「正しさ」を巡る騒動
卯城竜太 いよいよ最終回だね。ポリコレだ検閲だキュレーションだと、「個」と「公」のギクシャクした関係についてずーっと話してきたけど、連載中にもいろいろあったね。会田(誠)さんの授業で京都造形芸術大学が訴えられたり、津田(大介)さんのジェンダー平等が「お情け」キュレーションと揶揄されたり、DOMMUNEの電気グルーヴ特集がワイドショーにディスられたり。「エクストリームな個」と「正しさ」の軋轢が、大学や芸術祭やテレビって「公」を舞台にアクシデントとなって続出した。たった3ヶ月の間にそんなにだよ。
松田修 もう3ヶ月前とは別世界だね(笑)。前回も触れたけど、電気グルーヴの件で言えば、(石野)卓球が何者にも左右されない生き方を貫けててウケた。同時に、そんな卓球に「正しさ」を押し付けようとする社会の病理のようなものもあらためて感じたが。卓球のように国際的にもフォロワーがいて、日本や芸能界ってひとつの「公」に縛られる必要がないエクストリームな個は、アーティストとして理想とも言えるね。
卯城 艾未未(アイ・ウェイウェイ)にも同じこと言えるかも。中国で弾圧されても、アートシーンや欧米っていう「公」を複数持ってたから、小林多喜二みたく殉職せずに圧力をかわせた。
松田 その当時もだけど、いまの圧力は、上からの検閲だけじゃなく市民ら下からの監視も強いからね。京都造形大の騒動以前の会田さんで言ったら、東京都現代美術館での会田家の「檄文」の撤去要請問題はもろに上からって感じだけど、森美術館での個展の《犬》に対するクレームの場合は、アクティビスト、つまりボトムからの声だったでしょ。上下から会田さんに圧力がきてる(笑)。
卯城 Chim↑Pomの炎上案件もほんとそれ。でも、「下から」は日本ではまだまだじゃない? メトロポリタン美術館でのバルテュス撤去問題や、グッゲンハイム美術館で虫の展示がなくなった騒動なんかを考えると、アメリカのポリコレは公のポリシーにまで影響を与えてるよ。
松田 過去に芸術と絶賛されていたものが、後世に封印されることは今後も増えるだろうね。今後は、女性蔑視描写のある三国志演義もアウト。少女ヌード写真の収集や撮影を趣味にしていたルイス・キャロルもアウト。ゴヤの《我が子を食らうサトゥルヌス》も幼児虐待を想起させるからアウト。父親に娘が母乳を飲ませるルーベンスの《ローマの慈愛》も、キモいからアウト(笑)。
卯城 キモいからって(笑)。
松田 けどまぁ、社会でポリコレが盛んになるのはわかる。差別をなくそうって態度には共感するし。医大入試の女性の足切り問題や、杉田水脈のLGBTQについての発言への反発は、どう考えても必要。でも同時に、『新潮45』の消滅とか、ヤノベ(ケンジ)さんの《サン・チャイルド》の撤去とか、反発がソッコーの撤退を招き、出版や表現の自由は形骸化してる。社会に正しさを求めるのと、表現に正しさを求めることが、ごっちゃになってることが問題な気がするよ。
卯城 だよね。でも、エリイがこないだトークイベントで、「表現しづらくはなってるけど、そういうムーブメントは嫌いじゃない。なぜならそれによって私の考えも更新できるから」って言っててハッとした。確かにな、って思ったよ。それに、「個」がそれぞれみんな声を持った先に「公」があるっていう、闇市やアンデパンダン型の「公」についてウチらは散々話してきたけど、ある意味、ポリコレってその構造の一部じゃね? ていうか、そういう「雑多な個からなる公」って意味に限って言うと、僕にとってはネトウヨだって社会の一部(笑)。
松田 優しい(笑)。でも、一部ならまだしも、全体に正しさが満ち満ちて、全員が出家してありがたいお説教をかまし合うような世界はいやだなぁ。そもそも僕は「正しさ」を論じるに値しない育ちのカスだから、肩身が狭いよ。近所のアル中歯抜けがシリコンオッパイの見分け方を教えてくれるくらいが僕にはちょうどいい。僕も歯抜けだし(笑)。
卯城 正しさとか悪とかってより、育ちが悪すぎるわ(笑)。まあでも、ウチらアーティストはそうやって「個」のレペゼンとして、「正しさ」とかに一般的な答えを出さなくてもいいじゃん。けど、ポリコレは「個」ではなく「みんな」を代弁するからね。お互い論点がズレがちなのもしょうがなく思える。
松田 問題なのは、それぞれがそれぞれの「正論」で、公共に必要ないと思うものを排除しようとすることだよね。それって思想の違いはあっても、第7回で話した戦中の田代二見に近くなってない?
