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2018.10.19

拒絶から公共彫刻への問いをひらく:ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって

2018年8月3日に福島市の教育文化複合施設「こむこむ館」前に設置され、そこからわずか1ヶ月あまりで撤去されたヤノベケンジの立体作品《サン・チャイルド》。これを起点に、公共空間における作品設置のあり方を、彫刻家であり彫刻研究者の小田原のどかが考察する。

文=小田原のどか

解体される《サン・チャイルド》 撮影=筆者
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恒久設置から完全撤去へ

 あまりにも早い撤去だった。9月18日と19日、福島市の文化施設「こむこむ」前で《サン・チャイルド》の解体を見守りながら、そう思わざるをえなかった。こんなに早い幕引きから、私たちは何かを教訓とすることができるのだろうか。人々が忘れてしまう前に記しておきたいことがある。

 《サン・チャイルド》は2011年3月11日の東日本大震災をきっかけに制作された、高さ6.2メートルのヤノベケンジによる大型彫刻だ。同じ造形、サイズのものが3体あり、そのうち1体は12年から作家の出身地である大阪府の南茨木駅前広場に永久設置されている。同作の福島での発表はこれがはじめてではない。10分の1サイズの原型は福島県立美術館に収蔵されている。しかし今回、恒久設置から1ヶ月あまりで解体、撤去されるに至った。いったい何が問題だったのか。

 この問いに迫る前に、像の設置と撤去までの経緯を、これまでの報道をもとにかいつまんで書いておこう。「福島現代美術ビエンナーレ2012」における《サン・チャイルド》の展示などをきっかけに、一般財団法人ふくしま自然エネルギー基金と作家につながりができ、16年に基金に同作が寄贈されることになった。そして今年、福島市が受け入れ先に手を上げ、基金が福島市と協議し、一般財団法人ふくしま未来研究会の協力のもとで「福島市子どもの夢を育む施設 こむこむ館」前に、「原子力災害を風化させることなく、未来に向け、希望を持って復興創生に取り組む福島市、そして福島県のシンボル」(*1)として設置された。

解体前の《サン・チャイルド》 撮影=編集部

 8月3日に除幕、しかし国内外のメディアで批判が紹介されると、10日には作家による「私の作品が一部の方々に不愉快な思いをさせてしまったことについて、大変申し訳なく思っています」(*2)というコメントが出された。8月28日に木幡市長が撤去の方針を示し、9月18日から20日にかけて解体が行われた。新たな展示場所はいまのところ決まっていない。

 《サン・チャイルド》は、2011年10月の万博記念公園内、岡本太郎《太陽の塔》前での展示や、同月から翌年2月まで開催された「ヤノベケンジ:太陽の子・太郎の子」展、「福島現代美術ビエンナーレ2012」、「あいちトリエンナーレ2013」、イスラエルやロシアなど海外での展示や12年から恒久設置されている大阪府茨木市でも、とくに批判が集まったことはなかったという。

 しかし、今回初めて、ほかには美術作品が置かれていない公共の場に展示されるに当たり、批判が寄せられた。ここで話題になったのが、痛々しい顔の傷、放射線防護服のような衣装、そして胸のカウンターが示す「000」の数値だ。これらの造形が福島への風評被害を助長し、福島の人々や施設を使う子供たちを傷つけるのではないかという指摘がなされた。

 だがヤノベは、この国で初めて非常用炉心冷却装置が実作動し、放射性物質が周辺に放出された1991年の美浜発電所での事故をきっかけに放射能をモチーフとすることに取り組み、97年にはチェルノブイリ原子力発電所事故に反応してガイガー=ミュラー計数管を用いた作品を制作している作家だ。空間線量がゼロになるという理解をしていないことは、公式ブログや8月10日に出されたコメントでも明言されている(*3)。

9月5日に福島市で行われた「福島ビエンナーレ」記者会見で《サン・チャイルド》について語るヤノベ 撮影=編集部

 むしろ日本のアーティストのなかでもとくに早い段階から放射線計測器を扱っているわけで、空間線量については知悉していると言ってもいいはずだ。ヤノベが放射線についてありえない風評を《サン・チャイルド》を用いて流布しているというのは、端的に事実誤認であるだろう。

