櫛野展正連載22:アウトサイドの隣人たち 老いの境地

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載の第22回は、宮崎県小林市で独自の手法を用いた立体作品をつくり続ける大久保伊豆喜を紹介する。

文=櫛野展正

大久保伊豆喜が制作した作品群
前へ
次へ

 宮崎県小林市の野尻湖湖畔にある「のじりこぴあ」。マスコットキャラクターの「Uターンカエル」が200匹以上点在する園内は、バラ園や遊園地、レストランからに民族資料館まである複合レジャー施設として人気を博している。

 そんな観光地から車を少し走らせた場所に、これまでほとんど世間に知られることのなかった表現者がひっそりと暮らしている。それが、今年90歳を迎える大久保伊豆喜(おおくぼ・いずき)さんだ。長閑な山道の曲がり角を抜けると、民家に展示されたおびただしいほどのコンクリート製のオブジェに遭遇する。動植物や人間などあらゆるものがモチーフにされ、ピンや珍しいかたちの木など様々な素材も多用されている。コンクリート製の鹿には本物の鹿の角が埋め込んであったり、植木鉢で人形が表現されていたりと見どころ満載の空間だ。経年変化でその多くが色褪せてはいるものの、圧倒的物量となって目の前に迫ってくる。これが、すべて大久保さんの作品だ。

家の前に並べられた作品群

 「つくりもんをしないとボケますから、つくりもんすると考えるでしょ」。そう言いながら坂をゆっくりと後ろ向きに降りて、僕の前にやってきた大久保さんは、1929年に宮崎県小林市野尻で9人兄弟の五男として生まれた。次第に戦争の足音が近づいてくると、14歳で海軍飛行予科練習生に志願。「年が若かったから良かったんですけど、戦争が長引けば特攻隊で戦地へ行ってたかもしれません。本土決戦に備えて日本の飛行機を隠すことが仕事でしたね。敵の弾を防ぐためにコンクリートで『トーチカ』を飛行場の周囲にたくさんつくりました」と当時を振り返る。奈良で終戦を迎えた大久保さんだが、戦後はインフレで物価が高騰し、「退職金1500円で田んぼが3反歩(900坪)買えるはずだったんですが、ズボン1枚になりましたよ」と大変な状況だったようだ。

大久保伊豆喜

 宮崎に帰郷後は、20歳で結婚し「自分で食うことをしなくちゃいかんから」と山を開拓して芋や米をつくり始めた。農閑期には大阪など各地で出稼ぎの仕事を続けていたが、30代のときに「出稼ぎに行くだけじゃダメだ。『起業』と名が付く仕事をしなきゃ」と一念発起し、野尻で初めてブロイラー(肉鶏の一品種)飼育の仕事を開始した。広い敷地内には、現在でもブロイラー飼育の器具が点在しており、その名残がうかがえる。とくに地下につくった鶏舎は話題を呼び、少ない肥料で成長が促進できため、全国から多くの人が視察に訪れたそうだ。何千万円の借り入れをして器具を設置しても、すぐに返済できるほどよく儲かった。金銭的にも余裕ができたため、日本国内をはじ始めアメリカ、カナダ、イギリス、ドイツなど諸外国にも頻繁に旅行へ出かけたそうだ。その後も経営は右肩上がりで飼育場も数ヶ所に拡大し、農業者年金をもらうため60歳を機にすべて息子たちに経営を任せた。それから、「暇つぶしに何か趣味を持たにゃあいかん」と始めたのが、現在の創作活動というわけだ。

 最初は、画用紙や瓢箪に絵を描くことから始めた。とくに瓢箪は、種をもらうため宮崎県にあった「ひょうたん会」に入会して栽培したほどだ。もう種がないため瓢箪の制作はしていないものの、蛇やペンギンなど瓢箪のかたちを様々なものに見立てた表現は、どれもユニークだ。それまで本格的に絵など描いたことのなかった大久保さんだったが、本を手本に独学で習得。案内された部屋には大久保さんが描いた水墨画をはじめ、尺八の免許状まで飾られていて、3年間弟子について准師範の免許を取得し「大久保帝苑」という竹号まで授かった。

自宅の中では多数の瓢箪を見ることができる

 その後、大掛かりなコンクリートを使ったオブジェの制作に着手。置き場所がないため、外に置くようになり、20年ほどでこれだけの数になった。すべて道路側に向けて作品が並べられていることから、少なくとも他者の目を意識していることは容易に想像できたが、「近所の人は馬鹿なことをしようるなぁという人もいますね。でも、誰かに見てほしいからやってるわけじゃなく、自分で見るためです。できあがると嬉しいじゃないですか」と敷地内の作業場で今日も制作に没頭する日々だ。

展示された作品群

 ワイヤーで骨組みをつくり、できるだけ軽くするため、中にスポンジを埋め込んでいく。ある程度下地ができるとコンクリートを流し込んで、固まるのを待ってからペンキで塗装していくという工程も自分で考案した。大きさにもよるが、1体つくるのに1週間はかかるという。これまでどこかで発表したことや販売した経験もない。「家族は私が仕事で口を出すとうるさいもんですから、こういうもんをつくってくれてるほうがいいんじゃないですか」と笑う。

作品は大久保独自の手法でつくられている

 インタビューの中で、「いつから制作を始めた」とか「どんな思いでつくった」等の質問に大久保さんは「わかりませんね」としか答えてはくれない。改めて考えてみると、当事者にとっては、すべ全てが通過点であり、そんなことどうだって良いのだ。「私が死んだら、ここにあるのは子供たちが一ヶ所にまとめて埋めてくれるんじゃないですか」と自らの作品に対しても身を委ねている有様だ。長年介護をしていた妻は16年ほど前に他界し、現在は独居生活を送る大久保さんだが、「孤高」であることがますます制作を後押ししている気がしてならない。

家の前に展示された作品の一部

 縁起物としてコンスタントに制作している「鶴」のほかに、「私の運命をつかさどる」「ワタシノミライワカラナイコレカラタノシクくラシマス」(※原文ママ)と、まるで神に運命を委ねるかのような文言が刻まれた作品もある。つくり続けることが宿命であるかのように、大久保さんはただひたすら制作に向かうのだけなのだ。その達観した姿には、崇高ささえ感じてしまう。まるでストッパーが外れたかのように過剰に生産し続けられる作品群は、齢90を迎える老人の表現とは到底思えない。「老いる」ことも、まだまだ捨てたもんじゃないな。大久保さんの後ろ姿から、そんなことを感じてしまう。

「ワタシノミライワカラナイコレカラタノシクくラシマス」と刻まれた作品