SERIES / The Public Times - 2018.12.24

個化する公。
The Public Times vol.4〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜

2018年、新宿・歌舞伎町のビルを一棟丸ごと使用し、「にんげんレストラン」を開催したことで話題を集めたChim↑Pom。彼らはこれまでも公共空間に介入し、数々のアートを展開してきた。本シリーズ「The Public Times」では、Chim↑Pomリーダー・卯城竜太とアーティスト・松田修が、「公」の影響が強くなりつつある現代における、「個」としてのアーティストのあり方を全9回で探る。第1回から4回は、卯城と松田が現在の日本のアートシーンにおけるキュレーションとアーティストの関係性、そしてオルタナティヴ・スペースの現状を語る。

Chim↑Pom 耐え難きスーパーラット 2015 Photo by Yuki Maeda ©Chim↑Pom Courtesy of the artist

Chim↑Pom 耐え難きスーパーラット 2015 Photo by Yuki Maeda ©Chim↑Pom Courtesy of the artist

公にカウンターを食らわすくらいのアーティストがたくさん出現する世の中であってほしい

——第3回では、オルタナティヴ・スペースにおける松田さんの個展において様々な規制があったという話で幕を閉じました。とくにChim↑Pomや松田さんはそういった事態に直面することが多いのでは?

卯城 検閲はもう主催者にとっては通常営業になったのかな? 罪悪感も年々薄まってるのかも。Chim↑Pomは3年前にキタコレビル(東京・高円寺)で自主規制や検閲をテーマにした展覧会「耐え難きを耐え↑忍び難きを忍ぶ」をやった。そのステートメントでは、組織人である主催者はともかく、それを受け入れ続けてきたウチらみたいくクソみたいなアーティストにも問題があるって書いたんだよね。アートに対して申し訳ないと。アーティストは最後の砦だから。

「耐え難きを耐え↑忍び難きを忍ぶ」のステイトメント

 それがこれまで話してきた「個と公」にもつながるんだけど、ひとつ例があって。これは今年韓国のビエンナーレに参加した時に聞いた話。朴槿恵が大統領だったときに、政権がアーティストのブラックリストをつくっていたっていう話覚えてる? 結構ニュースになってたやつ。それってじつはブラックリストだけじゃなくて、「ホワイトリスト」もつくられてたって噂(笑)。複数のアート関係者から聞いたけど、もしホントのことだったら、ブラックより不名誉じゃない?(笑) それにその話、オリンピックや万博やら国策イベントを前にした日本のアートにこそブーメランだよね。岡本太郎なみにそういう一切合切を超越して、最強の個としてそれを乗っ取るとかならやばいけど。

Chim↑Pom 耐え難きヒロシマの空をピカッとさせる 2015 Photo by Yuki Maeda ©Chim↑Pom Courtesy of the artist  

松田 アーティストのホワイトリスト(笑)。戦前からの話の流れだと、真っ先に藤田嗣治が浮かんだよ。絵も白いし(笑)。彼は戦時下で、陸軍美術協会の理事長を務めたりして「ノリノリで」絵を描いてる。多くの文化人が逮捕されたり拷問を受けたりしてるなか、ね。逮捕されたなかには藤田の同級生や友人もいる。瀧口修造も、前衛思想が危険視されて治安維持法違反容疑で特高に逮捕されてるんだっけ。逮捕されて変節した文化人も多いけど、藤田は変節も何も、一貫して政府側のアーティスト。

 戦後に非難された藤田が、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないのか」って手記に残して日本への恨み節を炸裂させてるけど、拷問されてる人もいるなかで甘い汁吸ったんだし、非難は仕方なくね?と僕は思う。そこまでして作品を残したかった藤田を尊敬する部分もあるけど、正直アーティストの態度としては疑問符もつく。しかし、戦後もっともリバイバルされている作家は藤田だったりするんだよ。日本ではナチスのプロバガンダ展、「大ドイツ芸術」展の状況が続いたまんまじゃねーかって言ったら言い過ぎか。

 けれど「国策や検閲に従いすぎる」、つまり「公に寄り添いすぎる」ってのは、やっぱりアーティストの態度として尊敬できないよ。利用してカウンター食らわすくらいのアーティストがたくさん出現する世の中であってほしい。東京オリンピックや大阪万博の注目ポイントはそこか。僕に大阪万博の仕事来ないかな。来ないか(笑)。

卯城 来ないね(笑)。でもいまは当時より難しいでしょ。岡本太郎みたいなピュアな個による公への介入は。だからと言って個はエクストリームではないのかというとそうでもない。昔より個は自分を曝け出したまま、細分化されたジャンルのなかで生きやすくはなってるしね。

松田 ネットで誰かとつながることが容易になったぶん、自分の居場所が見つけやすいよね。考えが合わないような場へ無理矢理アピールしなくてもいいし。衝突も少なくなるし。

卯城 そう。性癖でも趣味でもなんでもいいんだけど、同じことをシェアしやすくはなっている。昔みたいに、たったひとりの個か、それとも大きな公かっていう時代ではないよね。

——自分の「フォロワー」をつくりやすい時代ということ?

