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INSIGHT - 2019.7.28

2つの原爆資料館、その「展示」が伝えるもの。小田原のどか評「広島平和記念資料館」

2019年4月、広島平和記念資料館で1955年の開館以来3度目となる展示リニューアルが行われた。「実物資料で表現すること」などを展示方針に掲げたこのリニューアルでは何が変わり、何をもたらしたのか? もうひとつの資料館である長崎原爆資料館における加害展示論争とともに論じ、彫刻家・彫刻史家の小田原のどかが、いまだ見ぬ「国立の戦争博物館」における展示の未来について問う。

文=小田原のどか

平和資料館本館の「ホワイトパノラマ」 提供=広島平和記念資料館

被ばく者なき後に

 2019年4月、広島平和記念資料館の全面改修が完了し、1955年の同館開館以来3度目となる展示リニューアルが行われた。これに際し広島では、2010年から有識者を交えた検討会議が25回開かれ、どのような展示がつくられるべきかの議論が重ねられていた。ここでの主眼は「被ばく体験を次世代にわかりやすく伝えること」にあった(*1)。

 筆者は長崎原爆碑の調査を行う関係で年に数回長崎を訪れるのだが、とくに2015年前後、被ばく70年と80年は明確に異なると幾度も耳にした。これは被ばく証言者の高齢化とともに、「減少」を意味してもいる。平和記念資料館のリニューアルにおいて重視された「次世代」とは、すなわち被ばく者なき後の世代であり、つまるところ同館のリニューアルとは、被ばく者なき後の資料館のあり方を検討することと同義であった。

 平和記念資料館の展示リニューアルは、以下の3つの柱で議論が進められた(*2)。

1. 被ばく者の視点から原爆の悲惨さを表現すること
2. 実物資料で表現すること
3. 一人ひとりの被ばく者や遺族の苦しみや悲しみを伝えること

 「2. 実物資料で表現すること」に注目したい。「実物資料」とは、遺品、被ばく者が自身の体験を描いた絵、当時の写真、証言映像などを指す。しかしここで「実物資料」が強調されるのは、「非・実物資料」が存在しているからにほかならない。非・実物資料とは、リニューアル前の平和資料館を訪れた多くの人に忘れがたいインパクトを与えた3体のプラスチック人形のことである。原爆再現人形と呼ばれるそれらの人形の是非は、「原爆再現人形論争」として、展示リニューアルおける主要な論題のひとつとなっていた。

 発端は2010年7月に策定された「広島平和記念資料館展示整備等基本計画」において、これらの再現人形はジオラマごと撤去の方針が示されたことにさかのぼる。13年に市民に撤去の情報が広まると反対の声があがり、原爆再現人形の是非を問う議論が起こった。

 撤去を決定した広島市の姿勢を要約すれば、科学的根拠に基づかない「人形」ではなく「実物展示」で被ばくの実相を正しく伝えるべきだ、ということになるだろう。いっぽうで撤去反対派は、被ばく再現人形が原爆の恐ろしさを強烈なインパクトをもって伝えてきたという歴史的な役割を再評価すべきだと主張した(*3)。

 かくいう筆者も平和記念資料館を訪れて、原爆再現人形に「インパクト」を受けたひとりである。とはいえそのインパクトとは、どうしてこのような人形がこの場所にあるのだろうという不思議さから生じたものであった。広島と縁遠い場所で生まれ育った筆者にとって、赤い照明に照らされ、ボロボロの衣服をまとった人形たちは、視覚的なインパクトこそあれども、そこから原爆の凄惨さを感じ取ることは難しかった。原爆被害の実相を示すには細部の描写が甘いのではないかという疑問はいまも残っている。

 そのような疑問は、『忘却の記憶 広島』(月曜社、2018)収録の鍋島唯衣による論考「原爆資料館の人形展示を考える」を読むことで腹に落ちることになった。鍋島によれば、広島市が撤去を決めた被ばく再現人形は3代目にあたるそうだ。そもそも、被ばくした衣服を着せたマネキン人形は資料館の開館当初から展示されており、マネキン人形から蝋人形に変わったのが1973年、プラスチック人形に代替わりしたのは91年以降だという。

