津田大介と語る、アーティストの新しい役割。The Public Times vol.8〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜

2018年、新宿・歌舞伎町のビルを一棟丸ごと使用し、「にんげんレストラン」を開催したことで話題を集めたChim↑Pom。彼らはこれまでも公共空間に介入し、数々のアートを展開してきた。本シリーズ「The Public Times」では、Chim↑Pomリーダー・卯城竜太とアーティスト・松田修が、「公」の影響が強くなりつつある現代における、「個」としてのアーティストのあり方を全9回で探る。第8回は、あいちトリエンナーレ2019の芸術監督である津田大介をゲストに迎え、現代における芸術祭やアーティストの役割について議論する。

構成=杉原環樹

あいちトリエンナーレ2019の参加作家であるウーゴ・ロンディノーネの《Vocabulary of Solitude》(2014-16) 個展「Ugo Rondinone: Vocabulary of solitude」(ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館、ロッテルダム、オランダ)での展示風景 Photo by Stefan Altenburger Courtesy of studio rondinone
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かつての雑多な雑誌。あれが自分にとっての「公」

——この連載では現在の芸術祭やキュレーション、大正から昭和初期にかけての前衛美術運動などに触れながら、美術や社会における「個」と「公」の関係について話してきました。今日は今年の「あいちトリエンナーレ」で芸術監督を務める津田大介さんをお招きして、議論をさらに深めていきたいと思います。

松田修 いまの「個」と「公」の関係って10年前より激変したと思うんです。それを考えること自体が、いまの時代にとっての「アーティスト(個)とはなんぞや」って議論に直結するなと思っていて。公権力、公共放送、公共空間なんかを運営する側は、表向きには「多様性」とか「個性尊重」とか言うんだけど、実際は自分たちの理解できない存在はハナから除外して、わかる範囲のなかで「公」を形成しようとしているところがあるのではないかと。そして、ほとんどの「個」も順応して、その「公」に当てはまろうとしてる。

卯城竜太 それはいまのアートフェアやビエンナーレと、アーティストとの関係性にも当てはまるよね。そんななかで僕らが興味を持ったのが、社会の抑圧や検閲が厳しく「公の時代」とも言えそうな、大正から昭和初期の前衛美術の動向だった。これまで日本の前衛美術というと戦後美術が注目されがちだったけど、戦後民主主義のなかで個人主義が尊重されたこの時代は、「個の時代」でしょ。ハチャメチャな個人が時代的にも望まれていた。だけど、現代は「公の時代」であるって感じているウチらは、バックグラウンドとして戦後より、戦前の大正あたりに親近感を抱いたわけです。ただ、日本では戦前と戦後の美術の間に、どこか「意識の断絶」があるように感じられる。その理由として前回の第7回では、戦争の総括の話も上がりました。

卯城竜太

松田 その「断絶」の理由に、「日本ではドクメンタをやっていないから」というひとつの仮説が立ったんだよね。ドクメンタは戦前ナチスに迫害された「退廃芸術」を戦後のスタートにあたり見直すことで始まった。でもそんなドイツとは違って、日本はこれだけ芸術祭が増えたいまも、自分の黒歴史を芸術祭として総括しないまま。

津田大介 僕も前回のドクメンタに行ったけど、すごいと思ったのが、芸術監督がポーランド人じゃない? しかも、テーマは「アテネから学ぶ」。これって、日本で言えば韓国人を芸術監督にして、「中国から学ぶ」をテーマにするようなもの。日本の芸術祭でそれをやったら炎上は必至だと思うけれど、そういうことが普通にできている。加えて言えば、その背景には、ドイツがギリシャをはじめとしたEU加盟国に緊縮財政を強いて、経済的に追い詰めたことへの贖罪――ドイツはギリシャを「文化的」にはリスペクトしているんですよというメッセージもある。芸術祭がたんなるお祭りじゃなくて、文化外交の場所にもなっているんですよね。前回のドクメンタ、内容的には賛否両論でしたが、初めて見る僕的には、芸術と政治、社会がシームレスにつながっていることが衝撃でした。

津田大介

松田 「現代のアートはそうでないと意味がない」くらい考えてそうですよね。日本とは真逆の状況かもしれない

 そんななかで、僕らが津田さんと話したいと思ったのは、津田さんが「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督になったということは、日本の芸術祭側も、業界内部のプレイヤーから芸術監督を選ぶと、いまの世界を測れないという意識があるんじゃないかと思ったからなんです。言い方はアレだけど、美術の門外漢というか(笑)、また違う「公」の意識を持った人を呼ぶことで、異なるサイクルをつくり出したいんじゃないかと。

松田修

津田 この連載の過去の回、全部読みました。まずは、この場に呼ばれたのは光栄なことだなと(笑)。というのも、ここは「アート番外地」だなと思ったからです。この連載でお二人は本来アートが持つ社会的機能について、核心の話をしていると思うんですが、日本のアート業界の中では番外地にいるように見える。自分たちは端っこにいるけど、それでもここから始めなければいけないという使命感のようなものを感じましたね。

 あと、対談で面白かったのは「多様性」と言いたがる人たちの多様性がいかに狭いのか――。ここをディスっている部分は、自分の問題意識とも近かったので、面白かったです。

——「多様性」の定義が狭まっているという問題意識が津田さんにもあったのですか?