卯城 そうそう、クラスタがある。それはアートでも一緒で、クラスタやコミュニティがたくさん生まれていて、検閲だなんだ面倒ならメインストリームに関わる必要もない。さらに「他のクラスタにはわからなくても別にいいんです」って割り切りもある。それはそれで革命的なことだし、良いと思うんです。

松田 それぞれのクラスタやコミュニティ内にスターが出現して、そのクラスタ内でウケたりすることで、お金も儲かるようになってきたしね。YouTuberなんかもそうだよね。

個化する公

卯城 ただ、個が他人と価値観のシェアをそこで実現できるようになって、大きな公にアプローチしなくなったことで何が起きたかってのも重要。それは、個だけじゃなくて、公も大きく変化し始めた。言うなれば、「公」が「個」化し始めた。もちろん原因はこれだけでなく色々絡み合ってのことなんだろうけど、個による公へのアプローチが減った結果、例えば公文書改ざんだったり、図書館で本が廃棄されちゃうとか、公的財産も誰かの判断でコントロールできるとか、そういう状況が目立つようになった。安倍政権の国会運営なんて公の個化そのものじゃないですか? トランプやプーチンなんかにも言えるだろうし、なんなら近い将来にはそれと似た話がGoogleやFacebookとかにも言えるだろうし。

 この状況って、本当に(何度も言いますが)アートもそう。アートフェアのシーンでバーゼルとかそういうところはどんどん大きくなり、ひとつの公として君臨し始めている。グループ展はキュレーションによって公が個化しないと成立しなくなっている。

 アーティストもそこから逸脱するのが面倒だから、深く公に個としてコミットするのをダルがるでしょ。例えば中国の場合、マーケットがさらに巨大だから、アプローチの仕方はもう公ありきになっている。売れればいいっていう発想が強くて、アーティストが、前作と次回作で全然違うものをつくってもOKっていう風潮ができつつあると。作家性も個性もない。

アート・バーゼル香港2017の様子

松田 で、そいつらはアーティストなのか?っていう。

卯城 そうそう。クライアントありきのような。アイ・ウェイウェイがそういう感じをキュレーションでディスってたよ。「You are not fit to be an artist」ってタイトルのグループ展をやって、つまらないアーティストばかりをあえてキュレーションしてた(笑)。ステイトメントも辛辣で、「君らは流行りの価値観の犠牲になっている、ただの社会の商品になっている......現実のことに関心がない! だからその作品には力がない!......お前は芸術家に向いていない! 中国の多くの芸術家になりたがる人はじつは一般人よりも下......」とか(笑)。やばいよね。これ友だちがプロデュースしてたから知ったんだけど、一般的にはあんま知られてないんだよね。検閲が激化してきているから、アイが書いたそれぞれの作品のキャプションも全部政府に剥がされたし、なんなら会場のAdvance Art Museumのサイトからもこの展覧会は消えたから、もはや知る由もなし。

松田 その話でも問いとして卯城くんが言いたいのは、「アーティストってそもそもどういう存在だっけ」ということでしょ?

卯城 うん。なんかありきでつくるとして、その動機を自分じゃなく外に求めすぎというか。

松田 それはそうだね。個展ですら「呼ばれるための個展」化しているような現状はあるかもしれない。そもそも社会の中でどういう存在なのかを示すよりも、アートフェアに呼ばれたり、大きいイベントに引っかかるために「やる」みたいな。「アートシーン」というものがあるならば、それに対してイベント的にいろんなことが整理されてきた。基本的には良いことなんだけど。個展にしろビエンナーレにしろ、その周期にあわせれば生き延びられるし、なんなら影響力も持てる。アートのインフラが整理されすぎているというふうにも言える。そこからはみ出すよりもついていったほうが影響力が出たりね。

