オルタナティヴの意味を問う。
The Public Times vol.3〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜

2018年、新宿・歌舞伎町のビルを一棟丸ごと使用し、「にんげんレストラン」を開催したことで話題を集めたChim↑Pom。彼らはこれまでも公共空間に介入し、数々のアートを展開してきた。本シリーズでは、Chim↑Pomリーダー・卯城竜太とアーティスト・松田修が、「公」の影響が強くなりつつある現代における、「個」としてのアーティストのあり方を全9回で探る。第1回から4回は、卯城と松田が現在の日本のアートシーンにおけるキュレーションとアーティストの関係性、そしてオルタナティヴスペースの現状を語る。

にんげんレストランの様子
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「多様性」っていう言葉が嫌い

——第2回ではキュレーションにおけるアーティストたちの立ち位置について議論が盛り上がりました。今回は2018年に話題をさらった「にんげんレストラン」と「オルタナティヴスペース」についてお話をうかがっていきたいと思います。その前にもう一度「公」について言いたいことがあるとか?

卯城 松田君と最初に公園の話をしたとき、「多様性」っていう言葉が都市開発のキーワードとしても多くて、それがすごく嫌いだって言っていたよね(笑)。

松田 その人たちが使う「多様性」って、まあ根本的には善の意識だと思うんだけど、緊迫したものではないよね。アメリカの人種差別やマイノリティの問題から発生したダイバーシティの概念が、中東の紛争地域の外交なんかで用いられるのはわかる。でも日本ではそういった殺し合いになるような緊迫した場面はほとんどなくて、多様性って言葉だけがひとり歩きしているように感じるんだよね。多様性、多様性って連発して、お前それ流行ってるから言いたいだけちゃうんか、と(笑)。だから平気でスラムにいるような人たち——こう昼間からストロングゼロ持って、競艇新聞にブツブツ話しかけているような人——はやっぱり排除されてるんだよ(笑)。

卯城 でもこれって個別の問題じゃなくて、すべてのところ、すべての事象が、そのパッケージになっていくんだろうなっていう予感はあるよね。この前、オープンしたばかりの渋谷ストリームにChim↑Pomのみんなで行ってみたんだけど、場所としてはさすが東急って感じのつくり込みで、いい感じ。けどそこに自分の居場所を見つけられるかっていったら難しい。

 ウチら一応アーティストでしょ、だけどひとりもそこに居場所はないって判断だったんだけど、ウケるのはそこが売りにしてるのが「クリエイター」だったんですよね。クリエイターによるマルシェやミニシアターなんかが川沿いに整備されて、ホテルのテーマは「クリエイターが住む部屋」ですよ(笑)。で、またまたデジャヴュのように感じる「アーティストとは?」(笑)。

卯城竜太

 この流れはたぶん変わらないし、逆流させるような後ろ向きなことには興味はない。だけど、根本的な問いは変わらずある。公園にしてもそうなんですが、これがパブリックスペースなんだとしたら、これまでのように「個」が集まって必要発生的に「公」が生まれる、という種類の「公」の必要性はもはやないものとされている。

 例えば歌舞伎町は戦後、闇市として、膨大な数の露店と身体がなんのインフラもなしにひしめきあっていた場所だったでしょ。だからルールや整備が必要になり、公ができたわけじゃん。個ありきの公。「にんげんレストラン」が、「エンターテインメントシティ」ってキーワードのもと進む再開発のなかで、青空レストランとして運営したのはその文脈だった。

にんげんレストランの展示風景

 けど、いまはまず「公」があって、そこに必要な「個」がセレクトされる。「グランドオープン」展のステイトメントの一部とかぶるけど、そこにホームレスやアクティビストたちが選ばれるわけがないもん。選ばれるのは、公にとって都合の良い人たち、つまり渋谷川周辺なら消費者たちなんです。そこに勝手に住み着いたり意見を言うような当事者たちはウザいだけだから、普通に警備員に追い出されますよね(笑)。

松田 アーティストという「個」と「公」っていう話題で、もう少し「にんげんレストラン」の話をしようか。僕がやったのは、《人間の証明1》っていう、会場内に鎖でつながれっぱなしで10日間物乞い生活をするパフォーマンス。裸にビニール袋パンツ一丁からはじめて、だんだん物があふれてきて、5日目には非公認グッズをつくって商売をはじめて、8日目には賭場を開いたりした。最終日には4万円くらい持ってて、全額お客さんに投げ返したんだよね。下に落ちたお金を、みんな必死で拾ってたよ(笑)。

《人間の証明1》パフォーマンス中の松田

 振り返ると「公」を変えるというか、お客さんをはじめとした僕の周りの「個」を動かさないと僕は飯も食えないし、寒さで凍えそうな状況だった。そりゃ、必死に物乞いするよね(笑)。その周りの「個」を変化させる連続で、「個」の集合体である「公」が変わっていく実感が僕にはあったよ。歌舞伎町のドンキにも貢献したはず。お金を払ってるのは僕じゃないけど(笑)。

