SERIES / The Public Times - 2019.2.20

なぜいま「大正の美術」が重要なのか?
The Public Times vol.5〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜

2018年、新宿・歌舞伎町のビルを一棟丸ごと使用し、「にんげんレストラン」を開催したことで話題を集めたChim↑Pom。彼らはこれまでも公共空間に介入し、数々のアートを展開してきた。本シリーズ「The Public Times」では、Chim↑Pomリーダー・卯城竜太とアーティスト・松田修が、「公」の影響が強くなりつつある現代における、「個」としてのアーティストのあり方を全9回で探る。第5回は、卯城と松田がいま「大正」の美術に注目する理由を語る。

構成=杉原環樹

望月桂 あの世からの花 制作年不詳、戦後

いまなぜ「大正」なのか?

ーー前回までの4回では、今回の連載のきっかけとなった大正時代のアートに触れながら、現代のアートシーンが抱えている問題点について議論がなされました。そこで第5回からは、その大正時代のアートについて深掘りしていきたいと思います。

卯城 一度ガッツリ過去にタイムスリップする必要を感じてるんだけど、今日話す大正のいくつかの動きが「一般的にはブラックボックス化していること」への違和感があるんですよね。研究は進んでいる。けど「現在」にあまり接続されていない。リサーチしてみて気づいたけど、そもそも大正自体を「マスト」で知っとかなきゃって認識が一般的にはなさそうなんです。ただの勉強不足っていう個人のせいなのか、構造的な理由なのかが問題なんだけど、研究者間でも戦後のアートと戦前のアートは分断されている/いないって認識はじつは賛否両論。

 気になって『前衛の遺伝子』(ブリュッケ、2012)の著者の足立元さんに聞いてみたら、多くの日本人に、戦前と戦後のアートを隔てる「意識の断絶」があるって上手いこと言ってた。「情報の断絶」ではなくてね。てか、そもそもそんな議論があること自体謎じゃない? ヨーロッパでは、戦後を皮切りに現代アートが始まるなんてどこの国にもありえないじゃん。

卯城竜太

松田 僕も今回改めて何冊も本を読んでみた。五十殿利治(おむか・としはる)さんや足立元さん以外では、『眼の神殿』(美術出版社)で有名な北澤憲昭さんも大正の前衛芸術に触れていて、他にもたくさんの研究者がいる。むしろこんなに研究されてんだって驚いたよ。なんでいままで「マスト」だと思えなかったんだろう。けど、それにしてもほとんどの本が読みにくいね(笑)。

卯城 本とGoogle検索を両手に読み進めないと全然わからない! 固有名とか「知っている」前提で書かれてるからね......。

松田 その点、『前衛の遺伝子』は読みやすかった。

卯城 足立さんはウチらと同世代だし、問題意識も似てるしね。聞いてみたら、実際、研究しながら、Chim↑Pomやカオス*ラウンジ、東谷(隆司)さんの活動を考えたって。それが僕に届くまでに「10年かかった」って言われたけど(笑)。

松田 それほど僕たちの周りでは、大正に対して「マスト」感が薄かった。実際、同じ無人島プロダクションの風間サチコさんが大正にめちゃくちゃ詳しいのに、僕らいままで風間さんをユニークな存在として面白がることはしても、大正を詳しく教えてもらおうとは思わなかった。岡本太郎やハイレッド・センターを知らないでアートに関わる人はゼロに近いけど、マヴォや三科を詳しく知らなくても即モグリ認定なんてされないし(笑)。ましてや「黒曜会」の望月桂や「理想展」の横井弘三に至っては、詳細に語れる人、研究者以外でいなくない?

松田修

卯城 風間サチコがいる(笑)。

松田 そうか(笑)。けど戦前の日本の美術って括りで言えば、岡倉天心や黒田清輝なんかは歴史上「マスト」だと思われてる。岸田劉生なんかの「白樺派」も、教科書で見かける。でもダダイズム以降の大正前衛のムーブメントは......。

ーーそうでもないと。

卯城 そうなんですよ。まあ黒田清輝は近代美術で、その世界のマスターピースでしょ。だから近代の日本を語る上で欠かせないってのはわかる。でも、ダダ以降は現代美術にしか見えないもん。近代美術の本流にとったらただの異端児だったわけで、そういう視点から見たらそりゃ「マスト」ではない。ただ、日本の近代と現代は戦争で区分されるけど、アートの近代と現代はそんなにはっきり分かれてないじゃん。更新自体グラデーションだしね。

