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2019.8.31

私たちは何を学べるのか? 小田原のどか評「表現の不自由展・その後」

「あいちトリエンナーレ2019」の一企画であり、8月3日に展示が中止された「表現の不自由展・その後」。この展示中止をめぐっては、「検閲」「表現の自由」「キュレーション」など様々な角度から議論が巻き起こっている。この企画を、「あいちトリエンナーレ2019」参加作家でもある小田原のどかが「表現の不自由展・その後」の全17の出品作にも目を向けながら分析する。

文=小田原のどか

扉が閉ざされた「表現の不自由展・その後」と「CIR」の展示室
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「失敗」の研究

 先月末、筆者は「広島市平和記念資料館」について書いた。展覧会レビューという形式を借り、日本の戦時の「加害」について展示することをめぐって広島と長崎の二つの原爆資料館を架橋し、1996年の長崎で起こった「加害展示論争」に光を当てる内容だ。

 このような論考を書いたのは、まだ日本には存在しない国立の戦争博物館というナショナルな記憶の場がつくられる未来を想定し、その道程で必ずや大きな分断を可視化することになる「加害展示」について、議論の準備を始めたいという意図による。過去に学び、かつて長崎で起きた「失敗」と、それにより実現した「共同」の内実を多く人と共有したいと考えたのだ。そして同時に、96年の長崎では存在していなかった、インターネットやソーシャルネットワーキングサービスによってかたちづくられる「民意」や「公共」が、加害展示をめぐる論争にどのように影響するのかを考えるための下地をつくっていきたいという思いもあった。

 96年の長崎原爆資料館の展示リニューアルは、一度は躓き失敗した。けれども、対立する市民の協働がなされたという点で、決して失敗だけに終わるものではない。むしろ、失敗や拒絶からこそ学ぶことがあるということは、筆者が昨年書いた「サン・チャイルド論争」をめぐる稿とも共通する。冷静な議論を始めるためには、失敗の研究を行う必要がある。しかしながら、そのような準備のための時間は限られていた。分断はすでに目の前に広がっている。

 8月1日、筆者も参加作家のひとりである「あいちトリエンナーレ2019」が開幕した。100を超える企画のなかで、開幕前日からもっともメディアに取り上げられたのが「表現の不自由展・その後」だ。いわゆる「炎上」状態になった本企画の顛末は、多くの方がご存じのことだろう。72日の会期を残し、8月3日で本企画は中止になった。

 さて、本来ならこの展覧会レビューでは、別の展覧会を取り上げる予定だった。しかし3日間という短い期間のなかで「表現の不自由展・その後」を見た者のひとりとして、そしてまた、あいちトリエンナーレ参加作家のひとりとして、提言の意味も込め、今回は「表現の不自由展・その後」について書くことにしたい。最初に、「表現の不自由展・その後」の中止について、所感を述べておく。

「表現の不自由展・その後」の展示風景より、左が《平和の少女像》(2011)

 多くの出品作家と同じく、「表現の不自由展・その後」の出品作品と出品作家を知ったのは7月31日、内覧会当日であった。「表現の不自由展・その後」という企画が開催されることはプレスリリースを通して知っていたが、まさか《平和の少女像》の実物が展示されるとは思っていなかった。というのも、「表現の不自由展・その後」の前身の、2015年に開催された「表現の不自由展 消されたものたち」(ギャラリー古藤、東京)での《平和の少女像》の展示をめぐる妨害工作を耳にしていたし、2016年から行っている韓国の《平和の少女像》の取材を通じて、この彫刻に悪感情をいだく人々や、問題を惹起するということでこの像を忌避する人々がいることを知っていたからだ。もしこの彫刻をあいちトリエンナーレに置くことになれば、ただではすまないだろうと思っていた。

 したがって、31日に《平和の少女像》の実物展示を知ったとき、どれだけ強固な防犯体制を敷いたのだろうか、相当な「覚悟」と「準備」のうえの開催だと、筆者は強く感心したのだ。しかし3日後、そうではなかったことが明らかになる。とはいえ、今回の中止を「覚悟不足」「準備不足」と断じるつもりはない。様々な思いはあるが、筆者は「表現の不自由展」の中止を決断した津田大介芸術監督と大村愛知県知事を支持する。「表現の自由」と「人命」が天秤にかけられる状況は、検閲が厳しい国や地域ではともすれば、ままあることかもしれない。しかし今回脅迫に対応したのは日本最大規模の芸術祭という大きな組織の職員である。そして、もしも美術館でテロが起こった際に、犠牲になるのも職員やボランティアスタッフであり、そして来場者だ。表現の自由を侵害する暴力と徹底的に対抗するというのならば、それは表現の遂行主体が行い、引き受けるべきであるだろう。