津田 そうですね。我々メディア業界で仕事をしている人間もそうだし、美術業界の人も「多様性が重要だ」って言いがちなんですけど、実際に多様性が社会のシステムと衝突しそうになると、途端に日和る人が多い(笑)。その問題意識はあいちトリエンナーレのコンセプトともつながるんですけど、右も左も、わかりやすい結論に流れる人が増えましたよね。簡単に結論を出せない問題について考えることがどんどん許されない世界になっている。

 その土壌は間違いなくTwitterで、例えば『新潮45』(2018年8月号)の杉田水脈論文の問題にしても――もちろんあれはとんでもない論考以前の代物ということを前提としたうえで――かつてなら、次号や別の雑誌であの論に反対する論者を呼んだり、往復書簡をしたりしても良かった。雑誌には本来そういう機能があったわけですが、その情報の遅さにみんな耐えられなくなっていて、一過性の消費をしてしまう。

 「公」や「個」の話で言うと、そもそも僕は出自が雑誌ライターなので、雑誌が好きなんですよ。かつての雑誌って、こんなものを誰が読むんだという文章や、尖った記事がたくさんあったじゃないですか。ああいう雑多な感じこそが、自分の中の「公」だと思うんです。「公」は「雑」から立ち上がる、みたいな。自分は左派的あるいはリベラルな価値観を持っているけれど、そういう嗜好性があるので、自分が運営する媒体にはあえて違う価値観の書き手にも原稿を書いてもらっています。みんな好きな情報だけを見て、極端な人しか意見を言わなくなって、中立的な視点を持つ人が意見を言いにくくなっている状況に対して、違う場所をつくろうと思っている部分はあります。

ハッキングとしての芸術祭

松田 雑多な「個」が自然に集まって、「公」が成立することは、僕らも理想的なことだと考えています。いまは、あらかじめ想定された「公」に「個」をどう当てはめるかってことが進んでいて、そのなかでは「公」に受け入れられない「個」が当然出てくる。しかし津田さんは、そのあぶれがちな「個」を受け入れるもうひとつの「公」としての媒体を、オルナティブな意識でつくっている。そのあり方は、この連載にめっちゃリンクしますね。

 連載では、そのようにして生まれた新しい「公」が、もともとあった「公」にも影響を与えるような存在になったり、コレクティヴとしてアートプロジェクトを行ったりっていう話もしてきました。最近で言うと、楽曲の回収処分を受けた電気グルーヴの特集番組をやって話題になったDOMMUNEが記憶に新しい。DOMMUNEはそういう「公」でありつつ、宇川直宏さんというアーティストの「個」の一部ともとらえることができますね。

卯城 「個」と「公」の往復で言うと、僕たちはこの連載のなかで、コレクティヴや芸術祭のような複数の人から構成されている「公」的な取り組みが、場所を移すと「個」としてとらえられることの面白さを語ってきました。例えばChim↑Pomが参加している帰還困難区域での展覧会「Don't Follow the Wind」(以下、DFW)があるけれど、あれはいわば自分たちで国際展っていう「公」をやっているようなもの。だけど面白いのは、DFWが横浜トリエンナーレとかほかの芸術祭に呼ばれると、参加作家のひとり、「個」としてエントリーされるんですよね。つまり「公」のバリエーションを増やすということが、「個」のバリエーションを増やすことにもつながっている。ここには可能性があると思うんです。ただ、その意味で言うと、あいちトリエンナーレが今後、どこか別の場所で「一人の作家」として立ち上がることは想像しにくいようにも思うんですよね。団体が「個」としてカテゴライズされるには、何かしら自立した組織としてユニークに見えるからなのかなと思うんです。そういうインディペンデント性を団体があえて持つか/持たないかの違いなのかもですが。

「Don't Follow the Wind」より、艾未未(アイ・ウェイウェイ)《A Ray of Hope》(2015) Photo by Kenji Morita. Courtesy of the artist and Don't Follow the WInd.