 しかし、作家がどのような考えを持っていたとしても、作品を見る者がどう受け取るかはまた別の問題だ。今回、誤解が広まってしまったのは、像の造形的なわかりやすさによるところが大きい。放射線防護服のように見える、ガイガーカウンターかのような数値計にゼロが並んでいる、そして何より、「こむこむ」前で作品を見る人は、作家の過去の取り組みを知るよしもない。公共空間に置かれた作品は美術館や芸術祭とは異なり、造形表現に込められた暗喩や明喩をめぐる約束事を共有した人ばかりが見るわけではないからだ。

 そこにあるものが、たとえわかりやすく明快な造形であったとしても、重層的な意味の重なりや背景を有し、何かの象徴であるという理解は、美術空間を一歩出てしまえば共有されることは難しい。そのような状況で、人は目に入ったものをそのまま受け取る。だからこそ公共彫刻の恒久設置には、美術空間と公共空間の性格の違いを踏まえ、住民のコンセンサスを得ることが必要なのだ。

解体を前に台座が取り除かれた《サン・チャイルド》 撮影=筆者

巨大彫刻、拒絶の系譜

 住民が行政によるトップダウンで設置された巨大彫刻に反対し撤去を求めたのは、今回が初めてではない。むしろ、枚挙にいとまがないと言ってもいいほどだ。

 1975年、ドイツ・ミュンスター市で、市がジョージ・リッキーによる抽象彫刻《3枚の正方形 Three Rotary Squares》の恒久設置ついて住民への開かれた審議の場を欠いたために、反対運動と論争が起こった。81年には米国連邦調達庁 (General Services Administration)の依頼で、ニューヨーク市フェデルプラザにリチャード・セラの巨大な鉄の彫刻《傾いた弧 Tilted Arc》が設置されるも、広場を日常的に使う人々から苦情と撤去が主張されたことで、論争と裁判が起こり撤去されている。93年にはベルリン市のノイエ・ヴァッヘ(戦争と暴力支配の犠牲者のための国立中央追悼施設)に当時のドイツ連邦共和国首相、ヘルムート・コールの独断的決定によって、ケーテ・コルヴィッツが原型を制作した母子像が据えられ、大きな論争が起きた。

 いっぽう日本でも、1996年に長崎市の平和公園への巨大母子像の建立をめぐって、大きな反対運動が起こっている。長崎の母子像もベルリンと同様、当時の首長(長崎市長)によるトップダウンで設置が進められた。この長崎の母子像をめぐって起きた出来事は、直接的に福島の少年像と関係すると思われる。ゆえに多少の紙幅を本件に割きたい。

長崎市の平和公園に設置されている北村西望《平和祈念像》 撮影=筆者

 96年に突如公表された母子像建立は、被爆50周年記念事業碑として、長崎市にとっては1955年に設置された北村西望《平和祈念像》に続く2つ目の大型彫刻だった。母子像の作者・富永直樹は北村の高弟で、日展の重鎮。《平和祈念像》の制作助手も務めた。加えて長崎県出身、市長との個人的な親交も深かったことなどから、コンペや有識者の審議を経ずに抜擢されたようだ。

 この決定でもっとも疑問視されたのは、母子像の設置が「原子爆弾落下中心地碑」を撤去したうえでなされるということだった。中心碑の建て替えについての十分な審議や、住民への事前の合意形成がなかったことにただちに批判が向けられ、住民たちや、被爆者団体を含む様々な団体から異議が申し立てられた。

 また、富永が考案した母子像が、亡骸にも見えるみどり児を抱きかかえ、バラの花がちりばめられた華美なドレスをまとった女性という造形であったことも、原爆投下後の被爆の実態から大きくかけ離れていると被爆者団体から批判が寄せられた。

長崎市の平和公園に設置されている富永直樹《母子像》 撮影=金川晋吾

 作者の富永にしてみれば、彫刻の造形に被爆の実態を重ねたわけではなかったであろう。再生や復興の象徴としてそれらの造形を選択したはずだ(*4)。しかしそういった表現の重層性は公共空間では機能せず、むしろまったく逆に、被爆者たちとの深い断絶の契機となってしまった。そしてこのとき、母子像建立に対してとくに強い拒否を示したのは、キリスト教関係者だった。

