「表現の不自由展・その後」出品17作
さて、本企画において、上述した「歴史資料としての再展示」という拘束に果敢に挑戦しているのが大浦信行である。驚くべきことに大浦は新作を出品している。大浦の新作《遠近を抱えてPartII》は、端的に言って本企画の趣旨を大きくゆがめている。しかしだからこそ、筆者はとても興味深く拝見した。
本来なら本企画で焦点化されるべきは、大浦が1982年から85年にかけて制作した14点組の版画作品《遠近を抱えて》だ。ところが《遠近を抱えて》は会期の前半と後半で2作品ずつ展示されるかたちをとり、本企画への参加を契機に制作された映像作品《遠近を抱えてPartII》が併置して展示してある。
《遠近を抱えて》(1982−85)は1986年に富山県立近代美術館で開催された「'86 富山の美術」展に出品された14点組の版画作品である。本作は展覧会終了後、県議会で作品内の天皇の写真の扱いに批判が起こり、右翼団体の抗議が相次いだ。これを受けて、美術館は図録とともに作品を非公開とした。93年に、富山県立近代美術館は作品を売却し、「'86 富山の美術」展の図録は焼却処分される。信じがたい行為である。ここでの作品と図録の扱いと、大浦が起こし結果的に敗訴となった裁判は多くの文献で取り上げられ、本事件から雑誌『あいだ』が誕生したことなど、日本の美術史にとって看過することはできない出来事だ。
さて、本企画をきっかけに制作された《遠近を抱えてPartII》には《遠近を抱えて》を燃やすシーンが存在する。これが今回、部分的に切り離され、インターネットを中心に拡散した。大浦のこれまでの映像作品や「富山県立近代美術館事件」を知る者であれば、該当シーンもふくめ、本作は多様な読み解きができる。しかし丁寧な背景の解説がなければ、「天皇のイメージを燃やし、靴で踏みつけて消す」という表象が、少なくない人々にショックを与えることは否定できない。そういったことに鑑みても、《遠近を抱えてPartII》の展示方法は、本企画内でもっとも「配慮」を欠いていたといえるだろう。
藤江民《Tami Fujie 1986 work》も富山県立近代美術館での図録焼却問題に関わる作品だ。藤江は大浦と同様に「'86 富山の美術」展の招待作家のひとりである。焼却処分された図録には藤江の作品も掲載されていた。本作において藤江は、「'86 富山の美術」展図録内の自作についてのページを焼くイメージをシルクスクリーン作品に仕立てた。また画面上には、大浦の作品処分問題に関連する声明が記されている。
今回展示されているのは86あるエディションうちの4にあたるが、エディションの「86」という数字も展覧会名の「'86 富山の美術」に重ねているのだろう。注意したいのは、藤江は抽象表現に取り組む作家であり、本作は作家の画歴のなかでも特異な存在だということだ。《Tami Fujie 1986 work》は「富山県立近代美術館事件」に関わる作品の一群といった提示の仕方のみでは、作品のもっとも重要な点を取りこぼしてしまうだろう。
嶋田美子《焼かれるべき絵》《焼かれるべき絵:焼いたもの》(ともに1993)もまた富山県立近代美術館での大浦作品の処分問題に関連して制作された。キャプションにもあるように、本作は「版画を1/3くらい焼いたもの、版画を焼いて灰にするまでの経過を撮ったスナップ、実際の灰、富山県立近代美術館宛の嶋田さんからの手紙、富山県立近代美術館からの返信」によって構成される。
嶋田は、大浦の作品内で物議を醸した昭和天皇の戦中の姿とおぼしき肖像を用いた自身の版画作品を燃やし、「また右翼の抗議にお会いになって館長さんが窮地に立たされるといけませんので、作品全部を焼却してその灰をお贈りします」という手紙とともに、その灰を富山県立近代美術館への寄贈というかたちで同館に送った。同館は「当館では必要としませんので返送します」という文言とともに嶋田の作品を返却している。
嶋田は灰とともに送った手紙に「美術館そのものが芸術の墓場だという意見もありますから、作品の遺灰を収蔵するのは理にかなっているのではないでしょうか」ともしたためている。自身の作品を燃やして送りつけるという行為には、右翼団体の圧力に屈した美術館の長への批判とともに、美術館という制度にも挑戦する意志が込められている。
注目したいのが、本作のステイトメントにおいて、嶋田の「版画家として」という自覚が見て取れる点である。嶋田は女性と戦争をテーマにしたインスタレーションで知られるが、そもそもは版画を出自とする。本作からは嶋田という作家のこれまであまり語られてこなかったメディウムとの関係性を強く意識させられた。今回の炎上騒動では、嶋田の作品も非難の対象となったが、ここで記したような経緯を踏まえれば、深い広がりを持った作品であることはわかるはずだ。