卯城 ネトウヨもね。議論できるうちは良いけど、原理主義になると他者との折り合いが付きづらくなる。相手が「敵」として仮定されちゃうというか。
松田 その「みんなにとっての敵」意識を他者へ持ちだすと、「自らの正義感」から敵に私刑を行う意識も超持てるでしょ。いまは法律上「私刑」は禁止されてるけど、ネットを使えば昔で言う「市中引き回しの刑」のようなのもヨユーでできるし、死んだ後も「晒し首」に近いことができる。
卯城 「パブリックエネミー(公共の敵)」が権力に対する「個」のカリスマだったような、「個と公」の二項対立の時代は過去ってことね。いまは立場とエネミー(敵)が乱立し、まずは批判が先に立つから共存をゆっくり探る余裕がない。その「明確なポジションに基づく」連帯意識って、第4回で話した「クラスタ」問題にも近い。そう考えると、こんだけ個人のクレームが美術館や国際展って「公」には影響を持てるようになったのに、公権力はどんどん一部の人たちだけが望むようなかたちで「個化」してるのが皮肉だね。杉田水脈の発言で雑誌はソッコー潰れたけど、自民党や政権は潰れにくい。
松田 ボトム同士が揉めてるだけだもの。そりゃ公権力はガンガン個化するよ。いち議員が暴言でマイノリティをいくら傷つけても、党内の評価が高けりゃ比例当選するし。
卯城 てかさ、政治に民主主義がない状況なのに、社会には民主主義がありすぎでしょ。公権力は放置で社会の一部が過激化して炎上しあってるなんて。そんな「民主主義暴力団の仁義なき戦い」みたいなボトムでの抗争(笑)。まあ、その結果社会の意識も変わって、LGBT法案みたく政治案件化する例もあるから、必要な抗争なのかもだけど。
でも、右組、左組、アート組やフェミニスト組やLGBT組、表現の自由組やオタク組......って、本当は権力に対峙すべきマイノリティ同士が、いまは原理主義化してお互いの「自由の敵」になりあってるってのは、ムズい状況だなーと思う。その昔、寺山修司が「自由の敵に自由を許すな」って路上に書いたでしょ。当時は反権力のスローガンにも見えてたけど、いまとなれば、そんなのマジでお気楽じゃない? だって、いまガチでそう言うなら、発言する市民全員に自由を許すなってことになっちゃうじゃん。
松田 そんななか、どの組にも属せない僕らみたいな「カス」は、メインストリームからも消えてって、どうすりゃいいの。
卯城 「カス」は結局ポリコレからも公権力からも必要とされないから、排除だね! 全組の親分から門前払いだよ。それこそ連載第2回で話した、公園から消されそうな松田やおかやん(岡田将孝)案件(笑)。
松田 票にならない取るに足らない存在だから公権力も無視していいし(笑)。でも「把握不可能なカス」を排除しようとしたり、露悪的に見える作品を短絡的に悪と判断したりって、社会の「ネオテニー化」もほどほどにって思わない? ガチのヤクザや悪人は、なんなら「普通の姿」をして社会に紛れてたりするでしょ(笑)。とくに即効性だけで測れないアートは、一喜一憂せずに議論するものであってほしいけどな。
自由と民主主義は両立しない?
