう考えてもおかしいと思うことがあれば、自由に抗議をすればよい。しかし抗議が危害予告や応対する職員の人権を侵害するような行為、つまり「脅迫」になった場合、これは犯罪である。脅迫については警察による容疑者の捜査が粛々となされるべきで、具体性を伴った脅迫から優先的に発信者を特定し、検挙されることが望まれる。

 そして政府高官による介入だが、これはいくつかの団体から声明文が出ているように、表現の自由を保障する憲法21条と、2017年に公布された文化芸術基本法の理念に反する行為である。脅迫や、政治家による公金を理由にした介入などの暴力を決して許してはならない。しかし、河村たかし名古屋市長の来歴を見れば、《平和の少女像》を批判する発言が出てくることはごく「当然」なのである(*1)。加えて、日韓関係がかつてなく悪化しているなか、外交案件としての慰安婦や徴用工問題と引きつけて、政府高官から「あいちトリエンナーレ2019」への圧力ともとれる発言が出てくることもまた、想像に難くない。また、これらの政治家の発言を報道機関がどのように報じたのかも冷静に分析される必要がある。

 私営のギャラリーではなく、実行委員長に県知事が名を連ね、公金が用いられる行事において、そのような「圧力」や「介入」が行われること、そしてそれらに煽られて炎上がさらに延焼することも、本企画を決定した中枢の人々は想定していたはずだ。これは、公金を使っているのだから、内容が中立的であるべきだということではない。そうではなくて、公金を理由にした抗議がなされることに対して、どのような準備をするのかが重要なのだ。津田芸術監督は本企画の開催のため、事前に多方面からの助言を受けていたという。事前案のなかに、中止へと至ってしまった際の対応策は用意されてはいなかったのだろうか。

 本企画の中止を受けて、海外作家らを中心に、自身の展示を同じく中止することや改変することを通じ、脅迫への抗議と、展示中止を一方的に決められた作家たちへの連帯の身振りを示した。いっぽう、筆者は8月5日から展示の一部を変更している。また、加藤翼、毒山凡太朗は名古屋市内にアーティストランスペースを立ち上げた。私は他の作家らの決断を尊重するが、自分自身の展示を閉鎖することはしない。なによりも来場者の見る権利を尊重し、そしてまた、私自身が作家として持つ作品を見せる権利を重視したいと考えているからだ。

 幸いなことに、国内外の参加作家の内部や、運営側とのあいだで対立が起こっているわけではない。8月10日には筆者が声がけ人となり、非公開の参加作家有志の話し合いが開催された。海外作家ではタニア・ブルゲラが参加し、各々の考えを真摯に議論することができた。海外作家と国内作家のやりとりはオンライン上で日々続いている。8月25日時点で津田芸術監督からは2通の仔細な状況説明のレターが、また大村県知事からも作家一人ひとりに宛てた真摯なレターが届いている。「表現の不自由展・その後」については、再開の障害となる現実的な問題を解決し、どのように再開するのか、あるいは再開しないのか、それらの議論こそ後世に残すべきものがあるだろう。

 そして、今回のトリエンナーレが、「表現の不自由展・その後」の中止と再開に関する論調一色になってしまったことにも疑問を呈したい。今回のトリエンナーレに、歴史認識や、大日本帝国による植民地化に関する作品が複数あったことは事実である。しかし当然のことながら、異なるテーマを扱った作品も多く、また、作品を問題提起や異議申し立ての手段として位置づけている作家ばかりでもない。「声明文」や「意見書」のような直截的なものからこぼれたものを扱うことこそが芸術作品の存在意義だ。だからこそ、様々な「声明文」や「態度表明」によって個別の作品が見えなくなっている現状には、強い違和を覚えるのである。

問題の根幹

 さて、肝心の「表現の不自由展・その後」だ。海外作家らの展示再開にとって、本企画の再開は欠かせない条件となっている。しかし筆者は、開幕当初と同じ状態の「表現の不自由展・その後」の再開を求めることには首肯しかねる。なぜなら、本企画をひとつの展覧会として見たときに、大きな構造的問題点があると考えるからだ。どういうことか。

 「表現の不自由展・その後」はアーティストの主体的な取り組みではない。実行委員会はアライ=ヒロユキ、岩崎貞明、岡本有佳、小倉利丸、永田浩三らの5名の美術批評家とジャーナリストで構成されている。本企画は2015年に東京の私設ギャラリーで開催された「表現の不自由展 消されたものたち」を前身とする。

 今回の「表現の不自由展・その後」は、「表現の不自由展」を引き継ぎつつ、新たに10作品が加わっている。出品された17作(作家名非公開とされた作品が1組、作家が存在しない作品が1作ある)のうち、半数以上が追加されたかたちだ。本企画は、「日本における『言論と表現の自由』が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会」で「扱った作品の『その後』に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する」ことがコンセプトとなっている(*2)。