 「表現の不自由展・その後」の中止は、安全確保が理由とされている。中止に至った問題の諸相を単純に腑分けすれば、政府高官からの介入、市民による抗議、そして脅迫があると考えられる。ごく一般的に言って、市民には抗議をする権利がある。例えば、昨年福島市の公共空間に設置され撤去されたヤノベケンジによる大型彫刻《サン・チャイルド》についても、Twitterを中心に抗議の声があがった。どう考えてもおかしいと思うことがあれば、自由に抗議をすればよい。しかし抗議が危害予告や応対する職員の人権を侵害するような行為、つまり「脅迫」になった場合、これは犯罪である。脅迫については警察による容疑者の捜査が粛々となされるべきで、具体性を伴った脅迫から優先的に発信者を特定し、検挙されることが望まれる。

 そして政府高官による介入だが、これはいくつかの団体から声明文が出ているように、表現の自由を保障する憲法21条と、2017年に公布された文化芸術基本法の理念に反する行為である。脅迫や、政治家による公金を理由にした介入などの暴力を決して許してはならない。しかし、河村たかし名古屋市長の来歴を見れば、《平和の少女像》を批判する発言が出てくることはごく「当然」なのである(*1)。加えて、日韓関係がかつてなく悪化しているなか、外交案件としての慰安婦や徴用工問題と引きつけて、政府高官から「あいちトリエンナーレ2019」への圧力ともとれる発言が出てくることもまた、想像に難くない。また、これらの政治家の発言を報道機関がどのように報じたのかも冷静に分析される必要がある。

 私営のギャラリーではなく、実行委員長に県知事が名を連ね、公金が用いられる行事において、そのような「圧力」や「介入」が行われること、そしてそれらに煽られて炎上がさらに延焼することも、本企画を決定した中枢の人々は想定していたはずだ。これは、公金を使っているのだから、内容が中立的であるべきだということではない。そうではなくて、公金を理由にした抗議がなされることに対して、どのような準備をするのかが重要なのだ。津田芸術監督は本企画の開催のため、事前に多方面からの助言を受けていたという。事前案のなかに、中止へと至ってしまった際の対応策は用意されてはいなかったのだろうか。

 本企画の中止を受けて、海外作家らを中心に、自身の展示を同じく中止することや改変することを通じ、脅迫への抗議と、展示中止を一方的に決められた作家たちへの連帯の身振りを示した。いっぽう、筆者は8月5日から展示の一部を変更している。また、加藤翼、毒山凡太朗は名古屋市内にアーティストランスペースを立ち上げた。私は他の作家らの決断を尊重するが、自分自身の展示を閉鎖することはしない。なによりも来場者の見る権利を尊重し、そしてまた、私自身が作家として持つ作品を見せる権利を重視したいと考えているからだ。

 幸いなことに、国内外の参加作家の内部や、運営側とのあいだで対立が起こっているわけではない。8月10日には筆者が声がけ人となり、非公開の参加作家有志の話し合いが開催された。海外作家ではタニア・ブルゲラが参加し、各々の考えを真摯に議論することができた。海外作家と国内作家のやりとりはオンライン上で日々続いている。8月25日時点で津田芸術監督からは2通の仔細な状況説明のレターが、また大村県知事からも作家一人ひとりに宛てた真摯なレターが届いている。「表現の不自由展・その後」については、再開の障害となる現実的な問題を解決し、どのように再開するのか、あるいは再開しないのか、それらの議論こそ後世に残すべきものがあるだろう。

 そして、今回のトリエンナーレが、「表現の不自由展・その後」の中止と再開に関する論調一色になってしまったことにも疑問を呈したい。今回のトリエンナーレに、歴史認識や、大日本帝国による植民地化に関する作品が複数あったことは事実である。しかし当然のことながら、異なるテーマを扱った作品も多く、また、作品を問題提起や異議申し立ての手段として位置づけている作家ばかりでもない。「声明文」や「意見書」のような直截的なものからこぼれたものを扱うことこそが芸術作品の存在意義だ。だからこそ、様々な「声明文」や「態度表明」によって個別の作品が見えなくなっている現状には、強い違和を覚えるのである。

問題の根幹

 さて、肝心の「表現の不自由展・その後」だ。海外作家らの展示再開にとって、本企画の再開は欠かせない条件となっている。しかし筆者は、開幕当初と同じ状態の「表現の不自由展・その後」の再開を求めることには首肯しかねる。なぜなら、本企画をひとつの展覧会として見たときに、大きな構造的問題点があると考えるからだ。どういうことか。

 「表現の不自由展・その後」はアーティストの主体的な取り組みではない。実行委員会はアライ=ヒロユキ、岩崎貞明、岡本有佳、小倉利丸、永田浩三らの5名の美術批評家とジャーナリストで構成されている。本企画は2015年に東京の私設ギャラリーで開催された「表現の不自由展 消されたものたち」を前身とする。