これらの3作品は「富山県立近代美術館事件」に直接的に関わる作品である。「富山県立近代美術館事件」は「慰安婦問題」とともに本企画の核をなすが、後者に関わる作品のなかで今回メディアがもっとも大きく取り上げたのが《平和の少女像》だった。
キム・ウンソンとキム・ソギョン夫妻の共同制作によってつくられた《平和の少女像》は、韓国における「水曜行動」の1000回を記念し、2011年に「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(当時の名称は韓国挺身隊問題対策協議会。以下本稿では、挺対協と表記する)が行政の許可なくソウル市内の公道に建立したものが第一号である。《平和の少女像》はその後、韓国国内だけにとどまらず、世界中に普及していくことになる。2人の彫刻家が本作の造形に細やかに重ねた意図は、会場内に掲示された解説図からよくわかる。とはいえ、彫刻家の制作意図と、市民団体が主導する運動の一環として《平和の少女像》が建立され続けていることはまったく別の問題である。とくに公共空間の彫刻は、彫刻家の意志と、施主がそれをどのような目的で活用するかは分けて考えられるべきだ。
《平和の少女像》は隣に空白の椅子があるが、ここに中国から寄贈されたもうひとりの少女像が据えられているなど、いくつかのバリエーションがある。彫刻の拡張可能性が本作には顕著に現れている。筆者は2016年にソウルと釜山にあるブロンズ製の《平和の少女像》を合計5体実見した。とくに第一号に顕著だが、この彫刻は公道を広場に変容させるのみならず、様々なお供え物が置かれ「地蔵」と化していた。韓国は仏教弾圧がはげしく、日本におけるお地蔵様(地蔵菩薩)はほとんど現存しない。そのような韓国の公共空間の彫刻史を見ていく際に、本作の重要性が明らかになる。そして、今回展示された着彩が施された少女像は、ブロンズ像がまとう物質としての強固さや永続性は影を潜め、ひとりの少女の実在感がより身近に感じられた。
安世鴻(アン・セホン)《重重―中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち》(2012)は展示構成の意図からしても、《平和の少女像》と補完関係にある。《平和の少女像》はその影として高齢女性のシルエットが描かれているものの「慰安婦」を「少女」として、ある意味では一元化する側面がある。《重重―中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち》はそのような《平和の少女像》への批判に対する応答としても見ることができる。
安の作品は、「表現の不自由展」の成り立ちと密接に関係している。2015年に開催された「表現の不自由展」は、実行委員会の岩崎貞明によれば、当時の実行委員会は50人ほどであり、その中心は「“教えてニコンさん!”ニコン『慰安婦』写真展中止事件裁判支援の会」だった。この会は、中国に残された日本軍慰安婦の被害女性たちを被写体とした安の写真作品展が2012年にニコンサロンによって直前に中止を通告された事件をきっかけに発足した。安は一方的な中止勧告を受けて、東京地裁に仮処分を申請し、東京地裁は安の訴えを認めニコンサロンに写真展の開催を命令する。「“教えてニコンさん!”ニコン『慰安婦』写真展中止事件裁判支援の会」はこの裁判を支援する人々が中心となっている(*5)。
なぜニコンサロンは安の写真展を拒否したのか。それは同社が、慰安婦はいなかったとする歴史観を持っているからではない。安の写真によって問題が惹起することを避けたのだ。このような物言いは、とくにパブリック・セクターが主催する展覧会において顕著に見られる。
趙延修(チョウ・ヨンス)《償わなければならないこと》(2016)は、韓国の「慰安婦」を主題とした平面作品だ。性的に搾取された女性たちと無数の画一化された男性が、迷いのない構成で描かれている。当時高校生であった趙が制作したこの油彩画は、千葉県立美術館で開催された交流展で展示されたが、作品の内容が政権批判でありふさわしくないとして、千葉県はこれ以後この交流展への補助金交付を取りやめている(*6)。本企画に対して政府高官が行ったのと同種の圧力が実際に実行された事例である。
先に、外交案件としての慰安婦問題と書いたが、ここでいまいちど確認しておきたい。韓国市民団体が主導する《平和の少女像》設置事業と、日韓の政府がやりとりを進める慰安婦問題の解決とは、基本的に位相が異なる。いまでこそ、慰安婦問題は日本政府と韓国政府が対する構図をとっているが、もともとは挺対協という韓国市民団体が日本政府を相手取り、日本国内で裁判を起こすことで賠償と謝罪を求めていた。しかし1965年に結ばれた日韓請求権協定があるために日本で勝訴することができず、方針を変更した。そして2011年8月に韓国の憲法裁判所で韓国政府に勝訴したことが決定的なターニングポイントとなる。2011年の《平和の少女像》第一号の建立はデモの1000回を記念するものであると同時に、韓国市民団体が韓国政府に対して違憲判決を勝ち取ったという分岐点に立つものであるのだ。自国の政府に解釈を変えさせたことで、本件を政府間の問題へと押し上げたのである。
