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津田大介と語る、アーティストの新しい役割。The Public Times vol.8〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜

2018年、新宿・歌舞伎町のビルを一棟丸ごと使用し、「にんげんレストラン」を開催したことで話題を集めたChim↑Pom。彼らはこれまでも公共空間に介入し、数々のアートを展開してきた。本シリーズ「The Public Times」では、Chim↑Pomリーダー・卯城竜太とアーティスト・松田修が、「公」の影響が強くなりつつある現代における、「個」としてのアーティストのあり方を全9回で探る。第8回は、あいちトリエンナーレ2019の芸術監督である津田大介をゲストに迎え、現代における芸術祭やアーティストの役割について議論する。

構成=杉原環樹

あいちトリエンナーレ2019の参加作家であるウーゴ・ロンディノーネの《Vocabulary of Solitude》(2014-16) 個展「Ugo Rondinone: Vocabulary of solitude」(ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館、ロッテルダム、オランダ)での展示風景 Photo by Stefan Altenburger Courtesy of studio rondinone

かつての雑多な雑誌。あれが自分にとっての「公」

——この連載では現在の芸術祭やキュレーション、大正から昭和初期にかけての前衛美術運動などに触れながら、美術や社会における「個」と「公」の関係について話してきました。今日は今年の「あいちトリエンナーレ」で芸術監督を務める津田大介さんをお招きして、議論をさらに深めていきたいと思います。

松田修 いまの「個」と「公」の関係って10年前より激変したと思うんです。それを考えること自体が、いまの時代にとっての「アーティスト(個)とはなんぞや」って議論に直結するなと思っていて。公権力、公共放送、公共空間なんかを運営する側は、表向きには「多様性」とか「個性尊重」とか言うんだけど、実際は自分たちの理解できない存在はハナから除外して、わかる範囲のなかで「公」を形成しようとしているところがあるのではないかと。そして、ほとんどの「個」も順応して、その「公」に当てはまろうとしてる。

卯城竜太 それはいまのアートフェアやビエンナーレと、アーティストとの関係性にも当てはまるよね。そんななかで僕らが興味を持ったのが、社会の抑圧や検閲が厳しく「公の時代」とも言えそうな、大正から昭和初期の前衛美術の動向だった。これまで日本の前衛美術というと戦後美術が注目されがちだったけど、戦後民主主義のなかで個人主義が尊重されたこの時代は、「個の時代」でしょ。ハチャメチャな個人が時代的にも望まれていた。だけど、現代は「公の時代」であるって感じているウチらは、バックグラウンドとして戦後より、戦前の大正あたりに親近感を抱いたわけです。ただ、日本では戦前と戦後の美術の間に、どこか「意識の断絶」があるように感じられる。その理由として前回の第7回では、戦争の総括の話も上がりました。

卯城竜太

松田 その「断絶」の理由に、「日本ではドクメンタをやっていないから」というひとつの仮説が立ったんだよね。ドクメンタは戦前ナチスに迫害された「退廃芸術」を戦後のスタートにあたり見直すことで始まった。でもそんなドイツとは違って、日本はこれだけ芸術祭が増えたいまも、自分の黒歴史を芸術祭として総括しないまま。

津田大介 僕も前回のドクメンタに行ったけど、すごいと思ったのが、芸術監督がポーランド人じゃない? しかも、テーマは「アテネから学ぶ」。これって、日本で言えば韓国人を芸術監督にして、「中国から学ぶ」をテーマにするようなもの。日本の芸術祭でそれをやったら炎上は必至だと思うけれど、そういうことが普通にできている。加えて言えば、その背景には、ドイツがギリシャをはじめとしたEU加盟国に緊縮財政を強いて、経済的に追い詰めたことへの贖罪――ドイツはギリシャを「文化的」にはリスペクトしているんですよというメッセージもある。芸術祭がたんなるお祭りじゃなくて、文化外交の場所にもなっているんですよね。前回のドクメンタ、内容的には賛否両論でしたが、初めて見る僕的には、芸術と政治、社会がシームレスにつながっていることが衝撃でした。

