公益財団法人京都服飾文化研究財団(以下、KCI)は主に18世紀から現在の西洋衣装の収集と保存、ならびにその作品と資料による研究と公開を通して、私たちの生活におけるファッションの存在に理解を深め、人間の創造する文化に広く寄与することを目的として1978年に設立された組織であり、約5年に1度、京都国立近代美術館とファッション展を共催している。この度の「LOVEファッション―私を着がえるとき」展はその9回目となる展覧会であり、ひとつの完結した展覧会である。けれども、同時に、これは2019年に企画・巡回した「ドレス・コード?──着る人たちのゲーム」展の続編でもある。近年ではデザイナーやブランドを中心とするファッション展が数多く開催されているが、この2つのファッション展はそれらとは大きく主旨を異にしている。また、必ずしも明示したわけではないが、展覧会そのものがシリーズとなっていることは数少ないようにも思う。そこでここでは前回と今回の、2つの展覧会のコンセプトをめぐる相違と共通性について記しておきたいと思う。
「ドレス・コード?──着る人たちのゲーム」と「LOVEファッション―私を着がえるとき」。まず、前者では「視る/視られる」という自己と他者との関係性のなかで、ファッションがある種のゲームにも似た相互行為のうちにあることを問うた展覧会であった。すなわち、ファッションとは他者の存在や視線がある限りにおいて、この世に生まれたときから否応なしに参加を強いられる、決して終わることのないゲームであると。なかでも、そこでは学生服やスーツなどのユニホームをはじめとする、様々な服に付与されている型をめぐる自由/不自由の「ステレオタイプ」と、それらがデニムやロゴのように脱文脈化ないしフラット化するなかで、私たちが服を日々選択することにまつわる自由/不自由の「脱ステレオタイプ」、そして、一周回ってそれでもなお服を着ることを楽しむことから生まれ、やがてはひとつの型となって消費されていく「原ステレオタイプ」、という円環する3つの理念型を析出した。
いっぽう、「LOVEファッション―私を着がえるとき」展は前者とは異なり、人間の内なる欲望をめぐる自己自身との関係性について思考した展覧会であった。そこでは花や毛皮といったモノに惹かれ、人工的に似せたモノにまで誘惑される私がいること。もっとも身近で私自身のカラダであるにもかかわらず、あるいは、であるからこそ私にとって疎遠なカラダとなってあらわれ、きれいになりたいと願いながらも、ありのままでいたいとも願うジレンマを抱えた私がいること。そして、私には自らをとりまく社会的な属性や状況から解放された自由なワタシだけではなく、私という存在の思いがけない歓びにみちた、まだ見ぬワタシへの開かれた出会いがありうること。すなわち、「モノの誘惑」と「カラダの葛藤」「ワタシの恍惚」という、私というひとりの人間をめぐる3つの、いずれも明確には言い難い不分明な問題について展開している。
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