 73年から展示された蝋人形は、京都の西尾製作所の職人の作で、被ばく者数十人からの聞き取りや文献の検討などもあわせ、原爆の惨禍を伝えるため1年の時間をかけて制作されたものだった。このようにして完成したのが、胸部と両腕の皮膚が垂れ下がり、衣服もほとんどが熱線で失われた学生とおぼしき女性と、帽子によって守られた以外の髪の毛が熱で失われ全身にやけどを負った男児、そして男児の手を引く焼けた衣服と熱で縮れた髪の女性の3人の蝋人形だった。洋画家の福井芳郎が人形の背景画を描き、背景画の手前には荒廃した被ばく直後の市街の様子も再現された。

 蝋人形の完成時、原爆被害者からは否定的な声が相次いだという。その後、90年3月の新聞報道で、原爆被害者が人形をより真実に近いものに変えることを求めたと報じられるも、91年以降に設置されたプラスチック人形は蝋人形よりも凄惨さが抑えられていた。そこには、被ばくのリアルさを追求することによって、来場者がショックを受けてしまうことへの資料館側の配慮があった可能性を鍋島は指摘している。筆者が相対したプラスチックの原爆再現人形は、そのような広島市と原爆被害者とのやりとりと、配慮によって生まれたものだったのだ。

 広島を中心に原爆再現人形についての議論は続いていたが、結局のところ、広島市が撤去の方針を翻すことはなかった。原爆再現人形の撤去は決定路線であったのか、検討会議においてもその是非が議論された形跡はない(*4)。これはじつに残念なことである。鍋島が提起したような原爆再現人形の歴史的価値については一考の価値があったと筆者は考える。

 そして、今回リニューアルされた平和記念資料館は、東館にも本館にも原爆再現人形が置かれることはなく、人形や再現模型的なものも見られない。さらに原爆再現人形と同様に姿を消したものが他にもある。原子爆弾リトルボーイの原寸大模型である。これは上述した3つの柱の「1. 被ばく者の視点から原爆の悲惨さを表現すること」に抵触するために姿を消した。爆心地にいた被ばく者の視点は、リトルボーイをとらえてはいなかった。広島平和記念資料館は、あらゆる意味で「つくりもの/つくられた原爆のイメージ」やそれらの「再現」と手を切ったのだ。

 さて、ここで注目すべきは、平和記念資料館のリニューアルを乃村工藝社と並ぶディスプレイ業界の二大業者である丹青社が手がけたことである。同社は前述した有識者検討会議の第6回から参加し、展示構成の核となるコンセプトデザインを提供してきた。これまでの原爆再現人形論争では丹青社の存在が俎上に載ることはほとんどなかったが、有識者検討会議の議事録から明らかなように、広島平和記念資料館のリニューアルにおける「ストーリー構成」や「コンセプトの視覚化」に関して同社が果たした役割は極めて大きい。後述するような「洗練された」展示手法には、1946年に創業した同社がこれまでに積み重ねてきた展示技法の知見が存分に生かされていると見るべきだ。

 刷新された展示構成は非常に巧みである。全体のテーマは「被ばくの実相」。新たに加わった要素は、「物語」であり、「名前」であるといえるだろう。これは「3. 一人ひとりの被ばく者や遺族の苦しみや悲しみを伝えること」の視覚化である。東館から本館へと至り、また東館に戻るという資料館の順路どおりに見ていこう。2017年、本館に先駆けてリニューアルした東館には、被ばく前の広島の写真が並び、そこにプロジェクションマッピングを活用した「ホワイトパノラマ」が続く。

平和記念資料館本館の「ホワイトパノラマ」 提供=広島平和記念資料館

 ホワイトパノラマは爆心地を中心に、被ばく当時の広島市の直径5キロメートルの範囲が縮尺千分の1で表現されている。これに広島の爆心地を俯瞰でとらえた映像が投影され、日常が一瞬にして廃墟と化した様子を伝えている。そしてこのホワイトパノラマを囲むように、荒廃した爆心地のパノラマ写真が展示される。

 来場者はまず東館を訪れ、通路を歩いて本館に入る。本館では、東館の導入部分で見た壊滅した都市にどのような個別の物語があったのかが示される。本館の展示空間は資料の多さとは裏腹に雑多な印象はまったくない。それは黒い空間に浮かび上がるようにして、展示物がスポットライトで焦点化されているためだろう。

