理想大展覧会とは何か?
松田 大正の前衛芸術は反公権力的な運動と密接で、現代のアイ・ウェイウェイやプッシー・ライオットなんかとも親和性がある。けど、日本で反公権力について語ると、語るだけでもソッコー「左翼」認定される。まあ、この際それはいいとしても、問題は、その安易なレッテル貼りによって、オーディエンスが作品自体をスルーしがちになるところ。作品よりも、思想の良し悪しの話ばかりになる風潮あるよね。例えば竹川宣彰さんとかを、そう見がちな所は僕にもあったんだけど。まぁウチのオカンもどんなに仲良くなってもコアな政治と野球の話はするなって言ってたし(笑)。
政治とアートの関係はつねに議論になるよね。イタリアで未来派の評価がずっと低かったのは、作品自体よりもファシズムとの関係があったからだし。前回話した望月桂作品1000円事件は、彼がアナキストってことも原因のひとつだと僕は思う。とくに日本ではアーティストはノンポリであって欲しいと思われてるしね。日本でも大人気のピカソは、ゴリゴリの共産党員だったんだけど。ちなみに僕は、右でも左でもない《さよならシュギシャ》(松田が2017年に制作した作品)です(笑)。
で、卯城くんから聞いた大正の「理想大展覧会」は、そういうポリティカルな要素云々を超えて、あらゆるものがごちゃ混ぜになった、把握不能な展覧会として惹かれたんだよね。展覧会目録の表紙には、「世界的珍奇」とあり、当時の新聞にも「日本始まって以来の珍奇展」との展評がある。
卯城 そうそう。僕らが「理想大展覧会」にガッツリハマったのは、それこそ政治的派閥がアツく議論されてた時代なのに、そういうなんやかんやを超越した突然変異的な祭りに見えたからじゃん。実際、福住さんから2017年に教えてもらった当時は衝撃を受けて、僕の大正への扉になった。当時なんでそんなに新しく見えたのかは謎だったけど、第1回で話した通り、アンデパンダン自体への興味と相まって、どういうわけか「にんげんレストラン」に変異した(笑)。
ひとつ面白かったのは、アンデパンダンをリサーチしてみたら、アメリカではいまはあまりやられてないらしいということ。何人かの国際的なキュレーターに聞いたらそんな感じだった。そんなガチな欧米の「キュレーションの時代」に、東京でとち狂ったアンデパンダンが生まれたら、それこそなんかアーティストからの一石に見えるだろうなぁとかは夢想した。
ーー福住さんが研究していた大正時代のアンデパンダンとはどういったものだったんですか?
福住 「理想大展覧会」は、1926年(大正15年)に横井弘三という美術家が企画したアンデパンダン展なんです。横井はもともと二科に所属していた画家で、思想家の高山樗牛の名前をとった「樗牛賞」を受賞するなど、将来を嘱望されたホープでした。しかも樗牛賞を受賞した翌年には、はやくも二科賞を受賞しています。だから本来はアンデパンダン展なんか企画する人じゃないんですが、そんな横井を変えたのは当の団体展でした。
関東大震災で東京が壊滅した後、その復興の象徴として東京府美術館(現在の東京都美術館)が開館したんですが、その開館一発目の「聖徳太子奉賛展」はいくつもの団体展が集合したセレモニーだったようです。ただ日本画や彫刻など、いろんな分野から優秀な美術家が公募で選抜されたのに、なぜか洋画だけは公募ではなく画壇の重鎮たち(例えば古賀春江とか神原泰)が独り占めしてしまった。そのことに横井は怒り狂ったんです。全然民主的ではないと。横井が面白いのは、それで抗議するだけではなく、誰もが等しく参加できる、まことに民主的な理想郷としてのアンデパンダン展を、奉賛展とほぼ同じ時期に開催したところ。そういう意味で、「理想展」なんです。
卯城 カウンターとして、ですね。