 長崎への原爆投下では、カトリック浦上教会の信徒たちは、約1万2000人のうちおよそ8500人が亡くなるという甚大な被害を受けた。原爆は浦上に落ちたと表現されるほどだ。広島の原爆ドームが現存することに比して、浦上天主堂の遺構が保存されなかったことを嘆く声や、その決定の影に米国の圧力があったとする論調も見られるが、原爆投下のはるか以前から続く浦上の信徒たちへの筆舌に尽くしがたい過酷な弾圧の歴史と、教会という神の家を求め続けた不屈の道行きに鑑みれば、再建は当然の選択とも言えるだろう。こうして天主堂は建て直され、残骸の一部は平和公園に中心碑と隣接して置かれている。

現在のカトリック浦上教会(旧称:浦上天主堂) 出典=ウィキメディア・コモンズ
(Yoshio Kohara, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=52876996による)

 97年、浦上教会は中心碑撤去反対を主張し、富永直樹が制作する母子像に対しては、「マリアに似た偶像」は「我々に対する侮辱」であり、「“偽物”の隣に我々の大切な旧天主堂を置くわけにはいかない」と、母子像が設置されるならば天主堂の遺構を平和公園から引き上げるという意見を表明した(*5)。母子像という造形が、ここでも大きな拒絶を引き起こしたのだ。

 こうした反対の声明が相次ぐなか、市は強硬に公園のボーリングを開始するが、住民による座り込みが起こり、ついには一転し中心碑の撤去を取りやめる。しかし《母子像》は制作中止となることはなく、公園のかたすみに設置されることになった。これを受け、住民の合意を得ていない巨額の税金を用いた巨大彫刻建立は憲法違反であるとして、撤去を求める裁判が起きる。裁判は2004年まで続き、最高裁判所まで持ち込まれるも、原告側の敗訴となった。

長崎市の平和公園にある原爆落下中心地碑 撮影=筆者

 長崎の《母子像》は、作家のアトリエや美術館での展示であれば、ここまで苛烈な拒絶に遭うことはなかったであろう。日本人は観音像や悲母観音になじみもあるため、母子像の造形に特筆すべき問題はないととらえる人も多い。仏教徒であった富永も同じように考えたのかもしれない。しかし、現実にはそうではなかった。公共空間への彫刻設置に際しては、その土地の多様な歴史や宗教的背景などから、摩擦が生じるのは前提として認識されるべきだということが、長崎の事例からはよくわかる。

 また、長崎の大型彫刻の問題は、首長が個人的に親交のあった彫刻家に大型彫刻の制作を依頼し、1億6000万円もの税金が不透明な手続きによって使われたというだけにはとどまらない。原子爆弾を受けた長崎が、世界に広く「平和」を発信する平和行政を進めていくうえで、住民とのあいだに大きな溝ができてしまったことがもっとも深刻な問題であった。

長崎と福島の彫刻の問題

 さらに長崎の場合、当時の市長は撤去反対の10万を超える署名や各団体からの請願を無視し対話に応じようとしなかった。翻せば、それほど固い意志で中心碑を撤去し、母子像を建立したかったということなのかもしれない。ともあれそのため、96年から97年の3回の定例会議において、10人の市議会議員が中心碑と母子像について一般質問で取り上げた。ここで問われたのは大きく3つ。

1. 中心碑は原爆の中心地点の「指標」か、あるいは「墓標」か
2. 新モニュメント(富永直樹《母子像》)の決定に際し、被爆者や市民の声を聞くべきだったか
3. 母子像という図像は宗教性を有するか

 議員たちは芸術や記念碑、宗教学の専門家ではないが、こうした内容が議会で問われたこと自体に大きな意味がある。後世からその記録を参照することができるからだ。資料があればこそ、これを敷衍して議論を深めていくことも可能になる。とくに「2」については、今回の福島の問題と直接的に接続ができるだろう。議会での一般質問だけではない。長崎新聞での長崎市長と長崎原爆被災者協議会長の対談や、「長崎の証言の会」が発行する『証言―ヒロシマ・ナガサキの声』で特集が組まれるなど、本件を後世への教訓にしようという動きが見て取れる。