 今回の「表現の不自由展・その後」は、「表現の不自由展」を引き継ぎつつ、新たに10作品が加わっている。出品された17作(作家名非公開とされた作品が1組、作家が存在しない作品が1作ある)のうち、半数以上が追加されたかたちだ。本企画は、「日本における『言論と表現の自由』が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会」で「扱った作品の『その後』に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する」ことがコンセプトとなっている(*2)。

 しかし、あいちトリエンナーレ2019のウェブサイトには、実行委員会5名の氏名や「表現の不自由展・その後」で展示されている17作品について、またそれらの作者についても、どこにも情報が記されていないのだ。「表現の不自由展・その後」の出品作についての解説文などの情報が記載されている独立したウェブサイトはあるが、あいちトリエンナーレのウェブサイトからはリンクされていない。そして「表現の不自由展・その後」をめぐる様々なニュース記事が日々公開されているために、「あいちトリエンナーレ2019 表現の不自由展・その後」と検索すると、現時点ではグーグル検索の上位100件以内に表示されないという驚くべき事態になっている(8月25日現在)。

 そもそも同ウェブサイトは、「表現の不自由展・その後」出品作家の強い要望でつくられたそうだ(*3)。そのような要望がなければこの独立したウェブサイト自体なく、インターネット上では出品作家と作品の情報を得ることはできなくなっていただろう。これが炎上対策であることは理解できる。しかし、そのような秘密主義のなかで企画が遂行されることを参加作家全員が承知していたのだろうか。

「表現の不自由展・その後」特設サイトトップページより

 津田芸術監督の「あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』に関するお詫びと報告」にある「トリエンナーレが直接契約を結んだ参加作家はこの『表現の不自由展実行委員会』です。そのため、トリエンナーレと『表現の不自由展・その後』に作品を出品したアーティストとは、直接契約していません」という証言からも明らかであるが(*4)、「表現の不自由展・その後」の出品作家は、ひとりのアーティストとして「あいちトリエンナーレ2019」に参加したわけではなく、「表現の不自由展・その後」にパッケージされるかたちで選出されている。

 このような構造は、本企画に参加するアーティストが「過去に展示不許可となったアーティスト」に、そして出品作が「過去に展示不許可となった作品」という括弧にくくられることを意味している。つまり、本企画は「過去に展示不許可となったアーティスト」による「展示不許可となった作品」の「再展示」として、アーティストと作品とを資料化することに等しく、そのような強固な枠組みのなかに17の個別の作品が歴史的資料という扱いでパッケージングされている状況がある。

 展覧会におけるキュレーションは個別の作品を選出し配置するだけでなく、そこにナラティブを与える。それは作品や作家を強固な主張や文脈に位置づけることを意味しもするが、だからこそ、敬意と責任をもって行われる。それこそがキュレーターの職能であり矜持であることといっていいだろう。

 驚くべきことに、本企画にはキュレーターとキュレーションが存在していない。しかしそうであるならなおさら、「過去に展示不許可となった作品」が一つひとつどのような状況で展示不可となったのか、その経緯を丁寧にひもとき、議論を開いていくことこそがジャーナリストらが手がけた本企画の開催意義であったはずだ。しかし展示室には年表や報道や評論などをまとめたファイルはあったものの、それらの見せ方が成功しているとは言いがたい状況があった。端的に言って、展示空間に対して出品作が多すぎる。その結果、一つひとつの作品を集中して見ることがとても難しくなっているのだ。

 そして、「表現の不自由展・その後」に参加したアーティストが、作品搬入日にほかの出品者を知ったということや、企画中止の連絡がなかったということも、作家や作品への尊厳を毀損しているように思えてならない。私はそのような作家の扱いを、あいちトリエンナーレ2019の同じ参加作家としてたいへん遺憾に思う。

 そもそも、存命の作家や作品を、過去に起きたスキャンダル性の強い出来事のみを参照項として歴史資料扱いすること自体、敬意を欠いているのではないか。百歩譲ってそのような扱い方をするのならば、すべてアーカイブ展示でよかっただろう。あるいは実物展示を行うならば、会期中に何度か展示替えを行い、現在の展示空間には限られた点数の作品と、充実した資料をともに展示し、その作品と背景に集中できるような展示構成とするべきだ。そしてしっかりとした議論の場をかたちづくり、実作、資料、議論の三本の柱が可視化された状態での企画構成を考えるべきではなかったか。