 話を「公の時代のアーティスト論」に戻すと、大正の前衛芸術ってハチャメチャだけど、けっこう「苦しい時代」の産物でしょ。五十殿さんの本でも言われているように、日本に前衛前夜が到来するのは、大逆事件で幸徳秋水が死刑になったり、日韓併合があった明治の最後から大正の始まりあたりにかけてだよね。社会運動をしたら絞首刑になるってアピールされて、変節した人も多かった。石川啄木が「時代の閉塞の現状」って評論を出してるくらいだから、閉塞感はハンパなかったんじゃない? 思想の自由なしに表現の自由なんてありえないじゃん。そんな時代なのに、明治43年には『白樺』が、翌年には『青鞜』が創刊されて、日本のフェミニズムや前衛がいよいよって感じになる。

『白樺』第1巻

 その後、大正初期から戦争直前まで実験的なアートが続出するんだけど、その間も、関東大震災、大杉栄の虐殺、治安維持法による取り締まりとか、前衛は苦難続きなんだよ。それに比べて1960年代の前衛は、同じく過激でパフォーマティブなんだけど、世の中の空気的には(こう言っちゃなんだけど)やりやすそうだよね(笑)。もちろん実際見てないから知らんけど、戦後民主主義を背景に、個のハッチャケっぷりと公の大らかさが凄い(笑)。まさに「個」の時代というか。それに比べて、戦前は俄然「公」ありきの時代でしょ。そこにいまがリンクする。

松田 いまはダダカン(糸井貫二)が出現しにくい、チンコ出しにくい世の中ってことね(笑)。戦後は社会や世論が、つまり「公」が、エクストリームな「個」を許容してたというか、大歓迎にも見える。公共事業の大阪万博と岡本太郎の作品である《太陽の塔》の関係なんて、その象徴だね。そう考えると、奇抜なザハ・ハディッド案が廃案になり、比較的無難なデザインに落ち着いた新国立競技場の話も、金だけじゃなくて、「個と公」の問題にも見えてくるね。だって、大阪万博当時はそんな無難なマジョリティの意見を反映させるよりも、強烈な「個」こそが求められたわけでしょ。「公」と「個」の共犯関係がうまくいっていた。オウム事件直前ですら、訳わかんない新興宗教の教祖が公共電波に乗せられても、みんな笑えてた。

 大正が「自由」それ自体を目指す「公」の時代なら、戦後は「自由」を謳歌する「個」の時代だったのかもしれないね。そしていま、僕らは再び「個」よりも「公」が存在感を増している時代に突入していると考えているわけだ。大正の「公」は主に公権力の問題で、いまはそれだけじゃなくて複雑に感じるけれど。

卯城 そうそう。「意識の断絶」の謎について、大正を華麗にスルーしてた当事者として自分のことを振り返ってみると、結局こんな疑問に辿り着くのよ。「じゃあ自分はいままで、大正や『公』の時代の状況にリアリティを持って目を向けれていたのか?」って。みんなもそうじゃない? 実際、《ヒロシマの空をピカッとさせる》(2009)くらいまでは、僕の主題は明らかに「平和なマッドさをどう表すか」だった気がするんだよね。「アメリカの息子」たる「戦後」の「実感のない平和」に生きていて、飢えや戦場にリアリティが無いって開き直るのと同じ。

Chim↑Pom 広島の空をピカッとさせる 2009 ヴィデオ(5分35秒)、ラムダプリント

松田 「大日本帝国って別の国」くらいの感覚だったよね。右翼や左翼は特別すぎる人たちの話だと思っていたし。でも、何も考えずに「戦車カッケー」とか言ってて。街中で監視されてる感覚もないから、歩きションや万引きはよくある日常だった......ってのは尼崎だけか(笑)。

卯城 立ちションじゃなくて? 歩きションは流石に尼崎クオリティでしょ(笑)。ただ、同じ「公」の時代でも、戦中は戦後を産んだ親みたいなもんでしょ。歴史的にも派手だから、反面教師として裏腹に、戦争画や原爆など戦中のモチーフは再三戦後に採用されたじゃん。平和な時代にいて「戦争にリアリティがない」エクスキューズは前提で。それが世界的にも伝えやすく、戦後の日本のアートのひとつの戦略にもなれた。

 だけどいま、報道の自由度ランキングはガタ落ちし(編集部注:2018年のランキングで日本は67位)、表現の自由は形骸化し、炎上とセキュリティ向上で官民による相互監視社会はガチガチになった。こんな来たるべき(いまの)「公の時代」を想う感覚って、以前はSF的なもんだった。みんなもそのストーリーの中で生きていたでしょ。

