被ばく者なき後に
2019年4月、広島平和記念資料館の全面改修が完了し、1955年の同館開館以来3度目となる展示リニューアルが行われた。これに際し広島では、2010年から有識者を交えた検討会議が25回開かれ、どのような展示がつくられるべきかの議論が重ねられていた。ここでの主眼は「被ばく体験を次世代にわかりやすく伝えること」にあった(*1)。
筆者は長崎原爆碑の調査を行う関係で年に数回長崎を訪れるのだが、とくに2015年前後、被ばく70年と80年は明確に異なると幾度も耳にした。これは被ばく証言者の高齢化とともに、「減少」を意味してもいる。平和記念資料館のリニューアルにおいて重視された「次世代」とは、すなわち被ばく者なき後の世代であり、つまるところ同館のリニューアルとは、被ばく者なき後の資料館のあり方を検討することと同義であった。
平和記念資料館の展示リニューアルは、以下の3つの柱で議論が進められた(*2)。
1. 被ばく者の視点から原爆の悲惨さを表現すること
2. 実物資料で表現すること
3. 一人ひとりの被ばく者や遺族の苦しみや悲しみを伝えること
「2. 実物資料で表現すること」に注目したい。「実物資料」とは、遺品、被ばく者が自身の体験を描いた絵、当時の写真、証言映像などを指す。しかしここで「実物資料」が強調されるのは、「非・実物資料」が存在しているからにほかならない。非・実物資料とは、リニューアル前の平和資料館を訪れた多くの人に忘れがたいインパクトを与えた3体のプラスチック人形のことである。原爆再現人形と呼ばれるそれらの人形の是非は、「原爆再現人形論争」として、展示リニューアルおける主要な論題のひとつとなっていた。
発端は2010年7月に策定された「広島平和記念資料館展示整備等基本計画」において、これらの再現人形はジオラマごと撤去の方針が示されたことにさかのぼる。13年に市民に撤去の情報が広まると反対の声があがり、原爆再現人形の是非を問う議論が起こった。
撤去を決定した広島市の姿勢を要約すれば、科学的根拠に基づかない「人形」ではなく「実物展示」で被ばくの実相を正しく伝えるべきだ、ということになるだろう。いっぽうで撤去反対派は、被ばく再現人形が原爆の恐ろしさを強烈なインパクトをもって伝えてきたという歴史的な役割を再評価すべきだと主張した(*3)。
かくいう筆者も平和記念資料館を訪れて、原爆再現人形に「インパクト」を受けたひとりである。とはいえそのインパクトとは、どうしてこのような人形がこの場所にあるのだろうという不思議さから生じたものであった。広島と縁遠い場所で生まれ育った筆者にとって、赤い照明に照らされ、ボロボロの衣服をまとった人形たちは、視覚的なインパクトこそあれども、そこから原爆の凄惨さを感じ取ることは難しかった。原爆被害の実相を示すには細部の描写が甘いのではないかという疑問はいまも残っている。
そのような疑問は、『忘却の記憶 広島』(月曜社、2018)収録の鍋島唯衣による論考「原爆資料館の人形展示を考える」を読むことで腹に落ちることになった。鍋島によれば、広島市が撤去を決めた被ばく再現人形は3代目にあたるそうだ。そもそも、被ばくした衣服を着せたマネキン人形は資料館の開館当初から展示されており、マネキン人形から蝋人形に変わったのが1973年、プラスチック人形に代替わりしたのは91年以降だという。
73年から展示された蝋人形は、京都の西尾製作所の職人の作で、被ばく者数十人からの聞き取りや文献の検討などもあわせ、原爆の惨禍を伝えるため1年の時間をかけて制作されたものだった。このようにして完成したのが、胸部と両腕の皮膚が垂れ下がり、衣服もほとんどが熱線で失われた学生とおぼしき女性と、帽子によって守られた以外の髪の毛が熱で失われ全身にやけどを負った男児、そして男児の手を引く焼けた衣服と熱で縮れた髪の女性の3人の蝋人形だった。洋画家の福井芳郎が人形の背景画を描き、背景画の手前には荒廃した被ばく直後の市街の様子も再現された。
