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地域レビュー(北海道):佐藤拓実評「北海道アンモナイト研究史 ~研究者と愛好家が紡いだ物語~」(三笠市立博物館)/鷲尾幸輝「milk」(salon cojica)

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューのコーナー。本記事では佐藤拓実(神田日勝記念美術館学芸員、画家)が、「北海道アンモナイト研究史 ~研究者と愛好家が紡いだ物語~」(三笠市立博物館)と鷲尾幸輝「milk」(salon cojica)の2つを取り上げる。

文=佐藤拓実(神田日勝記念美術館学芸員、画家)

三笠市立博物館の常設展示  撮影=筆者

 最初に、今日この北海道の地域レビューを担当するにあたり、私が取り上げるものには偏りが出てしまうことをお断りしておきたい。北海道で美術作品が見られる場や機会は少なくない。道立5館をはじめとする公立・私立の美術館、地域に根差した各地のギャラリー、長い歴史をもつ団体公募展、札幌国際芸術祭をはじめとした期間限定のイベントなどがある。しかしこの広い北海道ではあらゆることが札幌市に一極集中している(日本における東京とも似ている)。私が住んでいる十勝地域から札幌市に行くには高速道路を使用しても片道約3時間かかり、距離にして180〜200キロメートルある。ガソリンも消費するし、鹿など野生動物と遭遇するリスクも上がる。当然ながら、住む地域によって見ることができる美術作品は偏り、言い換えれば美術作品を展示する地域によって鑑賞される機会も偏るのである。そのような北海道で地域レビューの書き手に求められる役割が私に果たせるかわからないが、面白いと感じたものを字数の許す限り取り上げていきたい。

作品としての「化石」を生み出した人の手の痕跡

「北海道アンモナイト研究史 ~研究者と愛好家が紡いだ物語~」(三笠市立博物館)

 ちょっと突飛に思われるかもしれないが、非常に北海道らしい「作品」が展示されていた例として、「北海道アンモナイト研究史 ~研究者と愛好家が紡いだ物語~」(三笠市立博物館)を取り上げたい。北海道のほぼ中央には南北に「蝦夷層群」という白亜紀の地層が広がっており、日本で量、種類ともに最も多くのアンモナイトの化石が発見されている。札幌市の北東約60キロメートルに位置する三笠市はその代表的な産地である(ちなみに三笠市へは私の家から約3時間かかる)。この博物館は全国一のアンモナイト所蔵数を誇り、膨大なコレクションが展示されている。2025年は「アンモナイトイヤー」と銘打たれていて、館内のあらゆる場所に以前にも増してアンモナイトがあふれており圧巻だった。ポケモンと実在の化石を見比べながら古生物を学べると話題になった「ポケモン化石博物館」が、この博物館を皮切りに全国へ巡回したことを知っている方もいるかもしれない(*1)。

「北海道アンモナイト研究史~研究者と愛好家が紡いだ物語~」(三笠市立博物館)会場風景より、解良康治氏のコレクションルームの原寸大の再現 撮影=筆者

 この企画展では、明治時代から現代に至るアンモナイト研究の歩みと地域の愛好家たちの活動が紹介されていた。三笠市出身の化石コレクター・解良康治氏のコレクションルームの原寸大の再現は、この展示のハイライトだろう。愛好家たちは専門の研究者と連携し、論文に名前が載ることもあるそうだ。

 どうしてこの展示を美術展のレビューで紹介するかというと、部屋の中央には博物館ではあまり見かけない展示物「アンモナイト山」があったからである。それは腰ぐらいの高さに積まれた大小のアンモナイトからなるピラミッドのようなもので、キャプションによれば、直径2.5メートル、高さ1.1メートル、重さ推定2トン超、北海道から産出したアンモナイトが1000個以上使われており「北海道から如何に多くのアンモナイトが見つかるかを象徴するモニュメント」なのだそうだ(*2)。

会場の「アンモナイト山」 撮影=筆者

 そもそも化石とは、過去の生物の遺骸や痕跡のことをいう。年月を経て生成され残っていく過程は自然現象だが、人の手によって見つけられ掘り出されないことには、我々の前に姿を現さない。その意味で化石は人工的なものであり「アンモナイト山」は膨大な手わざの蓄積でもあるわけだ。

 また、この展示で紹介されているように、ここ三笠市では少し前まで民家の玄関にアンモナイトを飾るのは日常的なことで、大きなアンモナイトはしばしば漬物石として使われていたらしい。それほどアンモナイトが身近な存在なのだ。また愛好家たちは自ら発掘しクリーニングした化石を「作品」と呼び、化石の魅力が引き立つように石の表面に意図的に点状の傷を付けるなど、独自の技術と美意識で彫りを仕上げる文化を持っているという。アンモナイトはいわば文化的な所産でもある。「作品」とは「広義には作られたと見られるものを指し、狭義には人の作るもののうち、特に独自の精神的な内部をもち、その内部を創造的に開示することを目的とするもの」(*3)をいう。だとすれば「アンモナイト山」は、アンモナイトと人々の関わりを紹介するこの展示において、まぎれもなくひとつの作品だといえるだろう。