津田大介

松田 「現代のアートはそうでないと意味がない」くらい考えてそうですよね。日本とは真逆の状況かもしれない

 そんななかで、僕らが津田さんと話したいと思ったのは、津田さんが「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督になったということは、日本の芸術祭側も、業界内部のプレイヤーから芸術監督を選ぶと、いまの世界を測れないという意識があるんじゃないかと思ったからなんです。言い方はアレだけど、美術の門外漢というか(笑)、また違う「公」の意識を持った人を呼ぶことで、異なるサイクルをつくり出したいんじゃないかと。

松田修

津田 この連載の過去の回、全部読みました。まずは、この場に呼ばれたのは光栄なことだなと(笑)。というのも、ここは「アート番外地」だなと思ったからです。この連載でお二人は本来アートが持つ社会的機能について、核心の話をしていると思うんですが、日本のアート業界の中では番外地にいるように見える。自分たちは端っこにいるけど、それでもここから始めなければいけないという使命感のようなものを感じましたね。

 あと、対談で面白かったのは「多様性」と言いたがる人たちの多様性がいかに狭いのか――。ここをディスっている部分は、自分の問題意識とも近かったので、面白かったです。

——「多様性」の定義が狭まっているという問題意識が津田さんにもあったのですか?

津田 そうですね。我々メディア業界で仕事をしている人間もそうだし、美術業界の人も「多様性が重要だ」って言いがちなんですけど、実際に多様性が社会のシステムと衝突しそうになると、途端に日和る人が多い(笑)。その問題意識はあいちトリエンナーレのコンセプトともつながるんですけど、右も左も、わかりやすい結論に流れる人が増えましたよね。簡単に結論を出せない問題について考えることがどんどん許されない世界になっている。

 その土壌は間違いなくTwitterで、例えば『新潮45』(2018年8月号)の杉田水脈論文の問題にしても――もちろんあれはとんでもない論考以前の代物ということを前提としたうえで――かつてなら、次号や別の雑誌であの論に反対する論者を呼んだり、往復書簡をしたりしても良かった。雑誌には本来そういう機能があったわけですが、その情報の遅さにみんな耐えられなくなっていて、一過性の消費をしてしまう。

 「公」や「個」の話で言うと、そもそも僕は出自が雑誌ライターなので、雑誌が好きなんですよ。かつての雑誌って、こんなものを誰が読むんだという文章や、尖った記事がたくさんあったじゃないですか。ああいう雑多な感じこそが、自分の中の「公」だと思うんです。「公」は「雑」から立ち上がる、みたいな。自分は左派的あるいはリベラルな価値観を持っているけれど、そういう嗜好性があるので、自分が運営する媒体にはあえて違う価値観の書き手にも原稿を書いてもらっています。みんな好きな情報だけを見て、極端な人しか意見を言わなくなって、中立的な視点を持つ人が意見を言いにくくなっている状況に対して、違う場所をつくろうと思っている部分はあります。

ハッキングとしての芸術祭

松田 雑多な「個」が自然に集まって、「公」が成立することは、僕らも理想的なことだと考えています。いまは、あらかじめ想定された「公」に「個」をどう当てはめるかってことが進んでいて、そのなかでは「公」に受け入れられない「個」が当然出てくる。しかし津田さんは、そのあぶれがちな「個」を受け入れるもうひとつの「公」としての媒体を、オルナティブな意識でつくっている。そのあり方は、この連載にめっちゃリンクしますね。

 連載では、そのようにして生まれた新しい「公」が、もともとあった「公」にも影響を与えるような存在になったり、コレクティヴとしてアートプロジェクトを行ったりっていう話もしてきました。最近で言うと、楽曲の回収処分を受けた電気グルーヴの特集番組をやって話題になったDOMMUNEが記憶に新しい。DOMMUNEはそういう「公」でありつつ、宇川直宏さんというアーティストの「個」の一部ともとらえることができますね。