卯城 こないだ後輩アーティストの涌井(智仁)に聞いたんだけど、興味深いムーブメントがあるんだよ。「インテレクチュアル・ダークウェブ」(IDW)っていうんだけど。
科学者って科学的根拠で話をしたいでしょ。けど、いまはそれを無邪気にはできない状況じゃん。例えば性別や人種別の身体の差異からなんらかの優劣を語るなんて、炎上要素が満載でしょ。そんな状況にうんざりな科学者たちが、アカデミーから抜け出して、ウェブをベースに知的ネットワークを組織化したのよ。
「ダークウェブ」って、誰もがアクセス可能な「表層ウェブ」と、検索エンジンにかからない「ディープウェブ」からさらに潜った、特殊な手段でのみリーチ可能なウェブの領域。IDW自体は表層ウェブに存在してるんだけど、「ダークウェブ」を名乗ることで、「表層」の息苦しさをディスり、「新たな領域と自由」を必要としている自らを「ダーク」とアイデンティファイしてるのよ。この動向は去年、『ニューヨークタイムズ』で紹介されたんだけど、それをレポートしてる木澤佐登志さん(ブロガー、文筆家)によるキャッチフレーズも興味深い。「『右』でも『左』でもない、『ダーク』な思想の台頭」っていう。
実際にはアンチ・ポリコレであって、「ダーク」思想のなりたちからしても、オルタナ右翼やヘイトとの親和性が高く、再炎上してんだけど(笑)。でも、なんでその話をするかっていうと、なんかこれって、アーティストにこそ出てきそうな動きじゃない?
松田 不自由になってきたメインストリームのオルタナティブとしてってこと? 変化するモラルや空気に流されることなく、表現や科学を研究したいって気持ちは超わかるよ。オルタナティブと言えば、僕が影響を受けたポール・マッカーシーやマイク・ケリーら西海岸アートも、そう感じられたし。
卯城 パンピー化して、相互監視的に「公共化」した表層ウェブは、もうマニアのための自由な空間じゃないじゃん。「ダークウェブ」はそこから自由を求めて「出ていく」思想でもあるだけど、それ以前に、そもそもインターネットの思想自体、松田くんが言うカリフォルニアのオルタナやヒッピーカルチャーがルーツでしょ。
松田 そうそう、自由を求めて国家と闘うのではなく、メインストリームから「出ていく」思想。インターネットの自由を宣言した「サイバーパンク宣言」(1996年)のジョン・ペリー・バーロウは、西海岸のバンド、グレイトフル・デッドの作詞家だよ。
「出ていく」ってことでいうと、昔のアートはメインストリームとしての官展や美術館から離れて、路上に出たでしょ。ハイレッド・センターもマヴォもフルクサスも。
卯城 うん。だけど、いまも路上が自由を求めて「出ていく」先かって言ったら疑問だな。べつに昔も原則的には道は自由ではなかったけど、「公共の意識」から道に異物が存在することは許容されていた。第1回のマジョリティ論そのものだけど、いろんな人がいる前提だった公共の自由は日本にもうないでしょって話。だからみんなクラスタに潜る。
松田 そういう意味でクラスタ化は、起きるべくして起きてるもんね。しかし長期で考えるとセクト化する傾向にある。
卯城 ヒッピー文化もそれで一般に影響を持ちきれず、廃れたわけだし。
松田 クラスタでないなら、じゃあ、いまはどこに「出て行く」べきなのか。
卯城 クラスタや公共でもない、新しいネットワークなんじゃない? 昔の音楽でいうと、メジャーへのカウンターでたくさんインディーズレーベルができたでしょ。これはたぶんクラスタ。で、それらバラバラなレーベルやイベントが個として無造作に生まれた結果、アンダーグラウンドって「シーン」ができた。それが影響を持った結果、メインストリームも変わらざるを得なくなった、みたいな? IDWもそんなイメージなのかもね。
松田 そうなると、むしろ「公共なんてもう2軍、ダークこそ1軍」ってセンスも生まれそうだね(笑)。
卯城 そうそう。そういう「別世界」をつくる意識だよ。
IDWを知ったきっかけは、ポスト・インターネットを牽引したニューヨークのアートコレクティブ「DIS」なんだけど、DISの映像コンテンツのひとつに、PayPalの創業者ピーターティールらテック業界が立ち上げた、「THE SEASTEADERS(シーステッド)」があったんだよね。それをIDWと関連づけて涌井が教えてくれて。これ、既存の国のシステムから独立した海上都市、まさに「別世界」づくりの構想で、都市計画のLinux版だとか、都市型バーニングマンとか言われてる。