 以上は今回の騒動に関しての所感と提案だ。以下からは「表現の不自由展・その後」の個別の作品を見ていく。ただし断っておかなければならない。正直に言って、今回、本企画が中止になっていなければ、筆者が本企画について何かを書くことはなかっただろう。前述したように、本企画は個別の作品を丁寧に読み解くということ自体が困難になっている。ただ、作品をつぶさに見ずとも本企画全体の政治的主張はすぐに理解できる。つまるところ、本企画において、美術批評は必要とされていないといってよい。とはいえ、現状では本企画はいつ再開できるかわからない状況にある。書ける者が記録を書かなくてはならない。

「表現の不自由展・その後」出品17作

 さて、本企画において、上述した「歴史資料としての再展示」という拘束に果敢に挑戦しているのが大浦信行である。驚くべきことに大浦は新作を出品している。大浦の新作《遠近を抱えてPartII》は、端的に言って本企画の趣旨を大きくゆがめている。しかしだからこそ、筆者はとても興味深く拝見した。

 本来なら本企画で焦点化されるべきは、大浦が1982年から85年にかけて制作した14点組の版画作品《遠近を抱えて》だ。ところが《遠近を抱えて》は会期の前半と後半で2作品ずつ展示されるかたちをとり、本企画への参加を契機に制作された映像作品《遠近を抱えてPartII》が併置して展示してある。

「表現の不自由展・その後」展示風景より、《遠近を抱えて》(1982-85)

 《遠近を抱えて》(1982−85)は1986年に富山県立近代美術館で開催された「'86 富山の美術」展に出品された14点組の版画作品である。本作は展覧会終了後、県議会で作品内の天皇の写真の扱いに批判が起こり、右翼団体の抗議が相次いだ。これを受けて、美術館は図録とともに作品を非公開とした。93年に、富山県立近代美術館は作品を売却し、「'86 富山の美術」展の図録は焼却処分される。信じがたい行為である。ここでの作品と図録の扱いと、大浦が起こし結果的に敗訴となった裁判は多くの文献で取り上げられ、本事件から雑誌『あいだ』が誕生したことなど、日本の美術史にとって看過することはできない出来事だ。

 さて、本企画をきっかけに制作された《遠近を抱えてPartII》には《遠近を抱えて》を燃やすシーンが存在する。これが今回、部分的に切り離され、インターネットを中心に拡散した。大浦のこれまでの映像作品や「富山県立近代美術館事件」を知る者であれば、該当シーンもふくめ、本作は多様な読み解きができる。しかし丁寧な背景の解説がなければ、「天皇のイメージを燃やし、靴で踏みつけて消す」という表象が、少なくない人々にショックを与えることは否定できない。そういったことに鑑みても、《遠近を抱えてPartII》の展示方法は、本企画内でもっとも「配慮」を欠いていたといえるだろう。

 藤江民《Tami Fujie 1986 work》も富山県立近代美術館での図録焼却問題に関わる作品だ。藤江は大浦と同様に「'86 富山の美術」展の招待作家のひとりである。焼却処分された図録には藤江の作品も掲載されていた。本作において藤江は、「'86 富山の美術」展図録内の自作についてのページを焼くイメージをシルクスクリーン作品に仕立てた。また画面上には、大浦の作品処分問題に関連する声明が記されている。

 今回展示されているのは86あるエディションうちの4にあたるが、エディションの「86」という数字も展覧会名の「'86 富山の美術」に重ねているのだろう。注意したいのは、藤江は抽象表現に取り組む作家であり、本作は作家の画歴のなかでも特異な存在だということだ。《Tami Fujie 1986 work》は「富山県立近代美術館事件」に関わる作品の一群といった提示の仕方のみでは、作品のもっとも重要な点を取りこぼしてしまうだろう。

 嶋田美子《焼かれるべき絵》《焼かれるべき絵:焼いたもの》(ともに1993)もまた富山県立近代美術館での大浦作品の処分問題に関連して制作された。キャプションにもあるように、本作は「版画を1/3くらい焼いたもの、版画を焼いて灰にするまでの経過を撮ったスナップ、実際の灰、富山県立近代美術館宛の嶋田さんからの手紙、富山県立近代美術館からの返信」によって構成される。

 嶋田は、大浦の作品内で物議を醸した昭和天皇の戦中の姿とおぼしき肖像を用いた自身の版画作品を燃やし、「また右翼の抗議にお会いになって館長さんが窮地に立たされるといけませんので、作品全部を焼却してその灰をお贈りします」という手紙とともに、その灰を富山県立近代美術館への寄贈というかたちで同館に送った。同館は「当館では必要としませんので返送します」という文言とともに嶋田の作品を返却している。

 嶋田は灰とともに送った手紙に「美術館そのものが芸術の墓場だという意見もありますから、作品の遺灰を収蔵するのは理にかなっているのではないでしょうか」ともしたためている。自身の作品を燃やして送りつけるという行為には、右翼団体の圧力に屈した美術館の長への批判とともに、美術館という制度にも挑戦する意志が込められている。