《平和の少女像》に反感を抱く人々のなかには、像の建立と、政府間の慰安婦問題には直接的関係がないということを知らない人も多いのではないかと想像する。この構図を周知させることが、像への悪感情を和らげることにもつながるだろう。そしてまた、より普遍的に考えれば、女性の人権が踏みにじられた過去を真摯に省みて、二度と繰り返さないという点では対立を超えることができるはずだ。たとえ歴史認識のすりあわせが難しくとも、対立する側を「愚か者」「テロリスト予備軍」と断じ、想像力を絶やしてしまっていいのだろうか。「長崎原爆資料館の加害展示論争」で起こったような、対立を超えて共同できる可能性を諦めてはならないと私は思う。
会場構成から読み解くことはとても難しいものの、本企画には大別して3つの軸がある。「富山県立近代美術館事件」「慰安婦問題」「第2次安倍政権下での検閲」である。とくに慰安婦問題については、現状の展示場を見る限り、表現の問題ではなく政治の問題としてのみ焦点化されている印象が非常に強い。芸術祭や美術館で開催するのであれば、それはやはり表現の問題を正面から扱うべきだろう。つまり、かの問題を「女性の人権にかかわる表現の問題」に接続し、より開かれたかたちでキュレーションすべきであったと筆者は考えるのだ。そしてそこには、今回候補となりながらも展示されていないろくでなし子の作品が展示されることは必至であると思われる。
さて、横尾忠則《ラッピング電車の第五号案「ターザン」など》(2011)《暗黒舞踏派ガルメラ商会》(1965)は、前者は本企画においては2つあるアーカイブ資料展示のひとつだ。これは横尾がJR西日本のために考案したラッピング電車の図案で、男性が叫ぶ顔が一面に配置されている。2005年に起こった尼崎JR脱線事故の被害者を想起させるという理由で拒否された。後者は土方巽による舞踏公演のためのポスターで、中西夏之との協働によって制作された。ニューヨーク近代美術館で開催された「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」展(2012-13)に出品された際に、旭日旗を思わせると在米韓国系市民団体から抗議を受けるも、同館は展示を中止とすることはなかった。本企画において唯一の韓国系市民からの抗議の事例である。
横尾による作品は、ある側面からは同質性が高いとも言える本展の、オルタナティブを示すという点でとくに重要だ。しかし展示構成においても解説文においても、そういった重要性への説明は足りているとは言えない。本企画をめぐる議論の場において、ぜひ大きく取り上げられるべき作品である。
白川昌生《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》(2015)は、2017年に群馬県立近代美術館で開催された「群馬の美術2017──地域社会における現代美術の居場所」展に出品されたものだが、展覧会初日のオープン前に撤去を求められ、白川はそれに応じている。群馬県立近代美術館もある県立公園「群馬の森」に実在する記念碑をかたどり、布で再現した。ここでモチーフとなった群馬県朝鮮人強制連行追悼碑は、群馬県が撤去を決定したことで、それに反対する市民団体との間で係争が続いていた。美術館側が本作の撤去を求めたのも係争中の問題を扱っていることが理由だった。
布でかたどられた本作は、クリストとジャンヌ=クロード夫妻や赤瀬川原平の梱包シリーズも思わせるが、重要なのは内部が空洞であることだ。永遠に序幕されることのない記念碑のようであり、時代によって意味内容がたやすく変化してしまう記念碑をその空洞性とともに可視化する作品である。そして本作については、タイトルと同じ文言が書かれたのぼり作品《わたしはわすれない》が撤去後に置かれたことがとくに重要である。展示不可となったというだけではなく、それに対し作家がどのような行動を取ったのかも、本企画では詳細に言及する必要があったのではないか。
