「アジア美術」とはなんだったのか?
本特集は、1999年3月に福岡アジア美術館が開館するのを契機に編まれた。目次に目を通すと、アジア各国・地域のアートシーン、木版画運動、中国・台湾・韓国の近代洋画、大衆美術、モダニズムとナショナル・アイデンティティ、さらには欧米で活躍するアジア人作家の紹介まで、多層的な内容が目に留まる。たんなる地域紹介でなく「アジア美術とは何か」を改めて検討する内容になっているのだ。
当時の日本では「アジアブーム」が起きていた。福岡アジア美術館の開館もその流れに含まれるが、そのブームは物珍しいものを求めるエスニック趣味に支えられており、必ずしも手放しで歓迎できるものではなかった。「アジア」に対する日本の態度は、それを他者として扱うまなざしか、逆に日本へと強引に同化させようとするまなざしの2つに引き裂かれてきたと、特集内で黒田雷児は指摘している。
後小路雅弘のコラムでは、日本の植民地政策の一環として美術教室がつくられた歴史が紹介される。日本統治下のインドネシアでは、「聖戦」を担う宣伝活動として同国初の美術教室が開かれ、デザイナーの河野鷹思や画家の山本正らが指導にあたった。これはインドネシアの戦後美術に大きな影響を与えたが、こうした歴史をもつ国々で、ナショナル・アイデンティティが問い直されることになるのは当然の流れだった。
彼らは西洋美術の技法や方法論を内面化しながらも、西洋=支配者の模倣ではない「美術」を立ち上げる必要に駆られていたのだ。例えば、民主化への機運が高まる韓国で広がった民衆美術もその一例であり、そこでは民衆画や壁画が参照されながら、集団制作や公共空間での発表が進められた。その一方で、造形的なオリジナリティは重視されなかったため、それを従来の美術観から評価することは難しかった。しかし黒田は、こうしたアジアならではの民族的背景こそが「アジア美術」の条件であるとし、その意味ではその「美術らしくなさ」も含めて、アジア美術の重要な要件となっていたのだ。
それに対して日本はアジアの一員でありながら、欧米の一員としても振る舞うことで、アジアを他者化する視線を内面化していた。それゆえ本特集では「アジア」に対する日本のまなざしが最初に問い直されている。その問題意識は、中国の台頭によってアジアのヒエラルキーが再編されつつあるいま、より切実さを増している。日本国内における「アジア美術」とはなんだったのか──そう問い直すことで、緊迫度を増す現代のアジアにおいて、日本の美術が依って立つ現在地が見えてくるのかもしれない。

(『美術手帖』2026年4月号、「プレイバック!美術手帖」より)






