津田 DFWのように明確なコンセプトを持った展覧会――「公」的なものが、展覧会内の参加作家――「個」になるという意味で言えば、あいちトリエンナーレ2019にもひと組、似たような枠組みを作家として入れているんです。具体的には、2015年に江古田のギャラリー古藤で行われた「表現の不自由展」です。これは、「慰安婦」問題や天皇、政権批判などのテーマを扱ったがゆえに、「公」的な美術館で展示できなかった作品を、その経緯とともに展示する展覧会なんですが、2015年以降、同様の問題はいたるところで起きている。より不自由な状況が増してきているので、2015年の展示をアップデートした「表現の不自由展・その後」をやることに決めました。現状あまり注目されてないですが、会期が始まったら間違いなくこれが一番物議を醸す展示になるでしょうね。

表現の不自由展(参考作品画像) 題字ロゴ(木版)=いちむらみさこ 2015年同展ポスターより

 「表現の不自由展」はもともと個人の有志たちが集まって行ったインディペンデントな企画でした。なぜインディペンデントな企画を行政が主導する公的な芸術祭に持ってきたのかといえば、ジャーナリスト、アクティビスト的な観点から問題提起したいという思いがあったからです。DFW的なインディペンデントな活動は、表現の自由の幅がどんどん狭くなってきているいま、「個」を確立するという点で重要度は上がっています。他方で、「公」をこのまま石頭の事なかれ主義が横行するセクターにしておいていいのかという問題から逃げてはいけないと思うんですよ。「公」がリスクやコストを取って「個」と協働する体制をつくらなければ、美術業界はアーティストにとってどんどん息苦しい場所になるんじゃないか――そういう問題意識がありました。

——インディペンデントな「個」の活動と、行政に代表される「公」の領域をぶつけることで生まれることがあるんじゃないかと。

津田 行政主導の芸術祭のなかにこうした「個」が最大限立った企画を放り込むことで「公」の凝り固まった部分を柔らかくする――この視点が大事だと思っているんですね。北川フラムさんがよく公言されていることに「地域芸術祭で大切なことは、行政からお金を取ってくること」というものがあります。この発言だけ切り取って「個」が「公」におもねっているように解釈する人もいるでしょうが、実際にフラムさんがつくっている芸術祭を見に行けばそんな芸術祭でないことは一目でわかる。

 行政と組むのは一見自由がなくなるし、実際にそういう面はある。違うレイヤーの問題としては、作家が土地の負の歴史も扱ってしまうがゆえに、地域との軋轢を生んだりもする。その複雑なバランスのなかでフラムさんは「個」と「公」の調整作業を20年以上行ってきたわけですね。調整プロセスのなかで、相手にお金は出させて口は出させない関係――新たな「公」を北川フラムはつくり上げたんだと僕は解釈しています。フラムさんがやったのは、ある意味で社会構造のハッキング。あの年齢になってもあの人はまだ現役の革命家なんだな、と。僕にはフラムさんのようなことはできないけど、フラムさんとは違うアプローチで凝り固まった「公」と「個」の関係を解きほぐせればいいなと思ってます。

津田大介

幅広い「情」を含んだ場所を、いかにセットするのか

卯城 とはいえ、行政と関わりながら芸術祭をつくり上げるうえでは、絶対に起こしちゃいけないことや、求められる結果もあるわけですよね? 「炎上しない」とか経済効果がどうとか。

 またまたドクメンタを比較対象にすると、運営する「ドクメンタ有限会社」も州による出資だけど、さっきも言ったような攻めたテーマや活動をすることができている。行政のアートリテラシーは日本とは断然違いますよね。そんな違いがあるなかでのハッキングって大変そう。

卯城竜太

 そもそも「炎上を回避する」ことと、今回のあいちトリエンナーレの「情の時代」というテーマの組み合わせは、すごく両立が難しそうですよね。津田さんはコンセプト文で感情の話も書いているじゃないですか。いまは人の感情が「公」の性質を変える時代だと思っていて、津田さんは溺死したシリア難民の少年の写真が欧州各国の世論を変えた例を挙げていたけど、最近では逆に、PC(ポリティカル・コレクトネス)の観点からマイノリティの感情が美術館という「公」の自主規制につながる事態も続出してる。あれも市民の怒りなど感情によっての話なわけで。

 多様性が進むほど、ひとりずつバックボーンや立場が違うから、「この作品がムカつく」「傷ついた」って感情が無数に出てくる。それと「作品の良さ」っていうアート側の視点は、いつも議論が平行線じゃないですか。感情って個別なもんだから、良いも悪いも本来はないはずなんだけど、「公」としてそれらを全部受け入れるとなると死ぬほど大変(笑)。「情の時代」と「公の時代」がどう両立していくのかは、めっちゃ気になるところです。

松田 言い換えると、アートが志向する非日常性やエクストリームな表現と、ある種の観客が求める穏やかな日常の両立は可能なのか、という問題。それはこの連載でもずっとテーマだったよね。

津田 それは自分がなぜ芸術監督を引き受けたかという話ともつながるんですが、僕がはじめて芸術祭や現代アートをきちんと見たのは、2013年に五十嵐太郎さんが芸術監督を務めたあいちトリエンナーレ(テーマ「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」)なんですよね。震災以降、自分はずっと東北で取材をしていたので、震災をテーマに美術家たちがどんな作品をつくるのか興味があった。

 実際に見てみたら、「わかるわかる」と膝を打つ作品ばかりで、自分に美術のリテラシーは皆無だったけどめちゃくちゃ楽しめたんです。取材で現地の人がどんな思いを持っているのか、そのリテラシーがあったから、すんなり鑑賞できたんでしょうね。アートとジャーナリズムは非常に近い位置にあると実感できたあの経験は僕にとって非常に大きなものでした。