身体の複雑性とそのままに向き合う難しさ

鷲尾幸輝「milk」(salon cojica)

 北海道で現代美術的な表現を志向する若手アーティストの一例として、鷲尾幸輝が札幌市のコマーシャルギャラリー「salon cojica」で開催した個展「milk」 を挙げたい。鷲尾は1997年北海道札幌市生まれで、2021年に創設された共同アートスタジオ「0地点」 の立ち上げに関わり、社会における性や身体を主題に映像やパフォーマンス作品を制作してきた。

鷲尾幸輝 milk 2025 撮影=筆者

 本展の中心となった新作《milk》は「性欲を抑える効能がある架空の飲料『milk』」を題材としているが、それについてのフィクショナルな描写にはとどまらない映像作品だ。本作は第3部「Birthday」、第1部「change your channel」、第2部「Homing instinct」、エンドクレジットの順にループ上映されるという独特な構成になっている。まず第3部では、映像中の語り手が、生後すぐ姿を消した父と自身の母について述べ、自分がこの私として生まれたのは奇跡であり、父と母の性交は美しくドラマティックで、その瞬間に自分は「選ばれた」と信じたい、と語る。性交とその結果である生誕に必然性を願うことは、生誕が根本的に偶然性を含み、その発端である性欲が制御不能であることを暗示しているともとれる。続く第1部は「milk」を推奨するプロモーション映像となっており、小児性愛者であると告白する人物のインタビューが挿入される。彼は自身の性的指向がもたらす生活の困難や自己嫌悪を語りつつ「milk」の摂取でそれらが軽減されていると述べる。ここでは性欲を制御する可能性が提示されている。しかし、第2部では瓶が倒れ「milk」がこぼれて飲めなくなる。性欲制御の可能性が途絶えたかのようである。

 この作品はおそらく手軽に性欲が制御できる世界を思考実験しているだけではない(だとすればそれは第1部で完結している)。社会は小児性愛を容認できるのか? 性欲の抑制は倫理的に肯定してよいのか? そして抑制したところで問題が解決するのか? などいくつもの問いが読み取れる。

鷲尾幸輝 milk 2025 撮影=筆者

 一見奇妙な各パートの上映順からも鷲尾の考えがうかがえる。本質的に性は制御不能だと示唆する第三部の語りは、たぶん作家にとって、差し当たっての結論であり前提なのだ。だから第三部でありながら映像の最初に置かれるのである。しかしそのことは有効な結論にはなり得ず、その後の二部を通して、自ら提示した結論あるいは前提への疑義を示しているように感じられる。

 《milk》は、表面的には、フィクショナルな映像を洗練された手つきでホワイトキューブにおいて提示し問題を投げかける、よくある現代美術のフォーマットにならった作品のように受け取られてしまう。しかし注意深く観察すると、その問題の内実は混み入っており、制御不能な身体への諦念や、作家自身の経験からくる切実さや困惑、混乱も垣間見える。いっぽうで、この作品にはまだ検討の余地があると考える。例えば小児性愛を作中で例示することについて、様々な研究や議論を踏まえてそれが選択されているのか、などだ。だが、安易に問題を単純化していない点で、極めて誠実な態度に貫かれた意欲作だと私には思えた。

 《アンモナイト山》と《milk》は、北海道の地域レビューで紹介するには、いかにも極端な、偏った選択に感じられるかもしれない。しかしどちらも違ったかたちで、作品のあるべき姿を示してはいないだろうか。《アンモナイト山》には、土地の地理的特性から独自の洗練された文化が生み出され蓄積されていることが表れていたし、「milk」は私たちの社会における性、そして生の根源にある問題と対峙しようと試みる表現だった。私はこの偏りのなかにある実践を丁寧に拾い上げることに、地域レビューを書くひとつの意義があると感じている。

*1──2021年当時、三笠市立博物館に主任研究員として在籍していた古生物学者の相場大佑氏による企画・総合監修。ウェブ美術手帖では長谷川新氏が展覧会評を書いている。
*2──多くのアンモナイトが産出することを表現しようとしたときに、多くのアンモナイトを積み上げたものを「象徴」や「モニュメント」と言っていいのか、という疑問はある。
*3──佐々木健一『美学辞典』(東京大学出版会、1995、p.148)

編集部