左も右も含んでいまアメリカに台頭しつつあるリバタリアン(自由至上主義者)たちの実践なんだけど、ピーター・ティールはその右派らしく、「自由と民主主義は両立しない」て名言を残してるんだよね。まさにポリコレとのギャップの話。
松田 ピーター・ティールって言ったら、思想的根幹に「暗黒啓蒙」(ニック・ランド&カーティス・ヤーヴィン)があるって言われてるでしょ。これを垣間見ると、超絶エクストリームでオモローなんだけど、たしかに民主主義も平等主義も近代的な価値観は全否定(笑)。オルタナ右翼の源流にもなってて超排他的なんだよね。これは非道い(笑)。
けどさ、ダークそのものの魅力は理解できる。「暗黒」でしょ。
卯城 暗黒か。いいね(笑)。
松田 いまgoo国語辞典で「暗黒」の意味を検索してみたんだけど......光が当たらないとか悪事がはびこるとか、そんな意味のほかに、「未知であること。たしかに存在するが、その正体が直接明らかになっていないこと」ってある! そういえば、そういう意味で「暗黒大陸」とか「ダークマター」とか言ったりするしね。つまり「ダーク」は、光の当たる世界に対するオルタナティブってだけじゃなく、「未知を含めたこの世界」すべてを測る概念なのかも。ダーク、可能性の塊じゃね!
ダークアンデパンダンってよくね?
卯城 ここで、「アンデパンダン型の公」がいまも可能か?って観点で、アンデパンダン展の現在から、ティールの「自由と民主主義は両立し得るか?」て問いをもう一度考えてみたい。というのも、アンパンってまさに民主主義がテーマじゃん。参加は無審査で、だいたい前日持ち寄りの展示でしょ。キュレーションもないから平等に展示される。
なのに、この前開催されていた「東京インディペンデント」展なんかで実際に展示をみると、「個のエクストリーム」が並んでいたとされる「読売アンデパンダン展」みたいにはならずに、どの作品が誰のだかわからないような、それこそ代替可能な群(むれ)を可視化する展示になってるのよ。硫酸使っちゃう(赤瀬川原平《ヴァギナのスーツ》)みたいなヤバい出品作はありえない。主催者の気持ちは立派で、みんな違ってみんなよしってモットーは達成されてても、それぞれの「個」は、「花屋の店先に並んだ」花みたく、アンパンって枠組みに回収されちゃう。「つまらない民主主義」を見せられてるような感じで、そこに本質的な「自由」の実験なんて見当たらないわけよ。
松田 一般に開かれてるからね。作家も炎上を避けざるを得ないから、「表現の自由」のレベルはギャラリーや美術館とそんなに変わらないしね。
卯城 つまりこれって、アンデパンダン展のアイデアがつくられた19世紀末の民主主義を含めた近代社会の価値観が、(内容はともかく)スローガンとしてはもはや効力を持たなくなってきてることの証なんじゃないかな。
松田 そうかもしれない。黒曜会も理想展も読売アンデパンダン展も、大衆が民主主義に夢を見たり、花開いたりしてる最中だったから、それを可視化したり挑戦することに盛り上がれた。だけど、いまはそれが当たり前になって古くもなって、いっぽうで観客の民主主義の意識はエスカレートしてる。Twitterなんかでもそういうことは可視化されてるしね。
卯城 うん。でも、じゃあ民主主義全否定がウチらの代替案かというと、そんなわけなくない? 暗黒啓蒙に影響された反動主義者みたいに、トランプを世界のCEOにすべきだなんて1ミリも思えないもん(笑)。
でさ、ふと思ったんだけど、「ダーク」と「アンデパンダン」ってふたつを組み合わせたらどうなるかな? なんだろ、つまり、「ダーク」的に考える「自由」と、「アンパン」的な「民主主義」っていまは両立しにくくなったコンセプトを令和時代的に掛け合わせた、「ダークアンデパンダン展」(笑)。
松田 ウケる(笑)。つまり、「アンデパンダン」としてはアーティストの出品は無審査でオープンだけど......「ダーク」的に、誰もが辿りつけるわけじゃない別の世界を作る感じで自由を担保するってことだから......逆に観客が審査されたりするってこと?(笑)。けど、なんかクラスタ的な感じがしない?