卯城 「個」と「公」の往復で言うと、僕たちはこの連載のなかで、コレクティヴや芸術祭のような複数の人から構成されている「公」的な取り組みが、場所を移すと「個」としてとらえられることの面白さを語ってきました。例えばChim↑Pomが参加している帰還困難区域での展覧会「Don't Follow the Wind」(以下、DFW)があるけれど、あれはいわば自分たちで国際展っていう「公」をやっているようなもの。だけど面白いのは、DFWが横浜トリエンナーレとかほかの芸術祭に呼ばれると、参加作家のひとり、「個」としてエントリーされるんですよね。つまり「公」のバリエーションを増やすということが、「個」のバリエーションを増やすことにもつながっている。ここには可能性があると思うんです。ただ、その意味で言うと、あいちトリエンナーレが今後、どこか別の場所で「一人の作家」として立ち上がることは想像しにくいようにも思うんですよね。団体が「個」としてカテゴライズされるには、何かしら自立した組織としてユニークに見えるからなのかなと思うんです。そういうインディペンデント性を団体があえて持つか/持たないかの違いなのかもですが。

「Don't Follow the Wind」より、艾未未(アイ・ウェイウェイ)《A Ray of Hope》(2015) Photo by Kenji Morita. Courtesy of the artist and Don't Follow the WInd.

津田 DFWのように明確なコンセプトを持った展覧会――「公」的なものが、展覧会内の参加作家――「個」になるという意味で言えば、あいちトリエンナーレ2019にもひと組、似たような枠組みを作家として入れているんです。具体的には、2015年に江古田のギャラリー古藤で行われた「表現の不自由展」です。これは、「慰安婦」問題や天皇、政権批判などのテーマを扱ったがゆえに、「公」的な美術館で展示できなかった作品を、その経緯とともに展示する展覧会なんですが、2015年以降、同様の問題はいたるところで起きている。より不自由な状況が増してきているので、2015年の展示をアップデートした「表現の不自由展・その後」をやることに決めました。現状あまり注目されてないですが、会期が始まったら間違いなくこれが一番物議を醸す展示になるでしょうね。

表現の不自由展(参考作品画像) 題字ロゴ(木版)=いちむらみさこ 2015年同展ポスターより

 「表現の不自由展」はもともと個人の有志たちが集まって行ったインディペンデントな企画でした。なぜインディペンデントな企画を行政が主導する公的な芸術祭に持ってきたのかといえば、ジャーナリスト、アクティビスト的な観点から問題提起したいという思いがあったからです。DFW的なインディペンデントな活動は、表現の自由の幅がどんどん狭くなってきているいま、「個」を確立するという点で重要度は上がっています。他方で、「公」をこのまま石頭の事なかれ主義が横行するセクターにしておいていいのかという問題から逃げてはいけないと思うんですよ。「公」がリスクやコストを取って「個」と協働する体制をつくらなければ、美術業界はアーティストにとってどんどん息苦しい場所になるんじゃないか――そういう問題意識がありました。

——インディペンデントな「個」の活動と、行政に代表される「公」の領域をぶつけることで生まれることがあるんじゃないかと。

津田 行政主導の芸術祭のなかにこうした「個」が最大限立った企画を放り込むことで「公」の凝り固まった部分を柔らかくする――この視点が大事だと思っているんですね。北川フラムさんがよく公言されていることに「地域芸術祭で大切なことは、行政からお金を取ってくること」というものがあります。この発言だけ切り取って「個」が「公」におもねっているように解釈する人もいるでしょうが、実際にフラムさんがつくっている芸術祭を見に行けばそんな芸術祭でないことは一目でわかる。

 行政と組むのは一見自由がなくなるし、実際にそういう面はある。違うレイヤーの問題としては、作家が土地の負の歴史も扱ってしまうがゆえに、地域との軋轢を生んだりもする。その複雑なバランスのなかでフラムさんは「個」と「公」の調整作業を20年以上行ってきたわけですね。調整プロセスのなかで、相手にお金は出させて口は出させない関係――新たな「公」を北川フラムはつくり上げたんだと僕は解釈しています。フラムさんがやったのは、ある意味で社会構造のハッキング。あの年齢になってもあの人はまだ現役の革命家なんだな、と。僕にはフラムさんのようなことはできないけど、フラムさんとは違うアプローチで凝り固まった「公」と「個」の関係を解きほぐせればいいなと思ってます。