松田 SF的だった「公」の時代が来ちゃったことにより、大正の状況に対するリアリティが増したってことね。これについては美術評論家の福住廉さんが、「クラスの目立たなかったヤツが、クラスのムードが変わったことにより、急に存在感を増した」って言ってた。つまり、変わったのは目立たなかったヤツそのものじゃなく、クラスのムード。そして大事なのは、その変化により、その目立たなかったヤツをどう評価するかってリテラシーがクラスメイトの中で上がったってことだと思う。10年前といまを比べても、アートの見方もそれを取り巻く状況も、だいぶ変化があると思えるし。

 世界が「公」の時代に突入し、アーティストはより「態度」が重要視されるようになり、ポリティカル・コレクトネスやアート・アクティビズムが主流化し、日本でもスーパーフラットがChim↑Pomやカオス*ラウンジに変異した。それらを踏まえた目線を獲得すると、「あれ? こいつ超『マスト』じゃね?」と、大正のいくつかの前衛美術の動向を見直せるようになった。

卯城 そう。それで僕らに突然刺さったのが、大正にあった2つの出来事なんだよね。望月桂率いるアートコレクティブで、「大正のシチュエーショニスト・インターナショナル」とも呼べそうな黒曜会と、「大正デモクラシー最期の打ち上げ花火」とも言われる大理想展(大正15年)。両方とも偶然アンデパンダン展なんだよね。

松田 2つとも、以前のアートの見方では「マスト」ではなかったでしょ。以前はダミアン・ハーストや村上(隆)さんが「Power 100」でトップアーティストだったのに、いまはアイ・ウェイウェイとかヒト・シュタイエルみたいな、「社会へ直接刺す」ようなアーティストが上位にいたりする。アートの中心地だなんて絶対言えない状況の日本でも、夕方に民放のニュース番組で「社会派の」ストリート・アーティストとしてバンクシーが紹介される。そのくらいの変化がある。そりゃ、「社会へ直接刺しまくろうとした」望月桂がいきなりフレッシュに見えたりもするよ。

卯城 理想展は福住さんが研究中で、望月桂は足立元さんがやっとアナキストの文脈じゃなく美術の文脈でフックアップした。望月桂なんて、僕にはもはや「日本の現代美術の父」くらい重要に見える。美術史ってのは、ほんとに永遠に未完成なもんだな、とつくづく思うよ。なのに新人作家までがその気になって、「美術は文脈」とかいまある「とりあえず」の美術史のストーリーに合わせて作品を作るでしょ。「公」のための「個」になりきっちゃうのと同じ。乗っかるのは良いけど同時に疑えよって思う。

2018年のPower 100

黒耀会の先駆性

——そもそも、望月桂というのはどんな人物なんでしょうか?

卯城 東京美術学校(現・東京藝術大学)で絵画を学んで、同期が、岡本太郎の父親である岡本一平と、画家の藤田嗣治。この同級生3人のその後の運命と影響を戦後まで見ていくと、3人が主役の大河ドラマみたいにドラマチックに楽しめます(笑)。卒業後、3人はバラバラの道を歩むんですね。藤田は渡仏して成功、帰国して国民的な戦争画家になり、戦後は日本を捨てる。岡本は朝日新聞社に入社して人気漫画家になり、太郎を連れて渡仏、太郎は戦後日本のアートの急先鋒になる。いっぽう、前衛の始祖のひとりになる望月桂のスタートはゆるゆるで、「へちま」って定食屋のようなものを始める。ここにアナキストが集まるようになって、タダ飯を食わせたりしていたらしい。

松田 その「へちま」の広告ってのがいま見ても面白い。「腹がへつては/どうもならん/先づ食ひ給え/飲みたまえ/腹がほんとに/出来たなら/そこでしつかり/やりたまへ」というね。食堂には望月桂自作の雛人形が飾ってあって、皿などの食器も自作だったらしい。その雛人形が裸体だったり、ユーモアのセンスもある。

卯城 そこに集まっていた人たちと桂さんがまず立ち上げたのが、1917年に結成された「平民美術協会」。設立にあたっての広告では、美術は売り物じゃないとか、専門家の手に独占された美術を一般民衆のもとに取り戻すことが謳われている。1917年ってロシア革命が起きて、マルセル・デュシャンが《泉》を発表して、トリスタン・ツァラが雑誌で初めて「ダダ」という言葉を使った年でしょ? つまり世界のラディカルさとは同期してた。

松田 平民美術協会では、絵画教室で労働者に絵を教えることも企てられていた。たぶん、二科会のようなハイカルチャーとしての美術に対する憤りがあったんじゃないかな。「お芸術」へのカウンター。