 しかし、今回福島では、設置についても撤去についても、公の場での審議が一度も行われていない。一刻も早い火消しに急いだ印象だ。具体的に誰が彫刻を拒否したのか、何が問題だったのか、現状のままでは検証することも難しい。2016年に「ヤノベケンジ サンチャイルド寄贈式」と銘打ち、作家と、渡邊晃一(福島大学教授)、荒木康子(福島県立美術館学芸員)、赤坂憲雄(福島県立博物館館長)らが登壇したイベントが福島市で開催された(*6)。例えば撤去に際し、同メンバーによる討議が行われてもよかったのではないかと思う。

足場が組まれカバーがかけられた状態の《サン・チャイルド》 撮影=筆者

 とはいえ、長崎の母子像の問題も広く知られているわけではない。筆者も2014年に初めて長崎を訪れるまでまったく知らなかった。管見の限りでは、97年当時、美術関係のメディアでは雑誌『あいだ』が取り上げているのみである。

 反対運動と裁判の記録を追っていくなかでとくに印象的だったのが、母子像撤去を求めた裁判に提出された針生一郎の論考「芸術的評価判断意見書」だ。ここで針生は「自治体の首長などが、公募コンペティションの手続きを経ずに、私的交際や私的愛好のまま地元有名芸術家に公共建造物や広場に設置する作品を依頼するのは、公私混同であって実際にロクな作品がない」と主張する。

 また針生は、《平和祈念像》は異教の偶像であるとの理由から平和公園への来訪を拒否したという1981年のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の来崎時のエピソードを引き、宗教的偶像性を避けたモニュメントの必要性を論じるとともに、《平和祈念像》にも疑問を呈している。以下は、「芸術的評価判断意見書」の結論の一部である。

原爆被爆の惨禍をみつめながら、21世紀中、長崎から世界に向けて平和の祈りを発信しつづける百年の大計のために、長崎市は抜本的反省と大英断をもって二つの像[筆者注:《平和祈念像》と《母子像》のこと]の撤去にふみきるべきである。その上であるべき公共彫刻と平和公園・爆心地公園の新生について市民から自由な提言を求め、その討論によっておおよそコンセンサスが得られたところで、全国に彫刻を公募するコンペティションを行ってほしい。(*7)

 《平和祈念像》と《母子像》を撤去し、新たな彫刻をコンペで決めるべきという針生の提言は、実現可能性は決して高くないだろう。しかし、住民から募った意見を討議し、おおまかなコンセンサスを形成したうえで公募によるコンペが行われるべきだという提案は、今後の巨大彫刻の恒久設置に際し、検討に値する内容を多分に含んでいる。

 先に紹介したドイツ、アメリカでの巨大彫刻をめぐる論争や反対運動は、いずれも公共空間の彫刻を考えるうえでのターニングポイントとなった。ジョージ・リッキー《3枚の正方形》は、その反省を踏まえて、現在まで10年に1度のペースで続く「ミュンスター彫刻プロジェクト」開催のきっかけに転じた。リチャード・セラの《傾いた弧》をめぐる論争と撤去は、アメリカにおけるパブリックアート設置の転換点になったといわれる。そしてコルヴィッツの母子像を契機とする議論は記念碑の造形について公の審議を求める契機となり、ドイツの記念碑論争と記念碑コンペの審査に大きな影響を与え、ピーター・アイゼンマンによる《ホロコースト記念碑》(2005)へとつながった。それぞれの場所で、密室で決定されるような巨大彫刻の恒久設置から大きく舵が切られたのだ。

ピーター・アイゼンマンによる《ホロコースト記念碑》(2005) (C) Pixabay

 他方、日本では、長崎の母子像について、大きな反対運動や撤去を求めた裁判があったにもかかわらず、それが美術関係者にもほとんど知られていないように、公共彫刻をめぐる議論の蓄積もほとんど存在しない。その結果、長崎の反省が生かされず、福島で再度、行政の長によるトップダウンでの巨大彫刻設置と、拒絶が起こってしまった。

 むろん、原爆投下と原発事故は異なる。福島第一原子力発電所事故によって、福島の住民に放射線被曝を原因とした健康被害が起こっていないことは、調査から明らかになっている(*8)。ここで長崎と福島を「被ばく者」という観点からひとまとめにしようなどという意図はまったくない。そうではなくて、長崎と福島、ともに原子力によって悲惨な出来事が起こった場所から、どのような方法で世界へメッセージを発信していくかについては、共通することが多くあるということが言いたいのだ。