大橋藍《アルバイト先の香港式中華料理屋の社長から「オレ、中国のもの食わないから。」と言われて頂いた、厨房で働く香港出身のKさんからのお土産のお菓子》(2018)は、2018年の合同卒業制作展の五美大展において菓子が腐敗のおそれがあると出品を拒否された作品である。本作はキャプションがなければただの菓子であり、既製品をそのまま用いたという点では、本企画内ではもっともシンプルな構造の作品である。しかしだからこそ、オブジェクトと意味内容の重なりを考えるうえで興味深い。また、大橋は本作の展示拒否が、作品が可視化した差別問題と、作家自身に向けられた教育差別でもあるのではないかと問題提起している(*7)。これについては客観的かつ冷静な議論が必要であろうと筆者は考える。そういった意味でも、議論の場が持たれることは必須の作品だ。
中垣克久《時代(とき)の肖像—絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳—》(2014)は報道記事の拡大コピーや手書き文字、寄せ書きがされた日本国旗、として星条旗が円墳を模した形状のオブジェの外部と底面に配置されている。2014年に東京都美術館で開催された「現代日本彫刻作家連盟」による定期展「現代日本彫刻作家展」において出品されたが、「東京都美術館運営要綱」に反するとして一部のメッセージが撤去された。本作は美術館の運営制度にあえて挑戦する作品でもある。そうであれば、やはり要綱を参考資料として展示するべきではなかったか。これを起点に、美術館という制度の限界について、あるいは運営指針の再検討までも議論の射程を広げることができたであろう。
小泉明郎《空気#1》(2016)は2016年に東京都現代美術館で開催された「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」に出品予定であったが、「多くの人が持つ宗教的な畏敬の念を侮辱する可能性がある」として学芸員との交渉の末、美術館近隣のギャラリーで展示されることとなった。本企画に出品された作品の多くがそうであるように、一般的には何かを「描いたこと」によって批判され、検閲対象となるわけだが、本作は「描かなかったこと」を問題視されたという点で類例がないと思われる。往事の日本人は「御真影」に礼拝し崇拝の対象としていたわけだが、《空気#1》の参照項となった写真は現代の多くの日本人にとってなじみ深いものだ。興味深いのは、それが「家族写真」でもあることだ。ここでの不在によって問題視された「宗教的な畏敬の念」こそ、現代日本にいまだ残り続けている「空気」そのものではないか。
Chim↑Pom《気合い100連発》(2011)は東日本大震災を受けて制作された映像作品だが、国際交流基金が主催した海外での展覧会に出品される際に、いくつかのワードを伏せた状態での展示が求められた。それが《耐え難き気合い100連発》(2015)である。本企画でははじめて二作併せての展示となった。本企画では展示作品はすべてSNSでの撮影画像投稿を禁止されていたが、Chim↑Pomは手書きで投稿OKであると上書きしており、また本企画ウェブサイトでも実行委員会が作品解説を書いておらず、自分たちでステイトメントを寄せているという点でも、本企画へのゆるやかな抵抗の意志が感じられる。
永幡幸司《福島サウンドスケープ》(2011−19)は福島県内の環境音データを採取し、採取地の写真とあわせて映像化された作品で、千葉県立中央博物館で開催された「音の風景」展に出品された。しかし特定の者に対する批判と受け取られる可能性のある表現が含まれ、公立博物館としてふさわしくないと指導が入り、作者の了承なく解説文が部分的に書き替えられた。これが、作者が所属する福島大学の学長と執行部の除染対応への批判部分にあたる。永幡は福島大学共生システム理工学類教授であり、東日本大震災後の2011年5月から現在まで本プロジェクトを継続している。
岡本光博《落米のおそれあり》(2017)は沖縄県で開催された「島の記憶」をテーマとする地域美術展に出品された。交通標識を模して「沖縄の日常」が商店街のシャッターに描かれた。しかし、自治会長が本作に反対したことで、開催地のうるま市の判断によって本作はベニヤ板で覆われることになる。その後、抗議によって作品の支持体となったシャッターが切り取られ、場所を移して会期の最終日のみ展示が再開した。
本来であればその場所の固有性と関係が深いグラフィティであったものが、皮肉なことにこのような拒絶を経て、もとの場所・文脈から切り離され自律した。岡本は本作について「『沖縄から米軍基地をなくせ』といった政治的なアピールをしているわけではありません」と説明し、作品が封鎖されたことについては「よそ者である私が、島の問題を描いたことへの心情的な反発もあるのだと思います」と述べている(*8)。「展示不許可となった作品」の複層性を示す好個の事例といえるだろう。
