菅井汲とは何者だったのか。20世紀美術史研究・速水豊に聞く【2/3ページ】

ポルシェ、スピード、そしてハードエッジへの転換

──菅井作品の代名詞には「ポルシェ」や「スピード」といったテーマが挙げられます。これらはいつ頃から作風に取り入れられたのでしょうか?

速水 きっかけは1960年、パリ郊外にアトリエ付きの家を購入したことでした。交通の便が悪かったため車を購入し、やがて愛車はポルシェへと変わります。画家として大成した時期ですね。

 作品に大きな変化が現れるのは1963〜64年頃です。それまでの筆痕や複雑なマチエールをあっさりと捨て去り、均一に平塗りされた色面と、シャープな輪郭をもつハードエッジな様式へと一変しました。これは菅井の画業における最大の転換点と言えるでしょう。

菅井汲《朝のオートルート》(1964)キャンバスに油彩 195×154.5cm 東京国立近代美術館

 本人も「これまでは『静的な緊張感』を表そうとしたが、これからは高速で車を走らせるときの『動的な緊張感』を表す」(*3)と語っています。この頃の作品にも《朝のオートルート》(1964)など、高速道路や自動車を連想させるタイトルも増えていきます。一般に「菅井汲の代表作」として知られるのはこの時期の作品ですね。

 ちなみに菅井の車に同乗した知人は「とてつもない猛スピードで走るから恐怖しかなかった」と振り返っています。

──車を運転する感覚や「動的な緊張感」は、具体的にどう絵画へ落とし込まれたのでしょうか。

速水 高速道路の運転は、わずかなハンドルのブレや判断ミスが即座に大惨事へつながります。その命がけの緊張感が、菅井の狂いのない精密な画面設計に直結していると考えられます。60年代後半には「50メートル先から見ても一目でパッとわかる絵を描きたい」とも語っていました(*4)。

 また、詩人/評論家の大岡信も指摘していますが、菅井作品において一貫した特徴と言えるのが「正面性」です(*5)。奥行きや傾斜といった構図を排除し、記号的なフォルムが画面中央から鑑賞者へ向けてダイレクトに訴えかけてくる。これは菅井自身の好みでもありますし、ポスターデザインを手がけていた頃の経験とも無縁ではないかもしれません。この「正面性」は菅井の描くフォルムのシンメトリー(対称性)に由来します。シュルレアリスムにも通じたフランスの作家、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグも、菅井の画集のなかでこのシンメトリーに触れ、観客とダイレクトに結びつく強い力があると評価しています(*6)。

大事故からの「不屈の再始動」

──1967年、菅井は運転中に大事故に遭い、重傷を負います。この出来事は彼の制作にどのような影響を与えたのでしょうか。

速水 当時の菅井はヴェネチア・ビエンナーレ(1962)やサンパウロ・ビエンナーレ(1965)など国際展で輝かしい賞を受け、キャリアの最高峰にいました。そんな最中、高速道路で対向車を避けようとして大事故に遭い、重傷を負ってしまいます。しかし、驚異的な意志の力でリハビリを乗り越え、翌年のヴェネチア・ビエンナーレに出品。69年には東京国立近代美術館の大壁画《FESTIVAL DE TOKYO(フェスティヴァル・ド・トーキョー)》を完成させるなど、凄まじい執念で復帰を果たしました。

菅井汲《FESTIVAL DE TOKYO(フェスティヴァル・ド・トーキョー)》(1969)紙にシルクスクリーン 50.5×182cm 広島県立美術館

 この時期、菅井は助手を雇って制作するようになります。「自分の設計図通りにでき上がるなら、実際に手を動かすのは自分以外の人間でも、機械でも構わない」という考え方です。これは事故による身体的制約というより、彼がもともと秘めていた思考の顕現と言えます。

 小さなマケット(下絵)を正確に描き、電卓で精密な比率を弾き出し、指定した回数だけ正確に色を塗り重ねる──極限まで徹底された「システマティックな制作プロセス」を採用したのです。

*3──Morita, Iida, Sugaï, Galerie Brusberg, 1965.(邦訳:東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館編『菅井汲展』同展実行委員会、2000年、206頁)。
*4──松原特派員「17年ぶりの帰国を飾る大作 パリで油絵制作の菅井汲氏」『毎日新聞』1969年1月9日夕刊。
*5──大岡信「菅井汲──回想と展望」『菅井汲展』西武美術館、1983年、60頁。
*6──André Pieyre de Mandiargues, Sugaï, Le musée de poche, George Fall, 1960, pp. 31-32.(邦訳:『菅井汲:作品集1952-1975』美術出版社、1976年、125-126頁)。

編集部