蝋人形の完成時、原爆被害者からは否定的な声が相次いだという。その後、90年3月の新聞報道で、原爆被害者が人形をより真実に近いものに変えることを求めたと報じられるも、91年以降に設置されたプラスチック人形は蝋人形よりも凄惨さが抑えられていた。そこには、被ばくのリアルさを追求することによって、来場者がショックを受けてしまうことへの資料館側の配慮があった可能性を鍋島は指摘している。筆者が相対したプラスチックの原爆再現人形は、そのような広島市と原爆被害者とのやりとりと、配慮によって生まれたものだったのだ。
広島を中心に原爆再現人形についての議論は続いていたが、結局のところ、広島市が撤去の方針を翻すことはなかった。原爆再現人形の撤去は決定路線であったのか、検討会議においてもその是非が議論された形跡はない(*4)。これはじつに残念なことである。鍋島が提起したような原爆再現人形の歴史的価値については一考の価値があったと筆者は考える。
そして、今回リニューアルされた平和記念資料館は、東館にも本館にも原爆再現人形が置かれることはなく、人形や再現模型的なものも見られない。さらに原爆再現人形と同様に姿を消したものが他にもある。原子爆弾リトルボーイの原寸大模型である。これは上述した3つの柱の「1. 被ばく者の視点から原爆の悲惨さを表現すること」に抵触するために姿を消した。爆心地にいた被ばく者の視点は、リトルボーイをとらえてはいなかった。広島平和記念資料館は、あらゆる意味で「つくりもの/つくられた原爆のイメージ」やそれらの「再現」と手を切ったのだ。
さて、ここで注目すべきは、平和記念資料館のリニューアルを乃村工藝社と並ぶディスプレイ業界の二大業者である丹青社が手がけたことである。同社は前述した有識者検討会議の第6回から参加し、展示構成の核となるコンセプトデザインを提供してきた。これまでの原爆再現人形論争では丹青社の存在が俎上に載ることはほとんどなかったが、有識者検討会議の議事録から明らかなように、広島平和記念資料館のリニューアルにおける「ストーリー構成」や「コンセプトの視覚化」に関して同社が果たした役割は極めて大きい。後述するような「洗練された」展示手法には、1946年に創業した同社がこれまでに積み重ねてきた展示技法の知見が存分に生かされていると見るべきだ。
刷新された展示構成は非常に巧みである。全体のテーマは「被ばくの実相」。新たに加わった要素は、「物語」であり、「名前」であるといえるだろう。これは「3. 一人ひとりの被ばく者や遺族の苦しみや悲しみを伝えること」の視覚化である。東館から本館へと至り、また東館に戻るという資料館の順路どおりに見ていこう。2017年、本館に先駆けてリニューアルした東館には、被ばく前の広島の写真が並び、そこにプロジェクションマッピングを活用した「ホワイトパノラマ」が続く。
ホワイトパノラマは爆心地を中心に、被ばく当時の広島市の直径5キロメートルの範囲が縮尺千分の1で表現されている。これに広島の爆心地を俯瞰でとらえた映像が投影され、日常が一瞬にして廃墟と化した様子を伝えている。そしてこのホワイトパノラマを囲むように、荒廃した爆心地のパノラマ写真が展示される。
来場者はまず東館を訪れ、通路を歩いて本館に入る。本館では、東館の導入部分で見た壊滅した都市にどのような個別の物語があったのかが示される。本館の展示空間は資料の多さとは裏腹に雑多な印象はまったくない。それは黒い空間に浮かび上がるようにして、展示物がスポットライトで焦点化されているためだろう。
このようなライティングは、来場者が実物資料やキャプションをより注意深く見ることを支援する。しかしそれは同時に、非常に洗練された「演出」としても見ることができる。暗闇に浮かび上がる無数の原爆被害者の衣服展示に、クリスチャン・ボルタンスキーによるインスタレーションを想起する人は少なくないだろう。空間構成に「写真撮影映え」が意識されていることもうかがえる。