卯城 アートっていうより被災地のリテラシーで見られたってことですよね。

津田 そうですね。先ほど美術とジャーナリズムはすごく近いと思ったと言いましたが、より正直に言えば、僕は五十嵐さんのあいちトリエンナーレを見て美術が羨ましいと思った。嫉妬したと言ってもいい。自分はジャーナリストとして東北を何ヶ月も取材して人間関係をつくって話を聞いて、2万字とかのルポを書くわけです。それが自分の「作品」になるわけですが、それを読むには数十分、どんなに早く読んでも10分程度の時間が必要になる。けれど、あいちトリエンナーレ2013で作品を見たときは、自分が時間をかけないと表現できなかった複雑さが数秒でわかる感覚があった。視覚芸術というのは、圧縮率が高くて伝えたいコアな部分を一瞬で届けるのに長けていると思ったんですね。

 ただ、これを美術業界の人に話すと、「いや、美術というのは遅いんです」と。ジャーナリズムは社会的な事件に対してすぐに原稿やテレビで届けられるレスポンスの速さがあるけれど、美術は何度も何度も咀嚼・圧縮することでようやくひとつの作品ができる。その表現としての速さの感覚の違いが面白かった。それを聞いて思ったのは、この二つの「速さ」の感覚をつなげられるんじゃないかということですね。

——美術とジャーナリズムの中間的な表現はもっとあり得るだろう、と。

津田 そうですね。テーマの話に戻ると、芸術監督を引き受けた際に思ったのは、できるだけ広く、かつ実際にトリエンナーレが開催される2年後にも古びていないテーマにしようということです。前回の横浜トリエンナーレの「島と星座とガラパゴス」が象徴していると思うのですが、2016年のトランプ政権誕生で、この2~3年ほど美術業界で「多様性」や「分断」をテーマにした試みが多く生まれていました。だけど僕は分断や多様性を前面に打ち出したくなかったんですよね。2017年の時点で2019年の夏を想像して、そのころまでに少しでもアートの力で分断が解消されるようなことは絶対にないと思ったからです。多様性は大事なものだし、分断は解消されるべきものだと僕も思いますが、そのことをアートでいまさら主張することにあまり意味を見出せなかったということかもしれません。

 進んでいる分断を内包することも含めて、その弊害を乗り越える枠組みをどうすればつくれるのか。そのことを考えているときに「感情」という単語が頭に浮かびました。ちょうど東浩紀の『ゲンロン0 観光客の哲学』を読んでいたこともあって、あの本で書かれているナショナリズムとグローバリズムの多層構造のなかにいかに誤配を忍び込ませるかといったことが全体のテーマになるといいなと。Twitterを見ていると、いまみんなすごく感情的になっていますよね。冷静なはずの学者や弁護士が、特定の話題になったとき感情的になる姿を見てしまって、嫌な気持ちになることが多くなった。だから今回は、感情化したいまの我々の世界そのものを扱おうと。

卯城 僕はその感情の津波に辟易するから、Twitterが苦手なんです。

松田 でも、Twitterにみんなが中毒的になるのは、テレビのような台本がある世界への反動があるからかもしれない。社会のいろんな場面で、段取りやマニュアルありきでしか進むことができない場面が多過ぎなんじゃない? 初期衝動や感情のまま動けないというか。その反動で、Twitterで感情が渦巻く。

津田 もちろんそういう側面はあるでしょう。ただ、それすらも自発的な初期衝動なのかは疑わないといけない。それってたんに何かを引き金にしてコントロールされたものなんじゃないですか、っていう。昔からそうですが、感情を渦巻かせるメディアって儲かるんですよ。なぜ我々の感情が沸き立つかと言えば、メディア経由で情報を知ることがほとんどのきっかけになっています。新聞、テレビ、インターネット。つまりは「情報」を知ることで我々は感情的になる。このことに思い至ったとき、「情報」にも「感情」にも「情」という共通する言葉があることに気がつきました。気になったので語源辞典を買ってきて意味を調べたら、情という漢字には「感覚によっておこる心の動き(→感情、情動)」といった一般的な意味に加えて「本当のこと・本当の姿(→実情、情報)」という意味があることがわかった。加えて「情」にはもうひとつ「人情・思いやり(→なさけ)」という意味もあった。この感情より先に出る憐れみの気持ち。その三つの意味がこの言葉にあるとわかったとき、「情の時代」でいけるという感覚を持ったんです。

あいちトリエンナーレ2019メインビジュアル

 「情の時代」をテーマにすれば、感情を喚起する作品も、情報をモチーフにした作品も、人間にとって大事に憐れみの感情を思い出させる作品も可能になる。みんなが感情的になっていることに対して落ち着けという作品も、いや、感情的になるのは仕方ないという作品も、どっちもOK。そこの価値判断を僕はしないようにしていて、テーマと合っていれば、アーティストの受け取り方は自由でいいだろうと。