 注目したいのが、本作のステイトメントにおいて、嶋田の「版画家として」という自覚が見て取れる点である。嶋田は女性と戦争をテーマにしたインスタレーションで知られるが、そもそもは版画を出自とする。本作からは嶋田という作家のこれまであまり語られてこなかったメディウムとの関係性を強く意識させられた。今回の炎上騒動では、嶋田の作品も非難の対象となったが、ここで記したような経緯を踏まえれば、深い広がりを持った作品であることはわかるはずだ。

 これらの3作品は「富山県立近代美術館事件」に直接的に関わる作品である。「富山県立近代美術館事件」は「慰安婦問題」とともに本企画の核をなすが、後者に関わる作品のなかで今回メディアがもっとも大きく取り上げたのが《平和の少女像》だった。

 キム・ウンソンとキム・ソギョン夫妻の共同制作によってつくられた《平和の少女像》は、韓国における「水曜行動」の1000回を記念し、2011年に「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(当時の名称は韓国挺身隊問題対策協議会。以下本稿では、挺対協と表記する)が行政の許可なくソウル市内の公道に建立したものが第一号である。《平和の少女像》はその後、韓国国内だけにとどまらず、世界中に普及していくことになる。2人の彫刻家が本作の造形に細やかに重ねた意図は、会場内に掲示された解説図からよくわかる。とはいえ、彫刻家の制作意図と、市民団体が主導する運動の一環として《平和の少女像》が建立され続けていることはまったく別の問題である。とくに公共空間の彫刻は、彫刻家の意志と、施主がそれをどのような目的で活用するかは分けて考えられるべきだ。

「表現の不自由展・その後」展示風景より、キム・ウンソンとキム・ソギョン《平和の少女像》

 《平和の少女像》は隣に空白の椅子があるが、ここに中国から寄贈されたもうひとりの少女像が据えられているなど、いくつかのバリエーションがある。彫刻の拡張可能性が本作には顕著に現れている。筆者は2016年にソウルと釜山にあるブロンズ製の《平和の少女像》を合計5体実見した。とくに第一号に顕著だが、この彫刻は公道を広場に変容させるのみならず、様々なお供え物が置かれ「地蔵」と化していた。韓国は仏教弾圧がはげしく、日本におけるお地蔵様(地蔵菩薩)はほとんど現存しない。そのような韓国の公共空間の彫刻史を見ていく際に、本作の重要性が明らかになる。そして、今回展示された着彩が施された少女像は、ブロンズ像がまとう物質としての強固さや永続性は影を潜め、ひとりの少女の実在感がより身近に感じられた。

 安世鴻(アン・セホン)《重重―中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち》(2012)は展示構成の意図からしても、《平和の少女像》と補完関係にある。《平和の少女像》はその影として高齢女性のシルエットが描かれているものの「慰安婦」を「少女」として、ある意味では一元化する側面がある。《重重―中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち》はそのような《平和の少女像》への批判に対する応答としても見ることができる。

 安の作品は、「表現の不自由展」の成り立ちと密接に関係している。2015年に開催された「表現の不自由展」は、実行委員会の岩崎貞明によれば、当時の実行委員会は50人ほどであり、その中心は「“教えてニコンさん!”ニコン『慰安婦』写真展中止事件裁判支援の会」だった。この会は、中国に残された日本軍慰安婦の被害女性たちを被写体とした安の写真作品展が2012年にニコンサロンによって直前に中止を通告された事件をきっかけに発足した。安は一方的な中止勧告を受けて、東京地裁に仮処分を申請し、東京地裁は安の訴えを認めニコンサロンに写真展の開催を命令する。「“教えてニコンさん!”ニコン『慰安婦』写真展中止事件裁判支援の会」はこの裁判を支援する人々が中心となっている(*5)。

 なぜニコンサロンは安の写真展を拒否したのか。それは同社が、慰安婦はいなかったとする歴史観を持っているからではない。安の写真によって問題が惹起することを避けたのだ。このような物言いは、とくにパブリック・セクターが主催する展覧会において顕著に見られる。

 趙延修(チョウ・ヨンス)《償わなければならないこと》(2016)は、韓国の「慰安婦」を主題とした平面作品だ。性的に搾取された女性たちと無数の画一化された男性が、迷いのない構成で描かれている。当時高校生であった趙が制作したこの油彩画は、千葉県立美術館で開催された交流展で展示されたが、作品の内容が政権批判でありふさわしくないとして、千葉県はこれ以後この交流展への補助金交付を取りやめている(*6)。本企画に対して政府高官が行ったのと同種の圧力が実際に実行された事例である。