卯城 この平民美術協会のメンバーの多くが黒耀会の結成に参加するんだけど、黒耀会の宣言にはこう書いてある。

現代の社会に存在する芸術は、在る特殊の人々の専有物であり、又玩弄物の様な形式に依って一般に認められてゐる。こんな芸術は何処にその存在を許しておく価値があらう。此様なものは遠慮なく打破して吾々の自主的なものを護ねばならぬ。これが此の会の生まれた動機である(黒耀会宣言書、1919年)

黒耀会宣言書

 で、特筆すべきは計4回(2回の説もあり)開催された展覧会の参加作家たち。桂さんのほかに、アナキストの大杉栄、コミュニストの堺利彦、柳田國男の右腕になる民俗学者の橋浦泰雄、演歌師の添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)、ほかに島崎藤村や高村光太郎も参加している。要は美術家だけじゃなく、当時の幅広い文化人が一堂に会しているんだよね。もちろんみんなアートにおいてはド素人。音楽ライブあり、パフォーマンスありの一大イベントだったらしい。じつは僕、ノイズミュージックやってた20歳そこそこの頃、Chim↑Pomの林(靖高)と、好きすぎて添田唖蝉坊の墓掃除をしたんだよ。墓参り行ったら荒れ果てたから、悲しくて(笑)。

卯城竜太

松田 面白いのは、望月は普通に絵が上手いのに黒曜会ではアカデミックな技術を自ら封じているんだよね。洋画か日本画かっていう近代美術の議論から外れ、描く対象を簡略化した、俳画(俳句を賛した簡略な絵画)による影響が強い淡彩画を作風にした。俳画もマンガへとつながる源流のひとつだから、マンガと絵画のハイブリットをこの時点でやっていたとも考えられる。黒耀会の宣言を踏まえた、当時主流に見えるタブローへの意識的なカウンターだったんじゃないかな。

 つまり、パッと見絵画に見られないサブカル的なものを絵に持ち込もうという意識。この頃エスキースや習作はつくられても、マンガはおろかドローイング的なものをそのまま作品として見せる意識はまだないしね。僕はもともと、大正には天才的なタブローを残した岸田劉生や萬鉄五郎、村山槐多などのイメージを持っていたから、そこと比べると望月桂の異質さはより際立つね。

 さらに、望月はその手法に、当時西洋の最先端だった未来派のスタイルを取り入れている。注目すべきは、望月ってアナキストだから、反機械文明的な文脈でそれを使うんですよ。機械礼賛の未来派とは思想がまるで逆なわけ。労働者が機械によって傷つけられる場面を描いたり、だいぶ皮肉っぽい文脈でそれを使っている。

 で、なかでもクソやばすぎるのが《遠眼鏡》(1920)という、現人神である大正天皇をスキャンダラスに描いた作品。連載第1回でも触れたけど、知的障害説があった天皇が証書を遠眼鏡に見立てた騒動を俳画×未来派スタイルで描いた作品。そういう全背景を読み込むと、日本史上トップクラスの問題作であると断言できる。

望月桂 遠眼鏡 1920 紙に淡彩 95.0×72.0cm 個人蔵

卯城 タブロー的にマンガ風な絵を美術の文脈で展示したのって、望月桂と黒曜会が初めてなんじゃない?

松田 初めてと断言することは難しいな。でもその意義はめっちゃ大きいと思えるよ。竹久夢二のような印刷媒体でマンガを描いていた人が、そのあといわゆる本流の画家になるケースはあったけど、やっぱりタブローとマンガの境界の意識は残っていたし。だけど望月はマンガのような絵をそのままタブローのサイズで描いて、作品として提出している。それが当時の洋画壇に認められることはまずなさそうだから、望月桂主導のアーティスト・ランな展覧会での出品って意味も、いまのオルタナティブ流行りを考えるとめちゃめちゃデカい。

卯城 何重にも捻れてるな......。アクティビストなのに、スーパーフラットとかいまのカオス*ラウンジ界隈のひとつの源流にも見えてくるのがオモロい。額装せずテープで壁に作品直貼りとか、展示方法もナウいしね(笑)。まだインスタレーションの概念もなかったころでしょ。けど、黒曜会はオタクじゃなくポリティカル系だから、展示作品はガンガン警察に押収されるんだよね。で、桂さんナイスなのは、その警察署に行って、押収された作品群の盗難届とか出してるんですよ。