福住 奉賛展とほぼ同じ時期にやったから、ほとんどあてつけ(笑)。会場は東京自治会館。東京府美術館のすぐ隣で、現在の上野公園の野球場のあたりにあったようです。もちろん美術館ではないので、会場も狭いし、天井も低い。展覧会場としては決して恵まれているとはいえない空間の中に、記録上に残されているだけで、じつに106名もの参加者による作品が一挙に展示されました。会場を写した写真を見てみると、あらゆる造形が密集しているばかりか、天井からもつり下げられている。展覧会場というより、ドンキの店内みたい(笑)。
面白いのは、「理想展」は非民主的な美術界へのアンチテーゼとして開催されたんですが、参加したのは必ずしも美術家だけではなかったという点です。横井は、いわゆる「大正期新興美術運動」の只中にもいたので、岡本唐貴や柳瀬正夢といった美術家も「理想展」に参加していたんですが、そのほかにも美術家なのかなんなのか素性の知れない人たちもたくさん参加していた。例えば、自分で考えた発明品を展示するやつがいたり、料理を振る舞うアメリカ帰りのおばあちゃんがいたり、自分の畑でつくった野菜を販売するやつがいたり。あとは「おれが作品だ」と言って自分の身体に値札をつけて会場をウロウロしていたやつもいたらしい(笑)。横井は「理想展」の規約の中で「あらゆる造型を出陳する抱擁力」という言い方をしているんですが、その抱擁力は文字どおり当時の美術と非美術の境界をも呑みこんでいたわけです。
卯城 新興宗教や占いとかも参加してますよね。じつはマヴォのメンバーなんだけど。初日はメーデーだったからデモも行われたりとか。子供の絵や、「横井のバカヤロー」って謎の張り紙もチャーミングですよね。若かりし頃の棟方志功もいて、あまり絡まないマヴォと望月桂が一緒だし、まさに大正オールスターズ。あと販売についての規約の文もイケてます。「理想展には、無名作家が多く、従って生活にも楽でない方が多いので、会場の一部で、ご自身の関係ある、雑誌、著書、雑品を御自由に売る事をおすすめします。(全て売品に対して会へ、手数料は不要です)。」って。「おすすめ」してる販売の品になぜか「作品」は含まれていない(笑)。
松田 横井が、この「理想展」を「理想郷建設事業」のひとつとして考えていたのも最高だよね。三科を除名された元アクションの神原泰や、すでにMAVOから距離を置きはじめていたとも言われる村山知義と他のマヴォイストっていう異なる考えを持ちはじめていたアーティストたちを再結集させている。横井の「抱擁力」ヤバイ。横井自身は「理想展」を「宇宙の赤ん坊」と称していたらしい。実際、「アートではない」と思われているようなものをガンガン取り込んでいて、いまの僕らにも「アートとは何か?」を考えさせてくれる。形式を疑う反芸術的な側面はもちろんのこと、まさしく「アート」への挑戦を感じる。これが昭和ではなく、もう大正にあった。
福住 そう。だから村山知義なんかに言わせると、60年代の読売アンデパンダン展とか反芸術なんか、ちゃんちゃらおかしい。「こんなのおれたち大正時代にやってたよ」と言ってたって。
松田 そりゃ言うわ! しかし、ここでも「なぜ大正の前衛が歴史的にマストになってないか」問題が浮上するね。
忘却された大正
福住 みんながみんなで大正時代を忘却したわけでしょう。いまから見ると60年代の反芸術はたしかに熱い時代だったように思えるけれど、その見方はじつは戦後を出発点にした特定の歴史観にすぎない。だいたい「理想展」みたいなやばいアンデパンダン展が敗戦のほんの20年前に開催されていた事実を、60年代の人たちはほんとうに知らなかったのかな? 仮に知らなかったとしても、「読売アンデパンダン」ぐらい大きな展覧会だったら大正時代の人たちも見に来ていたはずで、だったら両者がまったくの没交渉だったとはとても思えない。
実際、戦前から「新人画会」などで活躍していた鶴岡政男は60年代のヒッピーカルチャーにどっぷり漬かっていたわけだし、何しろLSDを注射したら画家はどんな絵を描くのかっていう、いまだったら絶対ありえないテレビ番組の企画で被験者になったりしていたほどだから(笑)。大正時代の忘却が意図的なものなのか、天然なのか、よくわからないけれど、60年代の人たちに話を聞けるうちに聞いておきたいよね。ぼくらが思っている以上に、戦後美術というストーリーは根深い。