 先に、外交案件としての慰安婦問題と書いたが、ここでいまいちど確認しておきたい。韓国市民団体が主導する《平和の少女像》設置事業と、日韓の政府がやりとりを進める慰安婦問題の解決とは、基本的に位相が異なる。いまでこそ、慰安婦問題は日本政府と韓国政府が対する構図をとっているが、もともとは挺対協という韓国市民団体が日本政府を相手取り、日本国内で裁判を起こすことで賠償と謝罪を求めていた。しかし1965年に結ばれた日韓請求権協定があるために日本で勝訴することができず、方針を変更した。そして2011年8月に韓国の憲法裁判所で韓国政府に勝訴したことが決定的なターニングポイントとなる。2011年の《平和の少女像》第一号の建立はデモの1000回を記念するものであると同時に、韓国市民団体が韓国政府に対して違憲判決を勝ち取ったという分岐点に立つものであるのだ。自国の政府に解釈を変えさせたことで、本件を政府間の問題へと押し上げたのである。

 《平和の少女像》に反感を抱く人々のなかには、像の建立と、政府間の慰安婦問題には直接的関係がないということを知らない人も多いのではないかと想像する。この構図を周知させることが、像への悪感情を和らげることにもつながるだろう。そしてまた、より普遍的に考えれば、女性の人権が踏みにじられた過去を真摯に省みて、二度と繰り返さないという点では対立を超えることができるはずだ。たとえ歴史認識のすりあわせが難しくとも、対立する側を「愚か者」「テロリスト予備軍」と断じ、想像力を絶やしてしまっていいのだろうか。「長崎原爆資料館の加害展示論争」で起こったような、対立を超えて共同できる可能性を諦めてはならないと私は思う。

 会場構成から読み解くことはとても難しいものの、本企画には大別して3つの軸がある。「富山県立近代美術館事件」「慰安婦問題」「第2次安倍政権下での検閲」である。とくに慰安婦問題については、現状の展示場を見る限り、表現の問題ではなく政治の問題としてのみ焦点化されている印象が非常に強い。芸術祭や美術館で開催するのであれば、それはやはり表現の問題を正面から扱うべきだろう。つまり、かの問題を「女性の人権にかかわる表現の問題」に接続し、より開かれたかたちでキュレーションすべきであったと筆者は考えるのだ。そしてそこには、今回候補となりながらも展示されていないろくでなし子の作品が展示されることは必至であると思われる。

 さて、横尾忠則《ラッピング電車の第五号案「ターザン」など》(2011)《暗黒舞踏派ガルメラ商会》(1965)は、前者は本企画においては2つあるアーカイブ資料展示のひとつだ。これは横尾がJR西日本のために考案したラッピング電車の図案で、男性が叫ぶ顔が一面に配置されている。2005年に起こった尼崎JR脱線事故の被害者を想起させるという理由で拒否された。後者は土方巽による舞踏公演のためのポスターで、中西夏之との協働によって制作された。ニューヨーク近代美術館で開催された「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」展(2012-13)に出品された際に、旭日旗を思わせると在米韓国系市民団体から抗議を受けるも、同館は展示を中止とすることはなかった。本企画において唯一の韓国系市民からの抗議の事例である。

 横尾による作品は、ある側面からは同質性が高いとも言える本展の、オルタナティブを示すという点でとくに重要だ。しかし展示構成においても解説文においても、そういった重要性への説明は足りているとは言えない。本企画をめぐる議論の場において、ぜひ大きく取り上げられるべき作品である。

 白川昌生《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》(2015)は、2017年に群馬県立近代美術館で開催された「群馬の美術2017──地域社会における現代美術の居場所」展に出品されたものだが、展覧会初日のオープン前に撤去を求められ、白川はそれに応じている。群馬県立近代美術館もある県立公園「群馬の森」に実在する記念碑をかたどり、布で再現した。ここでモチーフとなった群馬県朝鮮人強制連行追悼碑は、群馬県が撤去を決定したことで、それに反対する市民団体との間で係争が続いていた。美術館側が本作の撤去を求めたのも係争中の問題を扱っていることが理由だった。

「表現の不自由展・その後」展示風景より、白川昌夫《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》(2015)

 布でかたどられた本作は、クリストとジャンヌ=クロード夫妻や赤瀬川原平の梱包シリーズも思わせるが、重要なのは内部が空洞であることだ。永遠に序幕されることのない記念碑のようであり、時代によって意味内容がたやすく変化してしまう記念碑をその空洞性とともに可視化する作品である。そして本作については、タイトルと同じ文言が書かれたのぼり作品《わたしはわすれない》が撤去後に置かれたことがとくに重要である。展示不可となったというだけではなく、それに対し作家がどのような行動を取ったのかも、本企画では詳細に言及する必要があったのではないか。