 このようなライティングは、来場者が実物資料やキャプションをより注意深く見ることを支援する。しかしそれは同時に、非常に洗練された「演出」としても見ることができる。暗闇に浮かび上がる無数の原爆被害者の衣服展示に、クリスチャン・ボルタンスキーによるインスタレーションを想起する人は少なくないだろう。空間構成に「写真撮影映え」が意識されていることもうかがえる。

 しかし会場がいくら撮影可であっても、遺品であふれた「厳かな」展示会場で、パシャパシャと不躾に写真を撮る気持ちにはなりにくい。原爆についての議論は、表象不可能性についての議論でもあるが、リニューアル後の本館展示がカメラのシャッターを切ることの「ためらい」をめぐる証言からはじまることは示唆的である。

 ここには、ディディ=ユベルマンの表象不可能性についての議論を踏まえて、彼が書名に冠した「malgré tout それでもなお」という意志が示されているのだろう。このような、写真を撮ること/記録を残すこと/資料館なるものをかたちづくることへの自己言及は、そのままそれらを見る来場者の心理的な障壁を下げる役割を果たしているとも感じた。

 本館の「魂の叫び」と名付けられた展示では、遺品とともに遺影と、亡くなった被ばく者の名前、亡くなった場所が明記され、そして彼らを看取った人の証言や、遺族の悲しみの証言が併記されている。ここでの展示は、原爆によって亡くなった多くの人々の固有名と、その最期の物語の回復が意図されている。印象深かったのが、「定期入れ」とともに記された木島和雄さん(当時15歳)と、和雄さんを看取った警察官の西倉二さんの話だ。

木島和雄さんの定期入れ 撮影=筆者

 崩れた駅舎の梁に片足を挟まれた和雄さんを、西さんは懸命に救助しようとしたが、どうやっても足を引き抜くことができなかった。西さんが「助けられない、許してくれ」と言うと、和雄さんは「ありがとうございました。これを宮島の家の者に渡してください」と自分の定期入れを西さんに渡した。駅舎は炎に包まれる。その後、西さんは定期入れを和雄さんの家族に届け、最期の様子を伝えたという。

 定期入れとともに定期と身分証明書なども展示され、和雄さんの在りし日の生活が手に取るように伝わる。そして同時に、これを渡された西さんの、これを託した和雄さんの、そして和雄さんの最期とともにこの定期入れを受け取った和雄さんの家族の思いを想像した。実物資料の重みを痛感させられた展示だった。このような構成を採用するならば、再現人形の出番はないだろうと考え込んでしまった。

 そして、ここで定期入れという実物資料とともに重要なのは、西さんの存在である。どのように死を看取ったのかという視点は、被ばくから距離のある戦争を知らない筆者のような世代の共感を呼ぶ。もし私が西さんの立場であったらと、実物資料を見ながら息をのんだ。このような構造は非常に強力だ。第三者の視点を介して、原爆による「痛ましい死」への想像力をより身近なものとして喚起させる。

 また、高性能カメラによって撮影された被ばく者が自身の体験を描いた絵の高画質な複製画の存在も大きい。複製画とはいえ、ガラス越しで原画を見るよりもはるかに筆致が追えること、印刷によって色相が際立っていたことは特筆すべきだろう。原画ではおそらく水彩用紙や画用紙が用いられているのだろうが、複製画の印刷紙がスポットライトの強烈な光を受け止め、発光しているかのようだった。これらの絵は、描写や技術に拙い部分があるからこそ目をそらすことができない迫真性をもつが、複製画になることで薄暗い空間との親和性はいっそう高まっているように感じられた。

平和記念資料館東館の被ばく者による絵画 提供=広島平和記念資料館

 そして本館は、「人への被害」「救護所の惨状」「救護活動」などの原爆後の「生」の苦難をとらえた展示が続く。本館の最後は、終戦から7年後に発掘された大量の遺骨と、被ばく翌年に生まれた新しい命を写した写真という、大量死のむごさと命の希望との対比で終わる。東館に戻ると、「広島のあゆみ」「核兵器の危険性」などの原爆投下以前の広島や、世界史のなかに広島を位置づける展示が並ぶ。また、メディアテーブルと名付けられた巨大なタッチパネル式の学習装置があり、幅広い世代の来場者が自らの意志で、関心のある広島原爆に関する事項を調べ、学ぶことができる。