津田大介

幅広い「情」を含んだ場所を、いかにセットするのか

卯城 とはいえ、行政と関わりながら芸術祭をつくり上げるうえでは、絶対に起こしちゃいけないことや、求められる結果もあるわけですよね? 「炎上しない」とか経済効果がどうとか。

 またまたドクメンタを比較対象にすると、運営する「ドクメンタ有限会社」も州による出資だけど、さっきも言ったような攻めたテーマや活動をすることができている。行政のアートリテラシーは日本とは断然違いますよね。そんな違いがあるなかでのハッキングって大変そう。

卯城竜太

 そもそも「炎上を回避する」ことと、今回のあいちトリエンナーレの「情の時代」というテーマの組み合わせは、すごく両立が難しそうですよね。津田さんはコンセプト文で感情の話も書いているじゃないですか。いまは人の感情が「公」の性質を変える時代だと思っていて、津田さんは溺死したシリア難民の少年の写真が欧州各国の世論を変えた例を挙げていたけど、最近では逆に、PC(ポリティカル・コレクトネス)の観点からマイノリティの感情が美術館という「公」の自主規制につながる事態も続出してる。あれも市民の怒りなど感情によっての話なわけで。

 多様性が進むほど、ひとりずつバックボーンや立場が違うから、「この作品がムカつく」「傷ついた」って感情が無数に出てくる。それと「作品の良さ」っていうアート側の視点は、いつも議論が平行線じゃないですか。感情って個別なもんだから、良いも悪いも本来はないはずなんだけど、「公」としてそれらを全部受け入れるとなると死ぬほど大変(笑)。「情の時代」と「公の時代」がどう両立していくのかは、めっちゃ気になるところです。

松田 言い換えると、アートが志向する非日常性やエクストリームな表現と、ある種の観客が求める穏やかな日常の両立は可能なのか、という問題。それはこの連載でもずっとテーマだったよね。

津田 それは自分がなぜ芸術監督を引き受けたかという話ともつながるんですが、僕がはじめて芸術祭や現代アートをきちんと見たのは、2013年に五十嵐太郎さんが芸術監督を務めたあいちトリエンナーレ(テーマ「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」)なんですよね。震災以降、自分はずっと東北で取材をしていたので、震災をテーマに美術家たちがどんな作品をつくるのか興味があった。

 実際に見てみたら、「わかるわかる」と膝を打つ作品ばかりで、自分に美術のリテラシーは皆無だったけどめちゃくちゃ楽しめたんです。取材で現地の人がどんな思いを持っているのか、そのリテラシーがあったから、すんなり鑑賞できたんでしょうね。アートとジャーナリズムは非常に近い位置にあると実感できたあの経験は僕にとって非常に大きなものでした。

卯城 アートっていうより被災地のリテラシーで見られたってことですよね。

津田 そうですね。先ほど美術とジャーナリズムはすごく近いと思ったと言いましたが、より正直に言えば、僕は五十嵐さんのあいちトリエンナーレを見て美術が羨ましいと思った。嫉妬したと言ってもいい。自分はジャーナリストとして東北を何ヶ月も取材して人間関係をつくって話を聞いて、2万字とかのルポを書くわけです。それが自分の「作品」になるわけですが、それを読むには数十分、どんなに早く読んでも10分程度の時間が必要になる。けれど、あいちトリエンナーレ2013で作品を見たときは、自分が時間をかけないと表現できなかった複雑さが数秒でわかる感覚があった。視覚芸術というのは、圧縮率が高くて伝えたいコアな部分を一瞬で届けるのに長けていると思ったんですね。