 そしてそもそも、長崎にも福島にも、巨大彫刻は必要なのだろうか。長崎の《平和祈念像》と《母子像》をめぐるコンフリクトを検証し、そこまで問いを立ち戻らせるべきだ。しかし同時に、過去の事例を参照したうえで、どうしても巨大彫刻を恒久設置したいのだという自治体や作家の強い意志があるならば、それは尊重されるべきであるとも考える。

 長崎の事例に照らせば、針生が主張したように、長崎や福島など、とくに彫刻がその都市のシンボルのみならず、公的なメッセージともなる場合の永久設置については、住民との合意形成は不可欠だ。とはいえ、「住民」というくくりは不安定なものであるから、完全で完璧な合意は難しい。であればこそ、首長の独断的決定によらず、有識者によるレビューや公の審議を経て、すべての過程を透明にすることは難しくとも、ある程度住民に開かれた検討の場を設けることが必要ではないだろうか。

 アメリカ、ドイツがそうであったように、公共彫刻をめぐる衝突を開かれた議論へと展開させよう。検討材料は十分にそろっている。長崎も福島も、人類史上、類例のない場所だ。人類の惨禍にとって彫刻はどのような存在か。この問いは美術関係者だけのものではない。広く開かれた「思想的課題」であるはずだ。

解体中の《サン・チャイルド》 撮影=筆者

誰が《サン・チャイルド》をつくったか

 最後に書いておきたいことがある。京都造形芸術大学にはヤノベがディレクターを務めるウルトラファクトリーという造形工房が置かれている。ここは「世界基準の工房で、トップクリエイターと共に制作する。」というスローガンを掲げた実践的な教育の場であるという。ヤノベの公式ブログに「復興のために短期間で巨大な彫刻を集団制作する方法については、運慶の《金剛力士像》を参照しています」(*9)とあるように、《サン・チャイルド》をはじめとしたヤノベの巨大彫刻は、このウルトラファクトリーで若い作家志望の学生たちの協力のもとつくられているのだ。

 望むらくは、美しい表面をつくり上げる技術と同じくらい、今回のような巨大彫刻の拒絶について、その意味と教訓もまた、伝えられる教育の場であらんことを(*10)。

《サン・チャイルド》撤去後の「こむこむ館」前

*1——
http://www.city.fukushima.fukushima.jp/kohoka-koho/shise/koho/happyo/h3001/documents/4300706rinjikisyakaikenhatsugenroku.pdf
*2——
http://www.yanobe.com/20180810_KenjiYanobe_Statement.pdf
*3——http://yanobe.hatenablog.com/entry/2018/07/04/213853
*4——本稿ではふれないが、富永直樹の《母子像》については、「母」と「子」に作家が重ねた意味や、《母子像》設置によって「原子爆弾落下中心地碑」に生じた変化など、問題は多くある。詳しくは『彫刻1:空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(トポフィル、2018)収録の白川昌生、金井直、筆者による鼎談「『彫刻の問題』、その射程」を参照されたい。
*5——毎日新聞1997年1月13日付。
*6
——http://www.fukushimafund.or.jp/689
*7——針生一郎「芸術的評価判断意見書」はこれまで未発表であったが、筆者が編集する長崎のモニュメントについての論集に全文が収録される。この論集は月曜社から2019年に刊行される予定である。
*8
——首相官邸ホームページ「東電福島第一原発事故に関するUNSCEAR報告について」 および、原子放射線の影響に関する国連科学委員会「東日本大震災後の原子力事故による放射線被ばくのレベルと影響に関するUNSCEAR 2013年報告書刊行後の進展」を参照した。
*9——http://yanobe.hatenablog.com/entry/2018/07/04/213853
*10—— 本稿では、長崎の原爆モニュメントについては、大平晃久「長崎原爆落下中心碑にみるモニュメントの構築」(『九州地区国立大学教育系・文系研究論文集』、2017)、母子像裁判については、山下良夫「碑は残った。しかし、それだけでは終わらない–公共彫刻のつくられ方を問う「原爆落下中心地裁判」」(『あいだ』72号、2001)を参照した。