 要するに切迫した理由があると、誰でも世の中を無理矢理にでも変える動きをせざるをえないよね。アーティストが自覚的に持つべきなのは、「公」を変えざるを得ない「理由」なのかもしれない。腹減ったとかね(笑)。僕以外のアーティストも、日々変わる状況のなか、周りを動かそうと必死な様子があったよね。理由はみんな違うんだけど。三野新くんは、近辺で起こった投身自殺に反応して会場を飛び出したり、Aokidくんは日々進化するっていうことを、痛々しく見えるくらい実践しようとしていたし。

 実践の場って考えると、にんげんレストランで起こっていたことのほとんどは、制限の多い場所では不可能なことばかりだから、「オルタナティヴ」な場の必要性を改めて感じたよ。古くて新しい話題なんだけど。

ファッション化するオルタナティヴ

卯城 僕にとってもにんげんレストランは震える体験の連続だったよ。もちろんキュレーターはウチらだったんだろうけど、内実はもうぐちゃぐちゃの体制(笑)。Aokidもキュレーションするし、いろんな人がイベント組むし、なんならウチらの作品もにんげんレストラン自体も、やってるうちに、三野くんの息の作品ありきになっていったし。

 Chim↑Pomもオルタナティヴ・スペースを持っているじゃないですか。オルタナティヴ・スペースはその名の通り、なんらかの「カウンター」としての機能があるでしょ。美術館でもコマーシャルギャラリーでもなく、はっきりした性質を持っていないような、「第3の公」(笑)。もはやここまで公の概念広げちゃまずいんでしょうが(笑)。ただ、いま、オルタナティヴ・スペースは増えてるんだけど、じゃあそこで行われていることは果たして「オルタナティヴ」なのかというとそうでもない気がするんだよね。

 オルタナティヴがファッション化してるだけじゃない? そこで開催されてる展覧会や展示されてる作品って、ほんとに美術館やコマーシャル・ギャラリーじゃ展示できないものなのかな。それの2軍3軍的なことを当り障りなくやっていることが多いように思う。となると、それってなんのカウンターとして機能しているのか。そのことに主催側はどれくらい自覚的なんだろうね。なんかこのオルタナティヴ・スペースつまらない問題って、アンデパンダン展つまらない問題と同じ感じなんだよね。コンテンツは面白くない、のに主催者は権威を脱却したつもりで満足しがちというか(笑)。

にんげんレストランの様子

松田 美術館の2軍3軍って、権威のないスペースで美術館的なリプレゼントをやるってこと? それってやる意味あるのかな。それこそ僕は京都のオルタナティヴ・スペース「ARTZONE」(京都造形芸術大学が運営するギャラリー)で個展をやったからその話をしたいと思うんだけど、僕を呼んだということで目的は果たされていて、そこからは制限の嵐だったわけだよ。

卯城 それも結局「作家性」の話だよね。松田修というリスキーなアーティストを呼んだということで、主催者はもう「作家性」を手に入れてしまっている。でも、そこで行われる展覧会にはリスクを取りたくないわけでしょ。てか、松田くんをキュレーションした学生たちは必死だったし、大学のクソみたいな先生から検閲されるたびに泣いてたのも知ってるから、こういうことを改めて言うのも気まずいけども。

松田 気まずいけれど、言いたいことは言っておこう(笑)。直前の出品取りやめとかで、もうできないんじゃないかっていう瞬間もあったよ。熱意ある学生や、スタッフにいたアーティストの伊東宣明くんも助けてくれて、開催のゴーサインはもちろん自分で判断したから、後悔のない展覧会にはなったよ。けど、そもそも学校関係者はファリック・アート(男性器をもとにしたアート)はまずダメだと言ってたね。京都個展の2ヶ月前には、同じく「オルタナティヴ・スペース」を名乗る広島の「コア」で、ファリック・アート全開だったから(笑)、違和感があると言えばあるよね。

松田修

卯城 でもそのファリック・アートは松田くんのアイデンティティでもあるわけじゃない。他人が求めている松田修の作家性と、自分の作家性が都合よくズラされてしまう。

松田 ガラスの入り口を葬式で使う「鯨幕」で覆う演出もあったんだけど、それも会期直前に「普通の葬式と思われたら困る」ということで、ガラス張りを全部閉じられたんだよね。あとは血糊の足跡をつけたらそれが外側から見えるからっていうことで、拭かされたりとか。オルタナティヴ・スペースと言いながらこんな感じか、とは思ったよ。恨み辛みのみで言ってるんじゃないよ。でも「公」を考えるときに、表札とは違った構造である場合があるのは事実だよね。「公園」しかり「オルタナティヴ・スペース」しかり。「モドキ」であったりするわけだ。けれどそういった「公」の性質を見極めて、「個」を発揮していくことも重要なアーティストのスキルなのかもしれない。あまりにも「公」に自分の作家性がズラされるようなら、やらなきゃいいしね。マジで。やる意味ないでしょ。(第4回に続く)