 ただ、これを美術業界の人に話すと、「いや、美術というのは遅いんです」と。ジャーナリズムは社会的な事件に対してすぐに原稿やテレビで届けられるレスポンスの速さがあるけれど、美術は何度も何度も咀嚼・圧縮することでようやくひとつの作品ができる。その表現としての速さの感覚の違いが面白かった。それを聞いて思ったのは、この二つの「速さ」の感覚をつなげられるんじゃないかということですね。

——美術とジャーナリズムの中間的な表現はもっとあり得るだろう、と。

津田 そうですね。テーマの話に戻ると、芸術監督を引き受けた際に思ったのは、できるだけ広く、かつ実際にトリエンナーレが開催される2年後にも古びていないテーマにしようということです。前回の横浜トリエンナーレの「島と星座とガラパゴス」が象徴していると思うのですが、2016年のトランプ政権誕生で、この2~3年ほど美術業界で「多様性」や「分断」をテーマにした試みが多く生まれていました。だけど僕は分断や多様性を前面に打ち出したくなかったんですよね。2017年の時点で2019年の夏を想像して、そのころまでに少しでもアートの力で分断が解消されるようなことは絶対にないと思ったからです。多様性は大事なものだし、分断は解消されるべきものだと僕も思いますが、そのことをアートでいまさら主張することにあまり意味を見出せなかったということかもしれません。

 進んでいる分断を内包することも含めて、その弊害を乗り越える枠組みをどうすればつくれるのか。そのことを考えているときに「感情」という単語が頭に浮かびました。ちょうど東浩紀の『ゲンロン0 観光客の哲学』を読んでいたこともあって、あの本で書かれているナショナリズムとグローバリズムの多層構造のなかにいかに誤配を忍び込ませるかといったことが全体のテーマになるといいなと。Twitterを見ていると、いまみんなすごく感情的になっていますよね。冷静なはずの学者や弁護士が、特定の話題になったとき感情的になる姿を見てしまって、嫌な気持ちになることが多くなった。だから今回は、感情化したいまの我々の世界そのものを扱おうと。

卯城 僕はその感情の津波に辟易するから、Twitterが苦手なんです。

松田 でも、Twitterにみんなが中毒的になるのは、テレビのような台本がある世界への反動があるからかもしれない。社会のいろんな場面で、段取りやマニュアルありきでしか進むことができない場面が多過ぎなんじゃない? 初期衝動や感情のまま動けないというか。その反動で、Twitterで感情が渦巻く。

津田 もちろんそういう側面はあるでしょう。ただ、それすらも自発的な初期衝動なのかは疑わないといけない。それってたんに何かを引き金にしてコントロールされたものなんじゃないですか、っていう。昔からそうですが、感情を渦巻かせるメディアって儲かるんですよ。なぜ我々の感情が沸き立つかと言えば、メディア経由で情報を知ることがほとんどのきっかけになっています。新聞、テレビ、インターネット。つまりは「情報」を知ることで我々は感情的になる。このことに思い至ったとき、「情報」にも「感情」にも「情」という共通する言葉があることに気がつきました。気になったので語源辞典を買ってきて意味を調べたら、情という漢字には「感覚によっておこる心の動き(→感情、情動)」といった一般的な意味に加えて「本当のこと・本当の姿(→実情、情報)」という意味があることがわかった。加えて「情」にはもうひとつ「人情・思いやり(→なさけ)」という意味もあった。この感情より先に出る憐れみの気持ち。その三つの意味がこの言葉にあるとわかったとき、「情の時代」でいけるという感覚を持ったんです。

あいちトリエンナーレ2019メインビジュアル

 「情の時代」をテーマにすれば、感情を喚起する作品も、情報をモチーフにした作品も、人間にとって大事に憐れみの感情を思い出させる作品も可能になる。みんなが感情的になっていることに対して落ち着けという作品も、いや、感情的になるのは仕方ないという作品も、どっちもOK。そこの価値判断を僕はしないようにしていて、テーマと合っていれば、アーティストの受け取り方は自由でいいだろうと。

編集部

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