多くの人が、議論や軋轢を嫌うようになっている

卯城 そこでどれだけ本当に雑多な感情を抱えられるのかという部分が、「津田トリエンナーレ」の醍醐味ですね。

津田 自分の本職はジャーナリストで、つまりは表現することで食べている人間であるわけです。だから当然アーティストには自由につくってもらえればいいな、と思っているわけですが、同時に全体のディレクターでもあるので、観客に対して配慮する必要もある。

 具体的には「炎上」対策をどうするか。あいちトリエンナーレで言えば、前回(2016年)にブラジル人アーティストのラウラ・リマの、実際の鳥を使った生体展示作品が炎上しました。そういう展示の方法や表現の仕方は誰にでも受け入れられるものではないし、芸術祭の規模が大きくなれば必然的に軋轢も起こり得る。ただ、そのこと自体はこれだけの規模の芸術祭では不可避なことだろうし、いちいちそういうことに対してアーティストがリスクマネジメントする必要はないと思うんですよ。そういう仕事は僕や事務局がきちんと理論武装をして、応答できる体制を整えればいいわけですから。

あいちトリエンナーレ2016でのラウラ・リマ《フーガ》展示風景

卯城 今回の津田トリエンナーレにも、ヤバいプランを出した人はいるんですか?

津田 まあ、ほとんど答えを先に言ってますが、実際に始まって一番ヤバい展開になるとしたらやはり「表現の不自由展・その後」でしょうね。もちろんそれだけでなく、政治的なタブーを扱う作品や、際どい立場の人々をテーマにしたいというアーティストもいます。ただ、アーティストに覚悟があるならこちらは止める道理はない。あとは何が問題かと言えば、事務局がクレームを恐れるので、そのへんは事務局と僕がどこまでなら許容できるのかすり合わせる作業の繰り返しという感じですね。事務局には「最悪、事務局の手に余る厄介なクレームがきたら僕のケータイ番号教えてそこにかけさせろ」と言ってます。

卯城 津田さんのケータイ(笑)。そういう関係性は大事ですよね。広島での「ピカッ」騒動時は、美術館は「作家が決めたこと」って逃げたし(笑)。

松田 クレームはある意味しょうがないですよね。普段芸術が「わからない」とか、「興味がない」という人が、作品見て急に「これは芸術じゃない!」って怒り出すことって、個人的には必要なことだとも思う。やっぱアンタにも「芸術観」があるやんけっていう......。

津田 それって、半分はその作品が成功しているってことでしょう。人の心を何かしら動かしているってことだから。ささくれであっても共感であっても、人の心を動かすのが表現ということでしょうから。

卯城 アーティスト論の話になるけれど、こないだ20代前半の藝大生と一緒に飲んでて、その子は「アートが感情を逆撫でしていい理屈がわからない」って言うんです。

 別にそれがいまの20代の「芸術観」を代表してるわけじゃないけど、なんかいまの状況へのリアリティは感じましたね。

津田 ジャーナリズムも同じ問題を抱えていますね。大学で教えるようになって10年近く経ちますが、彼らと話していて感じるのは、若い人にジャーナリズムが響かないのは、彼らはそもそも「批判する」という行為そのものが嫌だという面が大きいということです。いまの学生は僕らの頃とは比べ物にならないくらい賢くて優秀で真面目。そして、非常に寛容で多様性を認めている。でも、これは「多様性の罠」でもあるんです。彼らはLGBTも同性婚も選択的夫婦別姓もOKだけど、モリカケ問題や統計改竄も公文書隠蔽もOKなんです。厳しい言い方をすれば、自分の身に直接火の粉が降りかかってこない問題についてはなんでもOKなんです。でもそれって「多様性」か?っていう。

津田大介

 社会学者の友枝敏雄さんが高校生を対象にアンケートの定点調査をやっていて、その結果が個人的にはショックだったんですよ。例えば、「日本の文化・伝統はほかの国よりも優れている」の問いには、2001年が29.1パーセントで13年が55.7パーセント、「太平洋戦争の件で日本は謝罪すべきか」の問いには、2001年が64.5パーセントで13年が39.7パーセント。つまり、主従が逆転しているんだよね。なかでも僕が一番ショックだったのは、「校則を守ることは当然」という質問で、2001年は68.3パーセントなのに対し、13年は87.9パーセントになっている。

松田 マジすか(笑)。

津田 芸術家になるのは、(「校則を守ることは当然」と考えない)こっちの人間でしょう。もちろん、決まりを守る人が増えるのは別に悪いことではない。でも、問題なのはクリティカル・シンキングがなくなることですよ。校則は守ることは当然と答えた87.9パーセントには、そもそも校則がおかしかったらどうするんだ、という考えがない。そもそもおかしな校則は破って良いし、法律だっておかしければ変えられる。それこそが民主主義の本質でしょう。僕はいまの若い人にはとても期待していますし、実際に若者と交流しもしないで「最近の若いヤツは情けない」とかいう老害は全員早く死ね!と思ってますが、若い人に「多様性」と「現状追認」をごっちゃにしている人が多くなっている印象はありますね。