松田 岡本太郎は意図的な気がするよね。岡本ハンパナイヨ。
卯城 太郎さんまじハンパないよ。これについては五十殿利治(おむか・としはる)さんの分析が面白いけど、戦後すぐの画文集を読むと、太郎さんとってアヴァンギャルドとは「過去からの断絶を前提として、現在を奪取する挑戦であり、『今日と将来の問題』に関わる、したがって後ろを振り返ることをしない、身を賭してひたすら前進するもの」だったと。
もしこの通りだとしたら、太郎さんすげー戦略家だなと思いません? だって、戦前の日本に面白いことがあったのを知る立ち位置にはいたように思うんだけど、今日と未来のために過去ーーつまり「戦後」をパッケージする戦略として前衛を用いて、過去との断絶を宣言したってことだから。戦前のヨーロッパの芸術運動についてはよく語っているから、あくまで「日本の文脈」としてね。「絵画の旧石器時代は終わった」って名言が良い例じゃないですか? 相変わらず超「個」っていうか、文脈なんて「公」よりも太郎が上回っている。なかなかできない芸当ですよ。
福住 たしかに万博の会場が潰された後も、万博へのアンチテーゼだった《太陽の塔》だけがしぶとく残っているように、岡本太郎はしたたかな戦略家だと思う。戦後のヨーロッパで流行りだしたアンフォルメルをいち早く日本に紹介したのも太郎だし。アンフォルメルというのは、輪郭線で描かれた絵画ではなくて、画家のアクションとか画面のマチエールを強調した絵画のことで、フランスの美術評論家、ミシェル・タピエが当時のヨーロッパで一大キャンペーンを繰り広げた。それに乗っかったのが、じつは岡本太郎。太郎は1956年に日本橋の高島屋を皮切りに全国を巡回した「世界・今日の美術」展に関わっていて、これは後の「具体」やら「九州派」やら、戦後美術を語るうえで決して欠かすことができない美術運動に大きな影響を与えた。
つまりアンフォルメルは現代美術の起源のひとつとして歴史化されているけれども、起源というのは必ず起源の前を封印するから、太郎はアンフォルメルを日本に輸入することによって、結果的に大正を隠蔽したとも言える。だいたい岡本太郎からしたら村山知義はヨーロッパに留学した先輩にあたるわけで、知義は戦後は演劇に行ったにせよ、知らないわけがないんじゃないかな。やっぱり確信犯だと思う。
松田 超「個」だよね。ヤバイ(笑)。
福住 歴史化されるということは、ようするに整理されるということだから、どうしても生々しい面白さが半減してしまうというところはあるのかもしれない。例えばネオダダイズム・オルガナイザーズは60年代の代表的なアート・コレクティヴだけど、そもそもその内側には赤瀬川原平さんとか荒川修作さんのような美学派と、篠原有司男さんのような肉体派が混在していた。その後のハイレッド・センターはどちらかといえば理知的でコンセプチュアルだったから、結果的に赤瀬川さんは肉体ではなく概念の方向に行った、とか。歴史的に整理するとそうなるんだけど、でもいちばんおもしろかったのは、たぶん整理されないまま混在している状態で、理想展もそうだったんじゃないかな。
いまでは、五十殿さんが命名したように「大正期新興美術運動」と一括りに整理されるけど、理想展の中にはーーそれこそ美術家ではない人も含めてーー有象無象が蠢いていたわけで、その後にプロレタリア美術とかシュールレアリスムとか、いろんな方向に分裂していく直前の段階としてあった。本人たちも歴史に名前を残そうなんてさもしく考えていたわけではなかったんだろうけど、だからこそそういう未整理で混沌としたが状態がいちばん面白いんじゃないかな。
超「個」がいたから実現できた