被ばくから7年後に発掘された大量の遺骨 撮影=筆者

 リニューアル後の資料館は、総じて、様々な実物資料を用い、被ばく証言者の戦後の困難と苦悩や、目の前で死を看取ることの痛ましさ、大切な人が二度と帰ってこない悲しみへの共感を通じて、こんなことには耐えられない、戦争は絶対にいやだ、ということが実感を伴って体験できる施設になっていた。丹青社が手がけた本展はその意味で、戦争を知らない世代に「わかりやすく伝える」ことに充分に成功していたといえる。

 それでは、この資料館の展示に不備はないのだろうか。これについては「故郷を離れた地で」と題された展示が鍵となる。この展示は米軍捕虜などの外国人被ばく者についての内容で、今回のリニューアルに併せて初めてつくられたものだ。日本兵として被ばくした韓国人や、南方特別留学生などの外国人の被害も紹介された。

 韓国・朝鮮人被ばく者などのこれまで周縁化されていた人々の展示が設けられたことは画期的だ(*5)。しかしいっぽうで「(資料館本館の展示は)「見せ方」にこだわりすぎて、説明すべきことまで省略されているのではないか。[…]特に朝鮮半島の人たちは『たまたま』広島にいたわけではない」(*6)として、大日本帝国の植民地支配によって故郷を離れることを余儀なくされたという背景が展示からは読み取れないという指摘を無視することはできないだろう。

 東館に国家総動員法についての記述はあるものの、「故郷を離れた地で」の展示は、彼らが広島にいた経緯について多くの記述が割かれているわけではなかった。そのようなかたちで韓国・朝鮮の人々を「痛ましさ」の物語に包み込み、「原爆による死者」として一元化することには筆者も強い違和感を覚える。同記事は「加害責任に触れない本館での展示は、アジア、特に朝鮮半島に暮らす人々には受け入れてもらえないだろう」と続く。

 とはいえ、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた被ばく証言者に、自身の被害についてだけでなく自国の加害についても語れとむちを打つようなことがどうしてできようか。しかし本資料館は様々な資料を活用しながら、「次世代に伝える」ためのものなのだ。日本人被ばく者とともに、外国人被ばく者の固有の死をすくい上げること。このことが平和記念資料館の重要な論題のひとつとなることを願ってやまない。

 そして、資料館の遺品展示における「子供」の多用についても記しておきたい。子供の死はやはりとても痛ましいものだ。しかし、これまでの原爆の語られ方において、「無辜」の子供や母という紋切り型が繰り返し用いられてきたことを忘れるべきではない。原爆による死者のなかには高齢者や男性もいたのだ。来場者の共感を重視する展示設計において、何が取捨されているのかについては慎重に見ていく必要があるだろう。

 また、平和記念資料館本館の「亡くなった生徒たち」での多数の被ばくした衣服による展示は、爆心地で閃光を浴びた人は一瞬で蒸発して消えてしまった、という医学的にすでに否定されている人体蒸発説の強化につながるのではないかという懸念もある。展示それ自体の美しさと視覚的なインパクトとともに、科学的に正しい情報の学習につながる動線が望まれる。

亡くなった生徒たちの衣服 提供=広島平和記念資料館

 ところで、「加害」に関する意見は広島において以前から指摘されていた。非戦・反核を歌い続けた詩人の栗原貞子は、以下のように述べている。

 従来の資料館の展示に対して、荒木武・前市長の時代から、平和団体、市民団体などが、アジア侵略の拠点だった軍都広島の被爆前史が欠落した被害のみの展示を改め、加害の歴史を加えることを要求してきた(*7)。

 他方で、同様の意見は長崎からも提起されている。1995年から、暴力団幹部の銃弾に倒れるまで12年間長崎市長を務めた伊藤一長は「長崎平和宣言」において「アジア太平洋諸国への侵略と加害の歴史を直視」し、「アジア諸国の人々と共有できる歴史観」を持つことを日本政府に求めた(*8)。

 そして、このような「長崎平和宣言」の思想を強く反映するかたちで、96年に長崎原爆資料館では展示内容のリニューアルが行われた。このリニューアルに際して長崎で起きた騒動は、これまではほとんど語られることがなかった。忘れ去られているといっても過言ではない。その出来事は「長崎原爆資料館の加害展示論争」と呼ばれる。