 そして、多くのアーティスト志望の美大生が憧れるのも、そういった「グローバルな場所で活躍するアーティスト」だったりするんじゃないかな。

卯城 そのための場所やサポート体制も増えているからね。アーティストは、それぞれの性質を知って利用しながら、個を通す時代なのかも。とはいえ、結局いろんな問題が起きてくるわけよ。さっき松田くんが言っていたARTZONEの話じゃないけどさ。例えば国際交流基金は、「福島」を取り上げない方向性だということを作家たちに露骨に言ってくる。

 もしそういうことを当たり前のような感じで言ってくるんだったら、それはやっぱりウチらははそういうところとは組めないよ。その「どこで一線を引くか」って基準は作家によって違うから、それが態度として個々の作家で見えてくると面白いんだけど。

Chim↑Pom 耐え難き気合い100連発 2015 ©Chim↑Pom Courtesy of the artist

松田 たくさんあるフォームやイベントに接続するのはもちろんそれぞれのアーティストの自由なんだけど、その都度当然のように「センサーシップ」があったりする。結果、いろんな場所で「ホワイトリスト」や「ブラックリスト」もできてくる。だからアーティストのキャリアは、もはや履歴書のように「どこでやったか?」だけでは本当は測れないよね。けれど若いアーティスト、特に若い学生なんかがはじめからローカルな活動だけを望むわけがないし、大きな展覧会を望まないアーティストはいない。このへんにアーティストがジレンマを抱えるポイントがある。

 僕も「ファリック・アート」が堂々と催される公立美術館の展覧会を夢見るけど、時間がかかるのは間違いない。ていうか半分は諦めてる。エクストリームを自称するアーティストが目指す場所って、いまの日本ではとくに設定しづらいんじゃないかな。僕は僕でローカルでもなんでも発表し続ける気でいるけどね。例えば「にんげんレストラン」のような場所が、多発的に、そして常設的にあるようになったら話は全然違うんだけど。

卯城 たしかに!「にんげんレストラン常設化」目論もうかな......(笑)。ただアンダーグラウンドの開発と同時に、いろんなフォームを利用しながら、「個のエクストリームの振り幅」ってポジションを幅広く見せていく、っていうのもひとつのあり方だけどね。

「にんげんレストラン」の展示風景

 例えばさっきの多様性とコミュニティの話なんかも肝はその構造だと思うわけ。来年マンチェスターでのフェスティバルに招喚されるから、現地でリサーチしてるんだけど、多様性がやっぱ緊迫した問題になってんだよね。日本の状況としては、クラスタやコミュニティが個の居場所になる代わりに、個による公へのアプローチが減り、公が個化するって話したじゃん。多文化社会ではもう一段階ある。

 様々な人種のコミュニティがひとつの小さい街の中で実際に分かれて存在してるでしょ、アフリカ系とかジャマイカ系とか。イギリスの場合は昔の植民地支配の結果なんだけど。で、それで住み分けてればいいじゃんってことにはならないわけよ。それらのコミュニティが混じって一個の大きな公をつくらなくちゃいけない。それをサボると差別だ暴力だとガチでやばいことになっちゃうからね。だから公への参加やアプローチがコミュニティにすごく求められているし、フェスティバルやるだけでもそれを第一義的に取り上げて呼びかけてる。まあそこに白人のギルドの根深さも感じちゃうんだけど(笑)。

松田 多様性ってことを言わないと殺し合いが始まっちゃうような現実があるからでしょ。暴動とか。僕が嫌いなのは、日本が「多様性」って使うときに「みんな違ってみんな良い」みたいな小学生でもわかるような論理を出すけど、本当の意味でそれを突きつけられてないじゃない。いま、障害者が電動車椅子に乗るときに飲酒をしてはいけないってルールを警察がつくろうとして問題になってるんだけど、彼ら障害者やマイノリティが怒るのは、ルールをつくろうとすることよりも、つくるうえでマイノリティの意見を聞きにいこうともしない態度なわけ。で、ヤフーニュースのコメントは、マジョリティによる障害者のディスにあふれてんの。マイノリティの事情やリアルな話なんて、どうでもいいわけよ。「みんな」は。

松田修

卯城 別に知らなくてもいいんでしょ。クソだね。

松田 マジクソ! だから緊迫した理由もないのに、ただ善的に「多様性がないとだめだよね」って言ってる現状に腹が立つんですよ。その多様性、マジで実践する気ないやんけ!って。

卯城 多様性が必要なのって、リアルに個やコミュニティが公に参加する必然性があってこそだからね。日本は逆でしょ。個化した公は、そこに他の個の主体的な参加なんて求めるつもりないじゃん。求めるのは消費者と労働力だけ。なのに多様性を安易にスローガンにする。入管法改正もそうじゃん。移民じゃなくて「外国人労働者」としか呼ばない。彼らに政治参加とか、労働力以上のことなんて望んでない。