しかし会場がいくら撮影可であっても、遺品であふれた「厳かな」展示会場で、パシャパシャと不躾に写真を撮る気持ちにはなりにくい。原爆についての議論は、表象不可能性についての議論でもあるが、リニューアル後の本館展示がカメラのシャッターを切ることの「ためらい」をめぐる証言からはじまることは示唆的である。
ここには、ディディ=ユベルマンの表象不可能性についての議論を踏まえて、彼が書名に冠した「malgré tout それでもなお」という意志が示されているのだろう。このような、写真を撮ること/記録を残すこと/資料館なるものをかたちづくることへの自己言及は、そのままそれらを見る来場者の心理的な障壁を下げる役割を果たしているとも感じた。
本館の「魂の叫び」と名付けられた展示では、遺品とともに遺影と、亡くなった被ばく者の名前、亡くなった場所が明記され、そして彼らを看取った人の証言や、遺族の悲しみの証言が併記されている。ここでの展示は、原爆によって亡くなった多くの人々の固有名と、その最期の物語の回復が意図されている。印象深かったのが、「定期入れ」とともに記された木島和雄さん(当時15歳)と、和雄さんを看取った警察官の西倉二さんの話だ。
崩れた駅舎の梁に片足を挟まれた和雄さんを、西さんは懸命に救助しようとしたが、どうやっても足を引き抜くことができなかった。西さんが「助けられない、許してくれ」と言うと、和雄さんは「ありがとうございました。これを宮島の家の者に渡してください」と自分の定期入れを西さんに渡した。駅舎は炎に包まれる。その後、西さんは定期入れを和雄さんの家族に届け、最期の様子を伝えたという。
定期入れとともに定期と身分証明書なども展示され、和雄さんの在りし日の生活が手に取るように伝わる。そして同時に、これを渡された西さんの、これを託した和雄さんの、そして和雄さんの最期とともにこの定期入れを受け取った和雄さんの家族の思いを想像した。実物資料の重みを痛感させられた展示だった。このような構成を採用するならば、再現人形の出番はないだろうと考え込んでしまった。
そして、ここで定期入れという実物資料とともに重要なのは、西さんの存在である。どのように死を看取ったのかという視点は、被ばくから距離のある戦争を知らない筆者のような世代の共感を呼ぶ。もし私が西さんの立場であったらと、実物資料を見ながら息をのんだ。このような構造は非常に強力だ。第三者の視点を介して、原爆による「痛ましい死」への想像力をより身近なものとして喚起させる。
また、高性能カメラによって撮影された被ばく者が自身の体験を描いた絵の高画質な複製画の存在も大きい。複製画とはいえ、ガラス越しで原画を見るよりもはるかに筆致が追えること、印刷によって色相が際立っていたことは特筆すべきだろう。原画ではおそらく水彩用紙や画用紙が用いられているのだろうが、複製画の印刷紙がスポットライトの強烈な光を受け止め、発光しているかのようだった。これらの絵は、描写や技術に拙い部分があるからこそ目をそらすことができない迫真性をもつが、複製画になることで薄暗い空間との親和性はいっそう高まっているように感じられた。
そして本館は、「人への被害」「救護所の惨状」「救護活動」などの原爆後の「生」の苦難をとらえた展示が続く。本館の最後は、終戦から7年後に発掘された大量の遺骨と、被ばく翌年に生まれた新しい命を写した写真という、大量死のむごさと命の希望との対比で終わる。東館に戻ると、「広島のあゆみ」「核兵器の危険性」などの原爆投下以前の広島や、世界史のなかに広島を位置づける展示が並ぶ。また、メディアテーブルと名付けられた巨大なタッチパネル式の学習装置があり、幅広い世代の来場者が自らの意志で、関心のある広島原爆に関する事項を調べ、学ぶことができる。
リニューアル後の資料館は、総じて、様々な実物資料を用い、被ばく証言者の戦後の困難と苦悩や、目の前で死を看取ることの痛ましさ、大切な人が二度と帰ってこない悲しみへの共感を通じて、こんなことには耐えられない、戦争は絶対にいやだ、ということが実感を伴って体験できる施設になっていた。丹青社が手がけた本展はその意味で、戦争を知らない世代に「わかりやすく伝える」ことに充分に成功していたといえる。