 しかし、あいちトリエンナーレ2019のウェブサイトには、実行委員会5名の氏名や「表現の不自由展・その後」で展示されている17作品について、またそれらの作者についても、どこにも情報が記されていないのだ。「表現の不自由展・その後」の出品作についての解説文などの情報が記載されている独立したウェブサイトはあるが、あいちトリエンナーレのウェブサイトからはリンクされていない。そして「表現の不自由展・その後」をめぐる様々なニュース記事が日々公開されているために、「あいちトリエンナーレ2019 表現の不自由展・その後」と検索すると、現時点ではグーグル検索の上位100件以内に表示されないという驚くべき事態になっている(8月25日現在)。

 そもそも同ウェブサイトは、「表現の不自由展・その後」出品作家の強い要望でつくられたそうだ(*3)。そのような要望がなければこの独立したウェブサイト自体なく、インターネット上では出品作家と作品の情報を得ることはできなくなっていただろう。これが炎上対策であることは理解できる。しかし、そのような秘密主義のなかで企画が遂行されることを参加作家全員が承知していたのだろうか。

「表現の不自由展・その後」特設サイトトップページより

 津田芸術監督の「あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』に関するお詫びと報告」にある「トリエンナーレが直接契約を結んだ参加作家はこの『表現の不自由展実行委員会』です。そのため、トリエンナーレと『表現の不自由展・その後』に作品を出品したアーティストとは、直接契約していません」という証言からも明らかであるが(*4)、「表現の不自由展・その後」の出品作家は、ひとりのアーティストとして「あいちトリエンナーレ2019」に参加したわけではなく、「表現の不自由展・その後」にパッケージされるかたちで選出されている。

 このような構造は、本企画に参加するアーティストが「過去に展示不許可となったアーティスト」に、そして出品作が「過去に展示不許可となった作品」という括弧にくくられることを意味している。つまり、本企画は「過去に展示不許可となったアーティスト」による「展示不許可となった作品」の「再展示」として、アーティストと作品とを資料化することに等しく、そのような強固な枠組みのなかに17の個別の作品が歴史的資料という扱いでパッケージングされている状況がある。

 展覧会におけるキュレーションは個別の作品を選出し配置するだけでなく、そこにナラティブを与える。それは作品や作家を強固な主張や文脈に位置づけることを意味しもするが、だからこそ、敬意と責任をもって行われる。それこそがキュレーターの職能であり矜持であることといっていいだろう。

 驚くべきことに、本企画にはキュレーターとキュレーションが存在していない。しかしそうであるならなおさら、「過去に展示不許可となった作品」が一つひとつどのような状況で展示不可となったのか、その経緯を丁寧にひもとき、議論を開いていくことこそがジャーナリストらが手がけた本企画の開催意義であったはずだ。しかし展示室には年表や報道や評論などをまとめたファイルはあったものの、それらの見せ方が成功しているとは言いがたい状況があった。端的に言って、展示空間に対して出品作が多すぎる。その結果、一つひとつの作品を集中して見ることがとても難しくなっているのだ。

 そして、「表現の不自由展・その後」に参加したアーティストが、作品搬入日にほかの出品者を知ったということや、企画中止の連絡がなかったということも、作家や作品への尊厳を毀損しているように思えてならない。私はそのような作家の扱いを、あいちトリエンナーレ2019の同じ参加作家としてたいへん遺憾に思う。

 そもそも、存命の作家や作品を、過去に起きたスキャンダル性の強い出来事のみを参照項として歴史資料扱いすること自体、敬意を欠いているのではないか。百歩譲ってそのような扱い方をするのならば、すべてアーカイブ展示でよかっただろう。あるいは実物展示を行うならば、会期中に何度か展示替えを行い、現在の展示空間には限られた点数の作品と、充実した資料をともに展示し、その作品と背景に集中できるような展示構成とするべきだ。そしてしっかりとした議論の場をかたちづくり、実作、資料、議論の三本の柱が可視化された状態での企画構成を考えるべきではなかったか。

 以上は今回の騒動に関しての所感と提案だ。以下からは「表現の不自由展・その後」の個別の作品を見ていく。ただし断っておかなければならない。正直に言って、今回、本企画が中止になっていなければ、筆者が本企画について何かを書くことはなかっただろう。前述したように、本企画は個別の作品を丁寧に読み解くということ自体が困難になっている。ただ、作品をつぶさに見ずとも本企画全体の政治的主張はすぐに理解できる。つまるところ、本企画において、美術批評は必要とされていないといってよい。とはいえ、現状では本企画はいつ再開できるかわからない状況にある。書ける者が記録を書かなくてはならない。

編集部

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