卯城 うーん、けどアーティストは誰でも参加可能なんだよ。そんなオープンなクラスタなくない?(笑)。ただ、観客を審査ってなるとたしかにクローズド度強めだから、何かもっとオープンな手法で観客をある程度限定できないかな?(笑)。そうしてつくった一般向けじゃないステージで、暗黒的に「光が当たってない」......つまり表層では絶対見せられない作品にフォーカスする!
松田 いま足りてない「自由」や「未知」を「ダーク」で確保する感じか。エグさを隠す表層領域だけじゃ、もはや世界は測れないし。
ていうか、たしかに観客を「審査」っていうとなんかブラックボックス展みたいになっちゃうね。なら、それより、いっそ観客を「キュレーション」するみたいな感じじゃない? 「審査」と「キュレーション」って違うでしょ。同じセレクトって過程があっても、審査で成り立つ公募展とオファーで成り立つキュレーション展は違うし。それに僕らずっとキュレーションとアーティストの関係についても話してきたよね。その関係を観客に転化させる。
卯城 なるほど。キュレーションとなると、主催者側にとって安心なラインナップを揃えるだけじゃダメだしね。友だち同士だけでキュレーションしあってる展覧会ってなんか閉じてるじゃん。一般に向けててもクラスタ内に見える。良いキュレーションって、キュレーターの範囲内にとどまらないのが多いでしょ。
アーティストとキュレーターの関係から考えるに、「観客のキュレーション」って、コンセプトに基づいて「観客」を発信者として選び、でも予定調和を避けるべく広い層にアプローチし、かつ一緒にイベントをつくる相手として共犯関係を結ぶ......ってことじゃない?「一般向け」とは違うフェーズの「オープンさ」をキュレトリアルにつくり、観客200人くらいと、表層で発表不可能な作品の「生産的な鑑賞の場」をつくるってことか。
松田 いっぽうで、アーティストには「自由」を与えて、何が生まれるかを試すわけでしょ? いまの「表層」では何が「本当に」展示できないのか。それを測るためにも、参加アーティストにはそのハードルは厳しく持ってほしいね(笑)。「公」の時代の展覧会として、「表現の不自由展」「耐え難きを耐え↑忍び難きを忍ぶ展」「キセイノセイキ展」とともに、歴史的に振り返られる実験的なものになりそう。
それなら、僕もこれまで発表しなかった作品があるわ。あれの出番か。アーティストはつくってみたものの、一般公開してない作品のひとつやふたつ、あるんじゃないかな。Chim↑Pomもいっぱいあるでしょ?(笑)。
卯城 あるある。なんならそれらがうちらのマスターピースだよ(笑)。
てか、ウチらだけじゃないよ。キュンチョメの作品で僕が思うマスターピースも未発表作だよ。超いいのにヤバすぎて一般公開なんて絶対無理なやつ。椹木(野衣)さんいわく「時代が時代ならナブチは死刑だ......」ってくらい(笑)。SIDE COREも以前「クローズドなトークショー」を構想してた。「うちうちに客を選んで一般に見せられない作品について話し合いましょうよ!」って。むしろこのダークアンデパンダン展、その幻のトークをアンデパンダンとキュレーションによって「開く」ように更新する感じの展示かも。
松田 SIDE COREはストリートアートレペゼンだから、法規制とのバランスでいろいろあるんだろうね。とにかくダークアンデパンダン展はポテンシャルありそうってことだ(笑)。
卯城 だね。てか、そういうのが並ぶのを想像したら、ただのヤバいもの博覧会とも違うものになりそうじゃない? だってIDWは別にマッドサイエンティストの集まりじゃなくて、「科学的根拠に基づいて話したい」って根源的な需要に基づいていたわけじゃん。アーティストにも同じように、「世間一般の価値観とズレてもアートとしてつくらざるをえないもの」があるでしょ。
松田 それこそが、本来ならば「アートとして見せねばならぬもの」でもあるような気がするね。そういった意味では「表層」がシーンとして2軍に落ちても仕方ないか(笑)。まず僕も観客のひとりとして、そういった暗黒作品たちを見てみたいよ。観客は誰?