《マネキンフラッシュモブ》(2016)は、パフォーマンスを行った団体の共同代表は氏名を明らかにしているものの、本企画での展示に際しては「作者」というかたちでの行為主体は存在しない取り組みとされている。モブと銘打ってはいるが、サイレントデモの一手法にも見える。それがまさに問題視され、2016年に神奈川県海老名市で開催されたマネキンフラッシュモブに対して、海老名市は条例で定められた禁止事項のデモにあたると禁止命令を出した。パフォーマンスをした団体はこれに対して訴訟を起こして勝訴し、結果、禁止命令は撤回されている。本作もアーカイブ資料展示である。静止画のスライドショーを小さな画面で見るだけでは、この取り組みの質について評することは困難である。
《9条俳句》(2014)は作者非公開とされている。「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という市民による俳句は、さいたま市の公民館で俳句サークルの1位に選ばれるも、政治的であり議論が分かれるという理由から月報への掲載を拒否された。作者は提訴し、勝訴している。本作は造形作品ではないため、筆者には批評することが難しい。
このように、17の出品作のなかにも幅があり、現政権、現体制への異議申し立てが明確にあるものもあれば、そうではないものもある。展示が不可になったあとの作家の行動も多岐にわたる。そして、企画の枠組みが大きくぶれてしまうような作品も含まれている。本展の鍵概念である「検閲」に焦点を当てれば、多様性が乏しいことは否めない。しかし、これを前向きに読み解くならば、ここから、そもそも日本における検閲とは何かを逆説的に問うことは不可能ではない。
本企画のウェブサイトには、何も告知が書き込まれていない空白のイベントページがあり、報道からも開幕後に討論などのイベントが予定されていたことが伝えられている。その内容と質によっては、窮屈な展示会場の印象が一転したかもしれないだけに残念だ。あるいは、展示の中止とは別に、議論の場の開催を継続することはできないのだろうか。
本企画におけるキュレーションの不在の内実は、第三者委員会による調査を待ちたい。芸術監督とキュレーター陣との協力体制に齟齬はなかったのか、トップダウンでの秘密主義による決定が横行していなかったかなど、仔細に調査が行われ、検討材料となることが望まれる。しかし、もし本騒動がトップダウンによる秘密主義によって引き起こされたのならば、それはまさに筆者が繰り返し注意を喚起してきた、パブリック・アートをめぐる愚の歴史に連なるものとなるだろう。
ここまでやや厳しい論調で述べてきた。しかし、確実に言えることがある。国内で林立する芸術祭のなかで、あいちトリエンナーレの最大の特徴は、芸術監督が代替わりし、毎回はっきりとしたテーマを打ち出してきたことにあるということだ。今回、津田大介芸術監督は「情の時代」という優れたコンセプトを掲げ、「ジェンダーフリー」という一石を投じた。これは津田でなければ決してできなかったことだ。津田が芸術監督になったことにはかけがえのない意義がある。
今回、「表現の不自由展・その後」が中止に至ったのは、脅迫という卑劣な行為によるものである。しかしそれでもなお、本企画の決定プロセスや展示構成に不備はなかったのかと問う視座を持つことが重要だと筆者は考えるのだ。今回の出来事から私たちは何を教訓として取り出すことができるだろうか。
会期はまだ残されている。多くの人が、本企画の欠点について、またはその意義を、闊達に議論できる場が継続してつくられることを強く望む。そのための尽力を私は惜しまない。
*1──「従軍慰安婦問題」が国際的関心を高めたのは、2007年、自民、民主両党の靖国派国会議員らが中心となり、米紙ワシントン・ポストへの意見広告「THE FACTS」を出したことによる。このとき、櫻井よしこ、稲田朋美らとともに、当時民主党議員だった河村名古屋市長も名を連ねていた。
*2──https://censorship.social
*3──http://www.webdice.jp/dice/detail/5849/
*4──https://medium.com/@tsuda/あいちトリエンナーレ2019-表現の不自由展-その後-に関するお詫びと報告-3230d38ff0bc
*5──岩崎貞明「慰安婦・放送禁止歌・時代の肖像・ワイセツ表現…『表現の不自由展』を開催して」『出版ニュース』2015年2月号
*6──本稿における展示禁止の理由については愛知県が制作したこちらの書類を参照した。
*7──2019年8月12日に開催された参加作家有志によるオーブンディスカッションでの大橋の発言より。
*8──「落米のおそれあり」は、なぜ封印されたのか?(ハフィントンポスト)
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