卯城 なるほど。なんかそれって「日本の」若者っぽいなとは思いますね。ウチらが高校生のときだって、そういう人はけっこうマジョリティでしたし。ただ、アートを語るときに、日本とか身近な材料がリアリティの大部分を占めちゃってるのはヤバい気がする。情報はこんなに多いのに。

 こないだニューヨークに行ってたんですが、ホイットニー美術館ではいま、8週にわたって館内でデモが行われてますよ。作品に対してじゃなく、普通にシリアやメキシコ問題で当事者の企業がスポンサーしてることへの美術館批判として行われている。それだけ美術館が公共空間として認知されてるってのも日本から見ると違和感だけど、校則どころじゃなくて、これ、美術館のルールはシカトですからね(笑)。法的にはアウトなのかもだけど、邪魔したら美術館にとっても悪いPRになるでしょ、だからセーフっていう。つまりグレーが多いんですよね。帰国日も「420Day」ってメジャーなマリファナデイで、みんな公共空間で吸いまくってたし。もちろんそれも暗黙の了解(笑)。

松田修、卯城竜太

松田 そういうグレーは、日本ではどんどん漂白されてきていますね。日本では、学校や美術館などの場がどういう場所かを試したりする前に、見切りをつけすぎるのかもしれない。で、優秀でその場を窮屈に感じる人は、その場を変えるより海外に出るんじゃないかな。

 それと、「批判しない」っていうのは、「批判されたくない」ってことの裏返しにも思える。社会の「ナイーブ化」はこれからも加速していきそうだね。それこそ「傷つく」ということにもっと過敏になるというか。ブロックや分断、クラスタ化が容易になったのも、ナイーブ化の加速要素だし。だからこそ、美術館や芸術祭には、そういった賛否の議論を生むような価値観を、ゾーニングしてでも提示する役割も担っていてほしいと思う。まぁ、僕のやる「ファリックアート」とかは、ハナから美術館でやれるなんて思ってもいないけれど(笑)。

「講」の重要性

津田 その意味で、おふたりの「あいちトリエンナーレはどこまで幅広い作品を受け入れるの?」という投げかけは、テーマ的に考えても、クリティカルな部分を突いていると思いました。

卯城 アーティストのラインナップ的には、そういう意味でもめっちゃ期待してますよ(笑)。

津田 2年前、芸術監督が僕だと発表されたとき、アート業界は賛否両論――ボロクソに言う人もすごく多かったですね。だけど、コンセプトを発表して、参加作家を公開するにつれて、「あれ、意外と通好みで良いじゃん」みたいな反応が増えていった。

 ありがたい反応ではあるんですけど、僕はその反応見てヤバいなと思ったんですね。アート好きからのお墨付きは、いわば「はみ出し」がないということでもあるから。ふたりの対談を読んでいて共感したことなんですけど、やっぱり僕はきれいなだけの多様性は嫌だし、ジェントリフィケーションもクソだと思うわけです。とはいえ、いまではアートや芸術祭が行政という権力と一体化してそのお先棒を担いでいるような状況もある。だから、あいちトリエンナーレ2019では、芸術祭がもたらすジェントリフィケーションの暴力性や欺瞞性に対して自己言及的に触れる作品も入れられるといいなと思ってます。うまくできるかどうかは蓋を開けてみないとわからないですが......。

あいちトリエンナーレ2019参加作家である毒山凡太朗の《君之代-斉唱-》 (2019) ©BontaroDOKUYAMA

松田 その意味では、僕のファリックアート云々の話も、べつに美術館とインディペンデントなシーンを分けたいわけじゃなくて、その間をつないだり、行ったり来たりするようなほうがいい、って話なんですよね。

津田 おそらく二人がずっと話しているのって、「公」と「個」をつなぐ中間的な存在があり得るのかということなんじゃないかと思うんですよね。あえてここでダジャレ的に投げかけをすると、「公」でも「個」でもなく、それって頼母子講とかの「講」――コミュニティとしての「講」が鍵になるんじゃないかと。

 東北を取材すると、いまも大昔に生まれて、その子孫しか入れない「講」が残っていて役割を果たしている。アートコレクティヴがいま注目される理由も、それと無関係ではないだろうし、アートとパブリックの関係が強まるなかで、その対抗軸や媒介になり得るものとして、コミュニティとしての「講」が求められているんじゃないかな。

松田 なるほど。議論を呼ぶエクストリームなアーティストと、ナイーブになりすぎた社会とを、組織的な「講」が結ぶってのは、理想的な話ですね。それが津田さんにとっては、美術業界にあまりしがらみのない門外漢が率いることで、中立的な立場から行える「あいちトリエンナーレ」であって、手法的には観客のクレームなどへの理論武装の準備や、外から見た美術業界への提言だったりすると。