卯城 その「内部矛盾」したカオスな状態がひとつにまとまりオモロくなったって、連載第3回の「多様性」とか、「個が集まっちゃった末の公共か、作られた公共にセレクトされる個か」って議論の真髄ですよね。キュレーションが無いことを良いことにした混乱(笑)。それでひとつ特筆すべきなのは、理想展は読売アンデパンダン展と違ってアーティスト・ランだったじゃないですか。アンデパンダンって、アーティストって強い「個」がバラバラに集合する催しでしょ。で、キュレーションもなかったら誰が何をもって「公」的な秩序になり、一体感をつくるのか。理想展の場合、それが横井さんという、なんとも愛されキャラのアーティストの「包容力」だった(笑)。横井さんが、離合集散していたコレクティブのムーブメントのなかで、比較的無所属だったからできたってのもあるね。けど60年代は読売が作った場所にみんなが集まったわけでしょ。結果読売のギブアップで終わるわけだけど、構造的には、やっぱどこか「エクストリームな個」が企業の公的プログラムをめちゃくちゃにできていた、「個」尊重の時代。
松田 横井弘三も岡本太郎と同じく超「個」だよね。質は大いに異なるけど。いま横井弘三に近いことを実践中なのは、DOMMUNEの宇川直宏さんかもしれない。宇川さんの活動は、「公」共電波に対するカウンターでもあるわけだし。とにかく「公が個化」して社会や文化に行き詰まりを感じさせると、あらゆる「個」を受け入れる、わけわかんないものを容認する超「個」が、新しくゆる〜い「公」を形成するストーリーは面白いね。八方美人の実践には、僕も自信があるし(笑)。
福住 たしかに超「個」が新たな「公」を緩やかに形成するという観点から歴史を見直すことはできるのかもしれない。今回は大正を再発見するという話が中心だったけど、例えばヨーロッパで言えばハラルド・ゼーマン(1933〜2005)。もう亡くなったけど、世界的に著名なキュレーターで、まちがいなくエクストリームな「個」だよね。あまり言及されることはないけど、じつはゼーマンは1972年にドクメンタ5を企画していて、これが大正時代の「理想展」のようなやばい雰囲気だったらしい。
例えばヨーゼフ・ボイスが会場で観客と政治談義を繰り広げたり、ハンス・ハーケがかなり具体的で政治的なアンケート調査をして、観客からの回答を会場に掲示したり。「いま選挙があったらどの政党を支持するか」という質問だけじゃなくて、「カッセル市、ヘッセン州、ドイツ政府が税金でドクメンタを経済的に援助しているのに賛成か」とか「共産主義的組織のメンバーは官僚からしめだされるべきだと思うか」とか、むちゃくちゃ尖りまくってる(笑)。それからヘルマン・ニッチェとかオットー・ミュールとか、ウィーン・アクショニズムの連中が動物の血まみれの贓物を使った惨劇の写真を展示したり、黒人男性が複数の白人男性たちにリンチを受けている、かなり際どいインスタレーションもあったみたい。
卯城 ヘルマン・ニッチェは「にんげんレストラン」でも展示しましたね。
福住 しかも政治ポスターもあれば広告もあり、SFからキッチュ、精神病者のイメージまで、非芸術の材料もふんだんに展示されていた。あまりにもカオスだったので、当時の新聞が「ドクメンタ6は開かれてはならない。ドクメンタ5はひとつの終末だからだ」なんて酷評する記事を掲載したほど評判が悪かった。でも、見方を変えれば、ドクメンタ5はゼーマンというエクストリームな「個」が新しい「公」を育むメディアだったのかもしれないね。
松田 ゼーマンは「キュレーションの時代」をつくったひとりですもんね。僕らは、キュレーション主導すぎてアーティストが追従するだけに見えてしまう展覧会やアートイベントを、「個化した公」のキュレーションと「代替可能な個」のアーティストとして前に話したけど、その時卯城くんが理想として話したように、キュレーターもアーティストも「エクストリームな個」としてしのぎを削れば、歴史が変わるようなカオスでヤバイ展覧会が出来上がるって良い例かもしれない。その際は興行的なリスクが発生するわけだけど。
卯城 「にんげんレストラン」も赤字だったしな……(笑)。
歴史研究はつねにオンゴーイングであるべき