「長崎原爆資料館の加害展示論争」とは何か

 1992年から長崎市は被ばく50周年記念事業として長崎国際文化会館の建て替えに着手した。同館から名称が改められ96年4月に開館した長崎原爆資料館は、開館前から混乱の渦中にあった。鎌田定夫による論考をもとにたどっていこう(*9)。

 92年7月に発足した長崎国際文化会館建替検討委員会では、当時の本島等市長の強い意向を受けて「日本の侵略の歴史を踏まえた展示とする」ことが確認されていた。ここで展示製作を受託したのも丹青社である。監修会議は8回開催されたが、秘密裏に行われ、具体的な展示内容は開館直前まで一切非公開とされた。

 なぜこのような密室での展示決定が行われたのか。その理由を本島は、慰安婦問題や旧日本軍七三一部隊、そして南京事件を扱う展示について「議会に詳細に話したりすれば、まとまるはずがない」からだと述べている(*10)。

 本島は88年に天皇の戦争責任について明言したことで、天皇主義者や右翼団体の脅迫を受け続けた人物だ。90年には右翼団体幹部に銃撃され、全治1ヶ月の重傷を負っている。長崎原爆資料館の展示リニューアルにおける「加害展示」とは、「アジア諸国の人々と共有できる歴史観」を長崎の公的な資料館から発信することを強く望んだ、本島の強固な政治的信念から企画・実現されたものだった。

長崎原爆資料館外観 提供=長崎原爆資料館

 95年に本島からそのような路線を引き継いだ伊藤一長市長も、同様の姿勢で展示実現に向かっていく。96年1月に『朝日新聞』が加害展示の実施を公に報じたが、これ以前から保守派議員や右翼団体による加害展示の取りやめを求める圧力は高まっており、開館直前に「加害写真」の差し替えが決定した。これに対し中国の『人民日報』は「資料館は圧力に屈した」と非難の記事を出す。

 いっぽうで長崎内の華僑からも差し替えに関して不快だという反発が起こる。これを受けて長崎市は再び加害写真を展示することを発表した。このような紆余曲折について地元紙は、「中国側に“配慮” 場当たり的対応 信頼に傷」(西日本新聞)、「理念なき秘密主義の当然の帰結」(長崎新聞)と痛烈な批判を報じた。

 こうした二転三転のなか、96年4月、長崎原爆資料館はオープンした。いったんは落ち着いたかのように見えた加害展示への反発は、4月21日付の『産経新聞』によって急転する。同紙がスクープした、資料館の映像資料に収められた南京事件の写真が中国製作の映画と同一のものだという報道によって、事態は新たな局面を迎える。

 この映画とは、小林正樹監督『東京裁判』(1983)にも使われている、フランク・キャプラ監督『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(1944)である。原爆資料館が史実だとして提示した図像は、この映画から引用されたものだった。問題は、該当のシーンが、セットが組まれて撮影された「再現映像」であり、当時の様子を記録した映像ではなかったということにある。

 公的な記憶を扱う資料館において、歴史記述の根拠をつくりものの映画から引いてしまったことは、あらゆる意味で論外である。本展示は丹青社が製作したことを先ほど述べたが、しかしここでの過失を同社のみに帰すことはできない。なぜなら丹青社は、複写元の映像資料を米国国立公文書館から公的資料扱いで入手していたからだ(*11)。となれば問題の根幹は、有識者が数名しかいない密室で展示内容が決定されたことにある。

 いずれにせよ、こうして加害展示は全国的に知られることになった。その結果、中部以西の右翼団体が長崎に集結し、約80台の街宣車がひしめいて「侵略・加害展示を撤去せよ」と怒号を発し、800人の警官隊が出動する事態に発展する。長崎市は即時展示を取りやめるといったかたちでこれらの圧力に屈することはなく、運営協議会での審議を待ち、それまでは展示を続ける意向を示した。

 96年7月までに3回にわたって開かれた協議会では、議論の紛糾が相次ぎながらも、問題の映像の図像が反日宣伝のための映画からの引用であったことが認められ、176のシーンが削除されて101シーンが追加された。適切な資料への差し替えと説明文の修正は40ヶ所に及んだ。加害展示そのものの撤去要請が繰り返されるなか、協議会に参加した被ばく者団体や教育関係、学識経験者らがこれに同調することはなかった。