あいちトリエンナーレ2019参加作家であるCIR(調査報道センター)の《The Box》(2014) Director: Michael Schiller Photo by The Center for Investigative Reporting

あいちトリエンナーレは、美術業界への長期潜入取材

津田 芸術監督を任されてからはじめは悩んだんですよ。美術業界にしても、行政の公務員という存在にしろ、あまりにも自分が仕事をしてきたメディア業界と文化が違うから。でも途中で「自分のつくりたい雑誌をつくれば良いんだ」って思うようになってから楽になりました。僕が編集長で、いろんなアーティストを呼んで台割りを立てて、「情の時代」という特集をつくればいい。冒頭はインスタ映えするグラビアから始まって、巻末にはピリリとするコラムもある。特集本体には読み応えのある政治的なオピニオン記事もあれば、ほかに柔らかいコラムもある。そんな風に右も左も、硬も軟も含められるようなバランス感覚で、内容を考えています。

 もともと僕みたいな門外漢がなぜ呼ばれたかといえば、アートの業界に外から刺激を与えてくれってことでしょう。実際、初代芸術監督の建畠晢さんはそのことを公言されてますよね(*)。「あるジャンルの専門家を育成するには、そのプロセスにおいて出来る限り他のジャンルのイベントのキュレイションなりプロデュースなりを、短期間であっても経験させておくことが望ましい」「次世代の柔軟な発想をもつ“専門家”たちが、スーパー芸術監督として羽ばたく日を楽しみに待ちたい」と。

津田大介

 建畠さんの言う「専門家」とは、キュレーターのことを指しているので、つまり、僕は咬ませ犬として来ているわけですよ(笑)。その役割は自覚していますし、実際自分は美術業界に何のしがらみもないから、いくら嫌われてもかまわないと思っています。悔いが残らないよう思い切ってやるしかないなと。

 と同時に、もう少しメタな視点から言えば、僕の本業はジャーナリストなので、準備期間も含めたこの3年間は、一種の美術業界や行政の巨大文化事業への長期潜入取材とも言えるんです。世間の常識とはまるで違う力学で動く、不思議な世界への潜入取材。正直、困惑したり、腹が立つこともかなり多いわけですが、そこで学んだことはきちんと業界にお返ししないとな、と思ってます。

松田 そんな津田さんが、アーティストに期待することはなんですか?

津田 やっぱり、僕らが見えないものを見えるようにしてくれるということですね。今回の参加作家のジェームズ・ブライドルなんかは、普段はジャーナリストとしても活動しています。取材をしてエビデンスを取って、「WIRED」なんかにルポのような記事も書いている。そういうジャーナリズムと現代美術の距離の近さって、海外では当たり前なんですよね。でも、日本でアートとジャーナリズムの境界線上でそうした活動を自覚的にできているのって、宇川直宏さんのDOMMUNEとかChim↑Pomぐらいじゃないですか。ほかにいるのかもしれないけど、なかなか自分の視界には入ってこない。

あいちトリエンナーレ2019参加作家であるジェームズ・ブライドルの《ドローン・シャドー002》(2012、イスタンブール、トルコ)

 僕がアーティストやキュレーターと一緒にリサーチしていて思うのは、アーティストはジャーナリストや報道からリサーチの方法を学ぶべきということですね。反対に、ジャーナリストや報道側はアーティストから発想の仕方やコミュニケーションのプロトコルを学ぶべきだと思います。お互いがお互いの弱い部分を学ぶことでそれぞれの質が高まっていくはずなので、トリエンナーレでそのあたりを積極的に混ぜられれば。

松田 たしかにアーティストのコミュニケーションのやり方は、我流で面白いものが多いですね。Chim↑Pomも、基本海外でオフィシャルなガイドは雇わないとかね。

卯城 ガイドにコミュニケーションを任せて、上手くいった試しがない(笑)。だから、自分たちで面白そうな場所を探して直接行ってみる。次に、ウチらと相性の良い現地の人を見つけて、現地におけるコミュニケーションの方法を学ぶって感じ。

津田 僕がChim↑Pomを良いと思うのは、キャプションも含めて、アートに関心のない人もきちんと巻き込もうとしていること。それは雑多な「公」の話にもつながる。美術館に行くと、ポエムみたいなキャプションが多いじゃないですか。僕は、あれが本当に嫌で嫌で仕方がないんです(笑)。結局最後まで読んでもわからない説明添えるぐらいだったら、作品名だけにしてくれと。

 今回はラーニングチームがいるので、中学生が読んでも理解できるようなキャプションをつくろうとしているんですけど、キュレーター陣は納得しかねる部分もあるようで......。このへんのバランスは難しいですね。

松田 キュレーターの人たちは、たぶんいろんな背景を踏まえてトリエンナーレが行われている、という風に見てもらいたいんでしょうね。そもそも美術の世界って、何かを知らないってことを言いづらい雰囲気があるし。

卯城 うちらの話してきた大正の前衛美術もそうだもんね。キュレーターの人たちとかアート関係者にその話をすると、明らかに何も知らなそうなのに、「あの人が詳しいよ」とか言って、話を逸らそうとする人も何人かいた(笑)。