 改めて、黒耀会からいまにつながるものって、マジで膨大に見える。マンガ系美術やポップ・アートだけじゃなく、現代的アートコレクティブの形態としても早すぎる。政治でいうと、プロレタリアアート、アートアクティビズム、シチュエーショニスト・インターナショナルや去年のターナー賞ノミネートされたフォレンジック・アーキテクチャー、DISなんかとも親和性高いし、美術/非美術の境界を問うセンスや宣言を引用して、桂さんを民藝の始祖だとも言う人もいる。クロスジャンルで言えば、「時代の体温 ART/DOMESTIC」展(世田谷美術館、1999年)やFREEDOMMUNE、Chim↑Pomのライブを一体化させた展覧会なんかにもつながる。そもそも黒耀会は日本初のアンデパンダン展だと言われてるしね。

フォレンジック・アーキテクチャーのウェブサイトより

松田 知れば知るほどいまのアートに直結してるんだけど、最近まではアートっていうよりはアナキズムの文脈で語られてたっぽいね。当時のアナキズムって、いまの僕から見ると、左翼の過激派で、テロリスト化もするような思想で、社会主義の中でも敗北した思想に見える。そんなアナキズムの文脈のみで語られるなんて、低評価すぎじゃない? アート文脈の評価の低さっぷりがヤバイ例で言えば、風間サチコさんが望月の絵を持っているらしいんだけど、「ヤフオク!」で1000円くらいだったって(笑)。黒曜会の出品作品のほとんども長野の望月家の蔵に眠ってるらしいし......。

卯城 1000円て残念すぎるわ(笑)。ていうかこんな現代的な運動、それ以前にもあったのかな。歴史を遡ったらすぐに絵画や彫刻を中心にしたフュウザン会、つまり見た目的には近代美術でしょ、美術の区分の正確性はおいといて。としたら、いま我々がやっている日本の現代美術的な表現は(あくまでいまのところだけど)ここがスタートに見えるって言ってもおかしくなくない? で、日本はアジアの中で最速でアートが活発になった国だって言われてるよね。なら「欧米のアート×ドメスティックなセンス」が当然になったいまのアジアのアートの中でも、望月桂と黒耀会はかなり重要な位置にいるように思うな。

望月桂と理想展、あの世からの花

——その黒耀会の活動は、関東大震災(1923年)の起こった時期に途絶えていますね。

松田 震災に乗じて大杉栄が憲兵に虐殺されるんです。思想の中心人物を失ったことによって、黒耀会の活動は縮小していったみたい。その退潮と並行して望月桂の活動も収縮していく。

 それと代わるように、黒耀会に刺激を受けたと思われるMAVOやアクション、三科のような次の世代の過激なコレクティブが震災を機に活性化するんだよね。

卯城 黒曜会が生まれたのは大逆事件と日韓併合後でしょ。MAVOたちが活性化するのは震災と大杉栄虐殺直後。あの人たち、ヤバくなる度にスイッチが入っちゃってるよね。

 とにかく、桂さんが次に作品を発表するのは震災の3年後、大正最後の年(1926年)の理想展。このときの出品作がまたヤバい。大杉の復讐でテロを企てた仲間の2人が逮捕されて、ひとりが死刑判決に、ひとりが終身刑になったんだけど、理想展には前者を題材にした、その名も《死刑判決》という絵を出しているんだよね。裁判の傍聴券がコラージュされた、まあキモい絵なんだけど(笑)。

 でも、超絶エモいのは、終身刑になった仲間を扱ったもうひとつの作品。その人は刑務所の中で死んじゃうんだけど、桂さんはその遺骨を引き取りにいったらしい。その後、その遺灰を長野の自宅の庭に撒いて、植物を一緒に植えた。で、そこで咲いた花を葉書に押し花にして、かつての仲間たちに送りつけたらしい。《あの世からの花》って書を添えて。ヤバすぎでしょ。

望月桂 あの世からの花 制作年不詳、戦後

松田 《あの世からの花》は、メールアートとして見てもヤバイ。あと、望月についてよく言われるのは、戦中に「変節」したってことで。体制側に協力した形跡もあるそうで、ほかのアナキストからは「残念だ」とか言われているんだけど、僕らはアナキストとしての評価にはあまり興味がないんですよね。

卯城 戦中に鳴りを潜めながら、戦後に押し花の作品を出していることから見ても、一筋縄ではいかないよ。なんせ初個展開催が亡くなる8ヶ月前、88歳のときだよ。アーティストとして相当捻くれている(笑)。黒耀会後に美術から距離を置いた桂さんは、読売新聞のマンガ家になるんだけど、そのペンネームが犀川凡太郎っていうんですよね。これ、最近頭角現してきてる若手作家の毒山凡太朗の名前の由来だよ。もちろん風間サチコ命名(笑)。

松田 現代にも望月桂の「前衛の遺伝子」は、しぶとく伝わってたわけか。超「マスト」だよ! 桂さん!