それでは、この資料館の展示に不備はないのだろうか。これについては「故郷を離れた地で」と題された展示が鍵となる。この展示は米軍捕虜などの外国人被ばく者についての内容で、今回のリニューアルに併せて初めてつくられたものだ。日本兵として被ばくした韓国人や、南方特別留学生などの外国人の被害も紹介された。
韓国・朝鮮人被ばく者などのこれまで周縁化されていた人々の展示が設けられたことは画期的だ(*5)。しかしいっぽうで「(資料館本館の展示は)「見せ方」にこだわりすぎて、説明すべきことまで省略されているのではないか。[…]特に朝鮮半島の人たちは『たまたま』広島にいたわけではない」(*6)として、大日本帝国の植民地支配によって故郷を離れることを余儀なくされたという背景が展示からは読み取れないという指摘を無視することはできないだろう。
東館に国家総動員法についての記述はあるものの、「故郷を離れた地で」の展示は、彼らが広島にいた経緯について多くの記述が割かれているわけではなかった。そのようなかたちで韓国・朝鮮の人々を「痛ましさ」の物語に包み込み、「原爆による死者」として一元化することには筆者も強い違和感を覚える。同記事は「加害責任に触れない本館での展示は、アジア、特に朝鮮半島に暮らす人々には受け入れてもらえないだろう」と続く。
とはいえ、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた被ばく証言者に、自身の被害についてだけでなく自国の加害についても語れとむちを打つようなことがどうしてできようか。しかし本資料館は様々な資料を活用しながら、「次世代に伝える」ためのものなのだ。日本人被ばく者とともに、外国人被ばく者の固有の死をすくい上げること。このことが平和記念資料館の重要な論題のひとつとなることを願ってやまない。
そして、資料館の遺品展示における「子供」の多用についても記しておきたい。子供の死はやはりとても痛ましいものだ。しかし、これまでの原爆の語られ方において、「無辜」の子供や母という紋切り型が繰り返し用いられてきたことを忘れるべきではない。原爆による死者のなかには高齢者や男性もいたのだ。来場者の共感を重視する展示設計において、何が取捨されているのかについては慎重に見ていく必要があるだろう。
また、平和記念資料館本館の「亡くなった生徒たち」での多数の被ばくした衣服による展示は、爆心地で閃光を浴びた人は一瞬で蒸発して消えてしまった、という医学的にすでに否定されている人体蒸発説の強化につながるのではないかという懸念もある。展示それ自体の美しさと視覚的なインパクトとともに、科学的に正しい情報の学習につながる動線が望まれる。
ところで、「加害」に関する意見は広島において以前から指摘されていた。非戦・反核を歌い続けた詩人の栗原貞子は、以下のように述べている。
従来の資料館の展示に対して、荒木武・前市長の時代から、平和団体、市民団体などが、アジア侵略の拠点だった軍都広島の被爆前史が欠落した被害のみの展示を改め、加害の歴史を加えることを要求してきた(*7)。
他方で、同様の意見は長崎からも提起されている。1995年から、暴力団幹部の銃弾に倒れるまで12年間長崎市長を務めた伊藤一長は「長崎平和宣言」において「アジア太平洋諸国への侵略と加害の歴史を直視」し、「アジア諸国の人々と共有できる歴史観」を持つことを日本政府に求めた(*8)。
そして、このような「長崎平和宣言」の思想を強く反映するかたちで、96年に長崎原爆資料館では展示内容のリニューアルが行われた。このリニューアルに際して長崎で起きた騒動は、これまではほとんど語られることがなかった。忘れ去られているといっても過言ではない。その出来事は「長崎原爆資料館の加害展示論争」と呼ばれる。
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