津田 最初に「アート番外地」と言ったのもそういうことで、二人はとても例外的で、一般的な現代美術の業界はすごく閉じていると思いますね。人間関係的にも慣習的にも。美術の人が言う「パブリック」って、美術の世界での「パブリック」でしかないように僕なんかからは見える。自分の普段の仕事はできるだけ間口を広く、わかりやすく何かを人に伝えることだから、そういう自分なりの問題意識をパブリックにつなげていく方法論を美術業界とうまいかたちで共有できればとは思いますね。

あいちトリエンナーレ2019参加作家であるアイシェ・エルクメンの《On Water》(2017、ドクメンタでの展示風景) Photo by Roman Mensing/Münster

「公づくり」という、アーティストの新しい役割

——卯城さんと松田さんは、今回、津田さんと話してみていかがでしたか?

卯城 大きい社会における「公」のあり方が変わるなかで、美術業界っていう「公」自体も変わらないといけないところにきているのは、あらためて感じた。そのとき、津田さんはアーティストには比較的自由にやってほしいって言ってたけど、アーティストもそれぞれ「個」として変化しないといけないと思っていて。いままで通りの普遍的な「個」のエクストリームの振り幅って、岡本太郎とかネオダダとか会田(誠)さん路線というか、やっぱり「個の時代」が生み出したスター観としての意味合いが強い。それはアーティスト像としてベストだけど、「公の時代」に生まれた若手はもうそうもいかないでしょ。

 最近の一連の騒動に対する(石野)卓球のツイッターは痛快だったけど、若い頃の電気グルーヴが出てるテレビ番組をYouTubeであらためてみたら、ヌードもセクハラもなんでもありだからね(笑)。そういう(時代の)土壌が産んだ「個」のエクストリームなわけで。神聖かまってちゃんのの子以来、メインストリームからはそんな存在感持った人は消えた印象がある。

津田 だからと言って、アーティストがみんなSEA(ソーシャリー・エンゲイジド・アート)に走ればいい、って話でもないですしね。

卯城 そうそう。会田さんに匹敵する「個」の概念をこの時代にどう生み出すか。そのインパクトを持ちつつ、アーティスト像を新しく解釈しないといけない。その実験こそが、たぶん「公の時代」の社会における「個」のニュータイプの実践なんだろうなと。

松田 そうだね。僕が津田さんの話を聞いていて気になったのは、社会が議論や摩擦をとにかく避けるように、雑多な感情をブロックし続けるとどうなるかってことで。その雑多性の漂白は、その国のアーティストの種類が減るってことにつながるんじゃないかと思う。社会全体で、そういう危機感を持つべきなんじゃないかな。

 そのうえで、僕はやはりふざけたいんですよね(笑)。絶望を前にしてふざけられないと、僕はもう狂うしかないから。その舞台は僕はどこでも良いと思っていて、芸術祭でもネットでも、もっといろいろやれることがあると思う。

卯城 いまみんな、知らず知らずのうちにキュレーションや公共空間の中で、取り替え可能な「個」になろうとしてるでしょ。そこから生まれる「公」の未来図やかたちって、かなり全体主義に近くなるんですよね。

津田 まったくそのとおりで、もうすでにこの社会は、20世紀とは異なるかたちのファシズムに突入してると思いますよ。権威主義国でもないこの国で9割近くの人間が「ルールは守らなきゃ」って思っている。端的に言って気持ち悪くないですか? そうやって、議論や政治性など、異質なものが漂白されたディストピアになりつつある日本の美術業界に何が必要かと言えば、それはアンデパンダン展的なものではなくて、日本版ドクメンタなんじゃないですかね。「個」で見れば優れた作家はたくさんいるけど、それが「公」と結びつく機会があまりにも少ない。「公」が育ってないということでしょう。番外地の人たちが、テーマ性を強く打ち出しながらつくる日本版ドクメンタが見たい。

 この2年間、いろいろな展覧会を見てきて思ったのは、キュレーターが企画した展覧会より、アーティストが企画した展覧会の方が自分好みだったってことですね。それは僕が日本版ドクメンタが見たいと思っていることと関係があるんじゃないかな。

卯城 アーティストの役割って、作品はもとより、もはやそういう個を生み出す状況づくり、つまりは「公や講づくり」って側面もありますもんね。

津田 Chim↑Pomは作品よりキュレーションの方が面白い可能性すらあるよね。アーティストやアーティスト・コレクティブが自発的に集まって、まさに「公」のようにして、ドクメンタのような場所をつくる時代が来るんじゃないか。その胎動みたいなものは感じます。

8回にわたりお届けしてきた連載「The Public Times」。最終回の次回は、津田大介との鼎談を終えた卯城と松田がこれまでの連載を踏まえ、「公の時代」におけるアーティストの可能性を独自に見出し、新たなアートの姿について語る。

*ーーhttps://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/library/column-interview/30162/