 こうして96年8月を迎え、リニューアルした原爆資料館には多くの来場者が訪れた。いっぽうで、繁華街では展示のさらなる是正を求め、日の丸会(日本会議長崎)を中心に組織された「原爆展示をただす市民の会」による署名運動が行われ、500人が参加した決起集会も催された。収束が難しいように思えた長崎原爆資料館の加害展示論争だが、最終的にはある種の「奇跡的な着地」を見せる。どういうことか。

 同年11月に開かれた第4回運営協議会では、「原爆展示をただす市民の会」が提出した要望書が紹介されたが、そこにはこれまで数回にわたって要求された加害展示の撤去はなく、「より良い原爆展示の実現を強く求める」として、広島・長崎への原爆投下を正当化する理論を克服する展示の充実などを盛り込んだ具体的な改善提案が挙げられた。ここでの要求は資料館の充実につながるものであるとして、協議会からは異議が出ることはなかった。

 鎌田は「この1年間、私たちは『加害』展示という問題でこそ意見が対立したが、『核廃絶をめざす原爆資料館を』という点では基本的に一致した」と、もしこの議論があらかじめ開かれていれば、「たとえ戦争観や歴史的認識の点で相互の溝がまだ埋まらないとしても、ともに核兵器廃絶をねがう被ばく地長崎の市民として、一致点で共同できる可能性」があったと述べている(*12)。

 前述した本島等の境遇に鑑みれば、加害展示についての議論を公に行うことで生死に関わる危険があったことは想像に難くない。しかし、鎌田も指摘するように、やはり公的な資料館であるからには、専門家や市民を巻き込んで議論を開いていくべきだったのだ。そこでこそ、対立点と一致点のすりあわせが生産的に行えたはずだ。

 古色蒼然たる皇国史観や大東亜戦争肯定論者であっても、日米安保条約や外国軍基地撤去を要求するという面では対話や共同調査の未来があるのではないかという鎌田の主張は、左右の対立がいっそう深まった現在においては隔世の感がある。しかしそれでも、忘れてはならない内容を多く含んでいる。

 とはいえ、長崎原爆資料館の加害展示論争が起きたのは96年だ。現在と決定的に異なるのは、インターネットの普及と、ソーシャルネットワーキングサービスの台頭である。昨年、ヤノベケンジ《サン・チャイルド》が撤去に至った背景には、人々の激しい感情を増幅させる装置としてのTwitterの影響力があったことは疑いようがない。津田大介が名付けたところの「情の時代」を私たちは生きている。今後もし同様の騒動が起きたとき、96年の長崎と同じような着地に至ることはとても難しいと思われる。

 そして残念なことに、長崎では加害展示論争の反省が生かされず、次なる問題が起こっている。伊藤市長在任中に設置された、長崎にとって北村西望《平和祈念像》に続くふたつ目の大型彫刻《母子像》だ。この彫刻は96年に被ばく50周年記念事業として公の審議を経ずトップダウンで設置が決まり、その結果、撤去を求める大きな反対運動が生じた。これも長崎原爆資料館の加害論争と同様、密室主義によって引き起されている(*13)。

 ここから痛感するのは、展示やモニュメントの造形に関する決定をトップダウンや秘密主義に陥らせないことの重要性である。そしてもうひとつ、長崎の爆心地には原爆被害の議論を開いていくための大きな手がかりがある。それは浦上刑務所の中国人・朝鮮人犠牲者だと鎌田はいう。

彼らは日本軍国主義と米原爆帝国主義の二重の被害者で、いまなお何らの補償もされず、いまだに原爆使用の正当化、核抑止神話がまかり通り、日本政府もこれに追従し続けている。浦上刑務所には、かつて日本人の政治犯・反戦運動家たちも投獄されていた。[…]第二次大戦末期、長崎は侵略戦争遂行のための兵站基地、軍需産業都市であり、この街全体が核攻撃を受け、核被爆都市となった。こうして、長崎の被爆構造と戦争構造は重なり合う。加害と被害は、いわば「複合化」あるいは「重層化」され、単純な図式化は許されない。構造的暴力の支配下では、敵味方に関係なく、被差別者・被害者が加害者となることを強いられ、もう一度被害者にもなりうるのである。(*14)