福住 いずれにせよ歴史は完成された物語というより、絶えず語り直される未完成の物語。グラフィティーのおもしろさを知った瞬間に街の見方ががらりと変わるように、存在していなかったわけではないのに、急にその輪郭がクリアに見えるようになることがあるし、逆にちゃんと見ていたはずなのに存在感が乏しくなって見えにくくなることもある。つまり、ぼくらの視点はじつはそんなに確かなものではないんだよね。なので大正時代がブラックボックス化されているというと、何やら陰謀論じみた話に聞こえるかもしれないけれど、ぜんぜんそんなことはなくて、むしろ大正時代の存在感が増してきたということは、それだけ現在の時代が急激に変化してきたということ。例えば最近の明治礼賛の動きが典型的だけど、政治社会が全体的に右傾化しているからこそ、「個」を確立しようとしていた大正が立ち上がっているのかもしれない。現在の状況がさらに変化すれば、大正ではなく、また別の過去がよみがえることだってあるわけだし、歴史研究はつねにオンゴーイングであるべき。
卯城 ほんとですよね。でもオンゴーイングだとはいえ、日本のアートの通年史はやっぱいまのところでも欲しいよね。専門書によって情報が飛び飛びだから、歴史の流れが見えづらい。
松田 中ザワヒデキさんの通年史も1945年からだったよね。てか、卯城くん自作ですげー細かい年表作ったよね。2日くらいで。あれ笑ったわ。
卯城 明治17年(1884)年のスーラやシニャックらによる「アンデパンダン協会設立」から始まる、桂さん(望月桂)、岡本一平、藤田嗣治の同級生3人を主役にしたやつね。昭和38年(1963)年の岡本太郎によるハイレッドセンターの展示のテープカットと、翌年のオリンピック開催、「ガロ」創刊まで続く。太郎は一平の息子、ガロを創った「カムイ伝」の白土三平は、大正期新興美術運動の中心人物・岡本唐貴の息子でしょ? そして子どもだった僕へのサンタクロースからの贈り物は「カムイ伝」で、ハイレッドセンターはChim↑Pomへの影響モロだからこれでOK……ていう超偏った年表です(笑)。客観的な年表に出会えなかったから始めたんだけど、結果的にはやって良かったよ。自分に関係する歴史の編集はDIYが一番!(笑)
福住 いや、卯城くんのあのDIY年表こそ、歴史研究の理想だと思う。現在の自分から出発して歴史を深掘りしていくと、見えにくかった系譜がどんどん見えてきて、いろんなつながりとか風景が広がっていく。大正が浮上したのはあくまでもその結果でしょう? いわゆる「通史」というのも、客観的に見えるけど、じつは主観的で個人的な関心にもとづいているわけだし、今後それが可能であるとすれば、そうやって寄り集まって集団でやる仕事になるような気がするんだよね。というか個人が単独で客観的な歴史を記述するというスタイルは、いまにして思えばじつは非常に昭和的だった。美術史家であれ美術評論家であれ、誰か特定の「個」が美術史という「公」を担うというのは、松田くんが言う「エクストリームな個」のモデルのまんまでしょう。卯城くんが言うように現在が「公の時代」になりつつあるとしたら、そういうある意味でマッチョで「エクストリームな個」を対置させるだけでは時代錯誤も甚だしい。
何しろ「公」が「個」化するいっぽうで、「個」が「公」にセレクトされるんだから、「個」がいくらエクストリーム化したところで、それが「公」になりうるかどうかなんてわからないし、そもそも「公」にセレクトされる時点で、大正時代と接続できるかも疑わしい。だって大正はこれまで露骨に黙殺されてきたわけだから。「公」をそのまま信じてしまうのは、あまりにもナイーブ。だったら既存の「公」を軽く聞き流しつつ、それぞれの「個」を寄せ集めて、「公」の内側で、もうひとつの「公」を新たに立ち上げるしかないんじゃないか。最近、アート・コレクティヴが増加しているように、集団的な主体性にもとづく批評や歴史研究があったっていい。卯城くんや松田くんのようなアーティストが歴史を語ったっていい。五十殿さんと椹木野衣さんが何か共同で仕事をするような企画を「美術手帖」が仕掛けたっていい。大丈夫。できることはまだまだたくさんある(笑)。