卯城 SNSなどの表層でおしゃべりな人はダメでしょ(笑)。逆に美術館のキュレーターたちは一周回って当事者だから必要かも。
松田 コレクターも面白そう。ブラックマーケットみたいな感じか(笑)。観客からの提案なんかもあるかもね。キュレーションされる側として。
卯城 生産的にひとつの価値観をシェアできる、ていうクラスタの良さは引き継いでも良い気がするけど、とはいえとにかく友達中心のキュレーションはダメでしょ。ていうかこれ、アーティストの自由と民主主義を体現した、究極にオープンでありつつ、究極にクローズドな展覧会、て感じじゃなきゃダメなんじゃない? キタコレの《道》を思い出すな。
松田 公募にあたっては、そういう思想を共有してもらうことが参加の条件になりそうだね。思想がないと、アートでもなく、ただただ「卯城を刺したい」ってやつがきちゃう(笑)。
卯城 マジで? 勘弁してよそんなクソサブカルラディカリスト......。てか、日本がつねに思想のないサブカルのカオスに陥りがちだってのは、それこそ木澤(佐登志)さんの『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』(イースト・プレス、2019年)にも書いてあったよ。例えば、ダークウェブ内の日本語掲示板「onionチャンネル」は、「2ちゃんねる」同様に無秩序じゃん。対して海外の掲示板は、話題はフォーラム形式で、ドラッグやヘイトや児童ポルノについてでさえ、モデレーターが管理するんだって。
松田 議論の当事者であれってことだろうね。カウンターカルチャーが、日本では思想ではなく「悪趣味」として消費されている好例じゃね?
そんな無秩序な「場」をつくるだけじゃ、カウンターでもなんでもないし、「ダーク」が世の中に必要であるってことにもならないよ。ダークアンパンには、思想を共有する「規約」なんかが必須かもね。あとは会期中に一般に開放する場として、こういったテーマについて大会議的に議論できたりするところがあると最高じゃない?
卯城 たしかに。ていうか、これからもChim↑Pomも松田くんも、活動のメインの場はやっぱり表層にあるでしょ。けど、こういう試みこそ、表層自体を揺さぶるんじゃないかな。
松田 まぁ、究極のアートを提案しようとするときに、活動拠点の法や空気なんてリミッター優先で考えることが、良いことだとは思えないし。僕が初めてアートを面白いと感じたのは、世の理から外れた存在に思えたからなんだ。
鑑別所を出所してすぐの保護観察処分中に、ケースワーカーに連れられて行った美術館で(笑)、裸像の彫刻や写実系の油絵などそのときの僕でもわかる「お芸術」が並んでるなかで見た、落書きみたいなピカソの絵! ピカソなんて名前も知らなくて。ベンツの車がなんで高いかくらいはわかる年齢だったけど、ピカソはまったくわかんなくてウケた。自分がこれまでに培った知識や常識がカンケーなくて、「これは面白い」って感じたんだよね。そもそも人間自体が矛盾だらけの善悪の入り混じった「よくわかんない」存在でしょ。それを社会的動物として無理矢理理解するために、社会で理や常識を作ってる気がするけど、いつだってその矛盾はあるわけだよね。それを露わにするのがアーティストなんじゃないかと思う。いまはその矛盾に社会が向き合えなくなってる。
卯城 善も悪も内在してるのに、どちらかだけ都合よくリプリゼントなんてできるわけない。清濁併せ持ってこそアーティスト、ていうか、それこそが人間やこの世の中じゃん。その無限の可能性を豊かなカオスだと信じれるセンスがアートなんじゃないの。でなきゃアーティストなんてもう必要ない。デザイナーがいればなんとかなるよ(笑)。
思うんだけど、例えばChim↑Pomの未発表作も、それが「いま」の「表層」でお蔵入りしてるだけで、アートのモチベーションとしては、全人類とつながりを感じて制作したんだよね。だから、現状ダーク入りな作品だとしても、それは世界や人類の根本的なコアにはいまも全力で開かれている。逆にそういうブライトなアートをダークにしてるのは、この世の中じゃん。だから、ダークアンデパンダン展には、意外にも人類にとって逆にもっともブライトな作品が並ぶかもよ。それこそ、うちらがずっと話してきた「アーティストってそもそもなんだっけ?」ってクエスチョンそのものだから。