 大橋藍《アルバイト先の香港式中華料理屋の社長から「オレ、中国のもの食わないから。」と言われて頂いた、厨房で働く香港出身のKさんからのお土産のお菓子》(2018)は、2018年の合同卒業制作展の五美大展において菓子が腐敗のおそれがあると出品を拒否された作品である。本作はキャプションがなければただの菓子であり、既製品をそのまま用いたという点では、本企画内ではもっともシンプルな構造の作品である。しかしだからこそ、オブジェクトと意味内容の重なりを考えるうえで興味深い。また、大橋は本作の展示拒否が、作品が可視化した差別問題と、作家自身に向けられた教育差別でもあるのではないかと問題提起している(*7)。これについては客観的かつ冷静な議論が必要であろうと筆者は考える。そういった意味でも、議論の場が持たれることは必須の作品だ。

 中垣克久《時代(とき)の肖像—絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳—》(2014)は報道記事の拡大コピーや手書き文字、寄せ書きがされた日本国旗、として星条旗が円墳を模した形状のオブジェの外部と底面に配置されている。2014年に東京都美術館で開催された「現代日本彫刻作家連盟」による定期展「現代日本彫刻作家展」において出品されたが、「東京都美術館運営要綱」に反するとして一部のメッセージが撤去された。本作は美術館の運営制度にあえて挑戦する作品でもある。そうであれば、やはり要綱を参考資料として展示するべきではなかったか。これを起点に、美術館という制度の限界について、あるいは運営指針の再検討までも議論の射程を広げることができたであろう。

「表現の不自由展・その後」展示風景より、中垣克久《時代(とき)の肖像—絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳—》(2014)

 小泉明郎《空気#1》(2016)は2016年に東京都現代美術館で開催された「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」に出品予定であったが、「多くの人が持つ宗教的な畏敬の念を侮辱する可能性がある」として学芸員との交渉の末、美術館近隣のギャラリーで展示されることとなった。本企画に出品された作品の多くがそうであるように、一般的には何かを「描いたこと」によって批判され、検閲対象となるわけだが、本作は「描かなかったこと」を問題視されたという点で類例がないと思われる。往事の日本人は「御真影」に礼拝し崇拝の対象としていたわけだが、《空気#1》の参照項となった写真は現代の多くの日本人にとってなじみ深いものだ。興味深いのは、それが「家族写真」でもあることだ。ここでの不在によって問題視された「宗教的な畏敬の念」こそ、現代日本にいまだ残り続けている「空気」そのものではないか。

「表現の不自由展・その後」展示風景より、小泉明郎《空気#1》(2016)

 Chim↑Pom《気合い100連発》(2011)は東日本大震災を受けて制作された映像作品だが、国際交流基金が主催した海外での展覧会に出品される際に、いくつかのワードを伏せた状態での展示が求められた。それが《耐え難き気合い100連発》(2015)である。本企画でははじめて二作併せての展示となった。本企画では展示作品はすべてSNSでの撮影画像投稿を禁止されていたが、Chim↑Pomは手書きで投稿OKであると上書きしており、また本企画ウェブサイトでも実行委員会が作品解説を書いておらず、自分たちでステイトメントを寄せているという点でも、本企画へのゆるやかな抵抗の意志が感じられる。

 永幡幸司《福島サウンドスケープ》(2011−19)は福島県内の環境音データを採取し、採取地の写真とあわせて映像化された作品で、千葉県立中央博物館で開催された「音の風景」展に出品された。しかし特定の者に対する批判と受け取られる可能性のある表現が含まれ、公立博物館としてふさわしくないと指導が入り、作者の了承なく解説文が部分的に書き替えられた。これが、作者が所属する福島大学の学長と執行部の除染対応への批判部分にあたる。永幡は福島大学共生システム理工学類教授であり、東日本大震災後の2011年5月から現在まで本プロジェクトを継続している。

 岡本光博《落米のおそれあり》(2017)は沖縄県で開催された「島の記憶」をテーマとする地域美術展に出品された。交通標識を模して「沖縄の日常」が商店街のシャッターに描かれた。しかし、自治会長が本作に反対したことで、開催地のうるま市の判断によって本作はベニヤ板で覆われることになる。その後、抗議によって作品の支持体となったシャッターが切り取られ、場所を移して会期の最終日のみ展示が再開した。

 本来であればその場所の固有性と関係が深いグラフィティであったものが、皮肉なことにこのような拒絶を経て、もとの場所・文脈から切り離され自律した。岡本は本作について「『沖縄から米軍基地をなくせ』といった政治的なアピールをしているわけではありません」と説明し、作品が封鎖されたことについては「よそ者である私が、島の問題を描いたことへの心情的な反発もあるのだと思います」と述べている(*8)。「展示不許可となった作品」の複層性を示す好個の事例といえるだろう。