 ここで言及されている浦上刑務所は、現在の平和公園に存在した。原子爆弾投下時、爆心地に最も近い公共施設であった長崎刑務所浦上刑務支所の建物と周囲を取り囲んでいた塀は一瞬にして崩壊し、職員18人、官舎住居者35人、受刑者および被告人81人──そのなかには中国人が32人、朝鮮人が13人いた──の134人は全員死亡した。

 92年に平和公園の地下駐車場建設工事が行われた際に、この浦上刑務所の基礎部分や死刑場の遺構が発見された。保存を求める運動が起きるが、刑務所の遺構は一部分のみを残して埋め戻されてしまう。そして現在、遺構を内包する平和公園の表層には、平和という名の無数の具象彫刻が、まるで刑務所の記憶に蓋をするように据えられている。

 広島市平和記念資料館前館長の志賀賢治は「被爆者がいなくなると、主役は資料です」(*15)と述べ、実物資料の重要性とともに資料館が被ばくと無縁の人々によって運営される未来を見据えることの必要を説いた。いっぽうで、長崎の爆心地に被ばく者なき後に資料とともに残るのは、大量の彫刻だ。彫刻に関わる者として、私はそれが意味することを、とても重く受け止めている。

 「長崎の証言の会」設立者でもあり、長崎の反核平和運動の理論的支柱となった鎌田定夫ももういない。けれども、彼が書いたものを私たちは何度でも読むことができる。鎌田が残した加害展示論争の記録をいまこそひもとき、この問題が中央や美術関係者のあいだでほとんど話題にならなかった理由について、その語りにくさとはなんだったのかを考えるべき時がきている。

 なぜなら、私たちは準備をする必要があるからだ。それはこの国にはいまだ存在しない国立の戦争博物館がつくられる未来のための準備である。この博物館における「公的記憶」とは、そこでの「展示」がどのようなものか、そしてどのような「モニュメント・彫刻」が置かれるかということと直接的に関わるからこそ、過去の二の舞いはあってはならない。

 本稿で見てきた、広島市平和記念資料館のリニューアル展示における共感の構造や、長崎原爆資料館の「加害展示」における「対立」と「一致」からは、この未来のための様々な教訓が得られるはずだ。過去の過ちに蓋をするのではなく、そこから教訓を取り出し、繰り返さないこと。それはきっと、難しいことではない。

 

*1──『朝日新聞』2019年3月27日付。
*2──同上。
*3──鍋島唯衣「原爆資料館の人形展示を考える」(『忘却の記憶 広島』月曜社、2018年)。以下、原爆再現人形の記述は本稿を根拠とする。
*4──「広島平和記念資料館展示検討会議 会議要旨 全25回
*5──広島の記憶がどのようなナラティブに拘束されているかについては以下を参照。米山リサ『広島 記憶のポリティクス』岩波書店、2005年。
*6──『朝日新聞』2019年5月29日付。
*7──栗原貞子「広島平和記念資料館」(『世界の平和博物館』西田勝・平和研究室編、日本図書センター、1995年)。
*8──「1995年 長崎平和宣言」。「スミソニアン原爆展論争」を受けて発された。
*9──「原爆資料館で何を学ぶか 長崎原爆資料館の加害展示論争から」(『歴史地理教育』、歴史教育者協議会編、1997年)、「長崎原爆資料館の加害展示論争 侵略加害と原爆被害をめぐって」(『歴史地理教育』、歴史教育者協議会編、1996年)、「長崎原爆資料館の加害展示問題」(『戦争責任研究』14号、日本の戦争責任資料センター、1996年)。いずれも著者は鎌田定夫。
*10──『週刊新潮』1996年3月号。
*11──裁判所判例より。
*12──鎌田「原爆資料館で何を学ぶか」。
*13──日本におけるトップダウン/秘密主義による巨大彫刻設置と拒絶は、長崎から福島へと直接的に接続される。以下を参照。小田原のどか「拒絶から公共彫刻への問いをひらく:ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって」
*14──鎌田定夫「原爆資料館で何を学ぶか」。
*15──『朝日新聞』2019年3月27日付。