 別にマンチェスターのほうが良いって言ってるわけじゃないよ。でもそっちの多様性はMustだからアクティブ。公への参加を求められるから、個やコミュニティーも大きな「公」について意識的にならざるを得ない。日本は個による公へのアプローチが減って個と公が分断されたかのように見えるけど、公がエクストリームに個化し始めた結果、逆に公による個への介入は激化してるじゃん。検閲とかね。じゃあそれに対して個はどうすんのかというと、どんどん公の描く物語の「挿絵」として機能し始めるか、俯瞰する。無意識のうちに。アーティストさえも。だから僕と松田くんは戦後よりも戦前のアートにシンパシーがいっているのかもね。

卯城竜太

松田 それはあるかもしれない。社会でのルールの厳格化なんかに対して、卯城語で言えば個化する公へ対して、カウンターとして表現を行っていくっていう態度とか。しかし個が公を変えることを諦めてクラスタ化のみに特化していくと、「全員でやろう」とか言う空気はなくなるし、他ジャンルや多文化へのクロッシングも行われなくなる。そういえばにんげんレストランでも、出演者の三野くんやAokidくん、あとは涌井くんまで皆一様に「演劇の関係者があまり来なかった」って言ってたよね。で、そのうち公によってどんどんルールの厳格化は進んでいく、と。クソやばい地獄じゃないか(笑)。

卯城 だからエクストリームなままの個やクラスタやコミュニティミックスによる、リアルな多様性イベントって、ほんとは逆に望まれてるんだけどね。様々な違いからひとつのものをつくろうとする姿勢自体はわかるじゃん。むしろ端的に言うと、現在のあらゆる国際展の基本姿勢ってそれだとも思うわけ、前提が。難民や移民やジェンダーや国籍のバランスの問題が必ずあるし、そのバラバラなことを共通認識で考えなきゃいけないし.....。

 世界で何が起きているのか、世界とは何かっていうのを、いろんなキーワードからひとつの展覧会で見せていくことをキュレーターは考えている。それは必要な作業なんだろうけど、やっぱり現実的にそれをやる過程で無理が出てきちゃう。だって世界はマジでまとまらないしグチャグチャじゃん。最初から狂ってるし(笑)。情報化とグローバリズムによって年々それが顕わになってるから、ワンパッケージじゃ追いつかないよ。世界中から100人前後のアーティストを集めれば世界を見せれるわけないし。複雑なものをまとめようとすると、どうしてもフワッと抽象てきな展覧会になるし、テキストベースの難解なものになっちゃうし。

 それに欧米の国際展で見る多くのアジア・アフリカのアーティストは、欧米をステージに活躍してるでしょ。参加作家一覧が多国籍に見えても、翻訳力のスキルでリストアップされてる場合も往々にしてあるし、ていうかそもそもその翻訳自体がワンウェイなわけ。無数の言語から英語への。

 それについて、去年イスラエルのキュレーターから聞いた、前にドクメンタをやった友だちのキュレーターによる国際展への感想が面白いんですよ。ドクメンタまでやったのに、やっぱひとりのキュレーターやひとつのチームが世界を見せるありかたに無理を感じたんだって。で、逆に、国別のパビリオンがあるヴェネチア・ビエンナーレに期待してるって。一個一個のパビリオンがバラバラに完結していればいいから、世界全部をまとめなくてもいい。たしかにそれもひとつのアイデアだなとも思ったんだけど、ヴェネチア・ビエンナーレも面白くないらしいからどうしたもんかって......(笑)。

松田 「形式と制度」の話ってアートの話でもよくあるじゃない。僕も卯城くんも形式や制度とかを、利用はすることがあってもそれ自体を信頼することはないよね。それ自体をアートだとは思っていない。そんなだから言えるのかもしれないけど、個々のクラスタ化に既存の形式や制度が追いつけなくなるなら、やっぱりアーティストは無理矢理合わすのではなく壊すべきだよ。せめて問い直すって作業が必要ではないかな。

卯城 みんな制度や形式なんてフワッととらえてるだけじゃない? 実際知らないじゃん。世界のことも、大正のことも(笑)。僕もまったく知らなかったし。てか、それこそ大正期にこそそれがトピックになってヤバい奴らがヤバい歴史を始めたわけじゃん。アートは制度でも形式でもなく、態度だっていう。

松田 でも言うやつは言うんだよ。「アートは制度だ。」って(笑)。