「表現の不自由展・その後」展示風景より、岡本光博《落米のおそれあり》(2017)

 《マネキンフラッシュモブ》(2016)は、パフォーマンスを行った団体の共同代表は氏名を明らかにしているものの、本企画での展示に際しては「作者」というかたちでの行為主体は存在しない取り組みとされている。モブと銘打ってはいるが、サイレントデモの一手法にも見える。それがまさに問題視され、2016年に神奈川県海老名市で開催されたマネキンフラッシュモブに対して、海老名市は条例で定められた禁止事項のデモにあたると禁止命令を出した。パフォーマンスをした団体はこれに対して訴訟を起こして勝訴し、結果、禁止命令は撤回されている。本作もアーカイブ資料展示である。静止画のスライドショーを小さな画面で見るだけでは、この取り組みの質について評することは困難である。

 《9条俳句》(2014)は作者非公開とされている。「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という市民による俳句は、さいたま市の公民館で俳句サークルの1位に選ばれるも、政治的であり議論が分かれるという理由から月報への掲載を拒否された。作者は提訴し、勝訴している。本作は造形作品ではないため、筆者には批評することが難しい。

 このように、17の出品作のなかにも幅があり、現政権、現体制への異議申し立てが明確にあるものもあれば、そうではないものもある。展示が不可になったあとの作家の行動も多岐にわたる。そして、企画の枠組みが大きくぶれてしまうような作品も含まれている。本展の鍵概念である「検閲」に焦点を当てれば、多様性が乏しいことは否めない。しかし、これを前向きに読み解くならば、ここから、そもそも日本における検閲とは何かを逆説的に問うことは不可能ではない。

 本企画のウェブサイトには、何も告知が書き込まれていない空白のイベントページがあり、報道からも開幕後に討論などのイベントが予定されていたことが伝えられている。その内容と質によっては、窮屈な展示会場の印象が一転したかもしれないだけに残念だ。あるいは、展示の中止とは別に、議論の場の開催を継続することはできないのだろうか。

 本企画におけるキュレーションの不在の内実は、第三者委員会による調査を待ちたい。芸術監督とキュレーター陣との協力体制に齟齬はなかったのか、トップダウンでの秘密主義による決定が横行していなかったかなど、仔細に調査が行われ、検討材料となることが望まれる。しかし、もし本騒動がトップダウンによる秘密主義によって引き起こされたのならば、それはまさに筆者が繰り返し注意を喚起してきた、パブリック・アートをめぐる愚の歴史に連なるものとなるだろう。

 ここまでやや厳しい論調で述べてきた。しかし、確実に言えることがある。国内で林立する芸術祭のなかで、あいちトリエンナーレの最大の特徴は、芸術監督が代替わりし、毎回はっきりとしたテーマを打ち出してきたことにあるということだ。今回、津田大介芸術監督は「情の時代」という優れたコンセプトを掲げ、「ジェンダーフリー」という一石を投じた。これは津田でなければ決してできなかったことだ。津田が芸術監督になったことにはかけがえのない意義がある。

 今回、「表現の不自由展・その後」が中止に至ったのは、脅迫という卑劣な行為によるものである。しかしそれでもなお、本企画の決定プロセスや展示構成に不備はなかったのかと問う視座を持つことが重要だと筆者は考えるのだ。今回の出来事から私たちは何を教訓として取り出すことができるだろうか。

 会期はまだ残されている。多くの人が、本企画の欠点について、またはその意義を、闊達に議論できる場が継続してつくられることを強く望む。そのための尽力を私は惜しまない。

 

*1──「従軍慰安婦問題」が国際的関心を高めたのは、2007年、自民、民主両党の靖国派国会議員らが中心となり、米紙ワシントン・ポストへの意見広告「THE FACTS」を出したことによる。このとき、櫻井よしこ、稲田朋美らとともに、当時民主党議員だった河村名古屋市長も名を連ねていた。
*2──https://censorship.social
*3──http://www.webdice.jp/dice/detail/5849/
*4──https://medium.com/@tsuda/あいちトリエンナーレ2019-表現の不自由展-その後-に関するお詫びと報告-3230d38ff0bc
*5──岩崎貞明「慰安婦・放送禁止歌・時代の肖像・ワイセツ表現…『表現の不自由展』を開催して」『出版ニュース』2015年2月号
*6──本稿における展示禁止の理由については愛知県が制作したこちらの書類を参照した。
*7──2019年8月12日に開催された参加作家有志によるオーブンディスカッションでの大橋の発言より。
*8──「落米のおそれあり」は、なぜ封印されたのか?(ハフィントンポスト