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地域レビュー(東京):齋木優城評「下司悠太 What's Entertainment?」「百瀬文 ガイアの逃亡」

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューシリーズ。本記事は、齋木優城(キュレーター)が今年9月から10月にかけて東京で開催された展覧会のなかから、下司悠太「What's Entertainment?」と百瀬文「ガイアの逃亡」を取り上げる。2つの展覧会より、社会、政治、身体のかかわりを、美術を通じて考え直す試みについて考察する。

文=齋木優城

下司悠太「What's Entertainment?」の会期中に行われた「みそ仕込み」の様子

 2025年10月、自民党の高市早苗が日本憲政史上初の女性首相に就任した。世界ジェンダーギャップ指数では148ヶ国中118位(*1)と非常に後進的だった日本の政治状況にとって、高市の首相就任が持つインパクトは大きい。日本初の女性首相誕生は海外でも大きく報じられ、BBCは高市について移民問題に強硬な姿勢を示し、同性婚に反対する保守的な右派であると述べた(*2)。高市の金融緩和政策を受け、就任直後から急速な円の暴落が進行し、庶民の生活には深刻な影響が予見されている(*3)。

 日々の生活を足元から揺るがすような昨今の政治的変動は、同時代の芸術シーンについて記述するうえで避けがたいイシューである。本稿で取り上げる2つの展覧会はいずれも、社会、政治と私たちの身体のかかわりを、美術を通じて考え直す試みである。

「生活」の輪郭線を引きなおす

下司悠太「What's Entertainment?」(デカメロン

展覧会会場の様子

 ギャラリーの住所は、東京都新宿区歌舞伎町1丁目。「トー横」と称される新宿東宝ビル近くの路地裏で、下司悠太は「自炊」をしている。派手な繁華街と家庭的な自炊という2つのイメージが相反しているようにも思えるこの展覧会だが、1階にあるギャルバーを横目に2階の会場に足を踏み入れると、確かに味噌の匂いが漂ってくる。筆者が訪問した日には、参加型ワークショップ「みそ仕込み」が行われていたのだ。下司自身あるいはゲストアーティストがDJとして音楽をかけ、参加者は音に合わせて踊るように身体を揺らしながら味噌の原料となる大豆と麹を捏ね合わせていく。大豆を潰していく触覚は新鮮で、隣で味噌づくりをする人にもつい話しかけたくなるような空間だ。できあがった味噌は容器に入れて持ち帰り、数か月間成熟を待つ。

 下司は、8年以上にわたり自ら仕込んだ味噌でつくった味噌汁と米を毎日食べる生活を繰り返している。展示室のひとつを占める《生活のための非日常》(2025)はDJブースと簡易的な調理設備を組み合わせたインスタレーションで、この作品を通じて会場内で下司自身の暮らしが再現される。壁面に設置された《ある日ー味噌汁》(2025)は、下司が実際に食べた味噌汁と米からなる食卓の様子を撮影したものであり、会場内に強烈な「生活」の気配を運び込んでいる。

 これらの作品は、家事労働や食事のルーティーンといった我々の暮らしと非常に密接なものであるが、いわゆる「丁寧な暮らし」を推奨するようなものではない。下司の実践は、植民地主義的な制度や搾取的な構造に日常生活のなかで加担してしまうことを避けるための手段として選択された個人のアティテュードである。現代的な消費中心の生活が弱者からの搾取と強く結びついていることは、ファストファッションブランドなどの大量生産企業が強制労働をはじめとする倫理的問題を抱えていることを報じる昨今のニュースからも想像に難くない。生活のなかで多くの人が搾取構造と無関係ではいられない現状に抵抗し、さらにはその抵抗を他者とゆるやかに共有することが、作品における中核的なメッセージとなっている。

 例えば、専門的な技術なしに快適な衣服をつくるための設計書《素人でも作れる服を設計する》(2025)もその実践のひとつである。この設計書を見ながら素人なりに服を自作してみることで、そこには反植民地主義的なボイコットの態度を内包した衣服が自然と立ち現れるのだ。

会期中に行われた〈みそ仕込み〉の様子
会場風景より、下司悠太《素人でも作れる服を設計する》(2025)

 また、下司は現在、茨城県大洗町にある本屋の軒下を間借りし、味噌汁と米を提供する飲食プロジェクト「台所」も展開している。従来、料理などの生活と直結する家事は芸術の領域とは見なされないことが多かった。その理由としては、味覚や触覚が視覚に比べて低級な感覚であると序列づけられていたこと、そして生活に結び付く行為は女性の領域であり男性の活動に比べて高く評価されなかったことなどが挙げられる(*4)。対して、「台所」で行われるのは、明確なアティテュードに基づいた日常的献立をその態度に共感する人々に提供し、貨幣価値と交換する社会的行為である。これは換言すれば、料理に代表される家事の成果に金銭的価値と文化的価値の双方を付与する試みでも、作品や作家の態度を社会へと直接的に還元する挑戦でもあるといえよう。

 磯村暖によるステートメントによれば、下司のこのようなアティチュードはミエーレ・レイダーマン・ユークレス(Mierle Laderman Ukeles, 1939-)の「メンテナンス・アート」を参照しているという(*5)。ユークレスはアーティストでありながら子供を持つ母親であり、家庭内における家事労働や無給で行われるケアの役割を芸術として展開することで、コンセプチュアル・アートの領域にフェミニズムの視点から重要な転換をもたらした(*6)。このような実践は第2波フェミニズムのスローガンである「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」というスローガンに強く結びついているといえよう(*7)。「What's Entertainment?」展は女性の家事労働のみに焦点をあてているわけではないが、筆者が本展を鑑賞した際に真っ先に想起したのはこのスローガンであった。下司は、私的領域における行動や選択がつねに社会そのものと強く結びついていることを意識しながら、鑑賞者を巻き込むかたちで「生活」の輪郭線を引きなおしている。

*1──竹山栄太郎 (2025)「【ジェンダーギャップ指数】日本、2025年は世界118位で前年と同じ 政治分野は後退」朝日新聞SDGs ACTION(2025年10月30日最終閲覧)。 
*2──Yeung, T.(2025). “Who is Japan’s ‘Iron Lady’ Sanae Takaichi?.” BBC News.4 Oct. (2025年10月30日最終閲覧)。
*3──木内 登英 (2025)「日本銀行への政治介入は強まるか:高市トレードで進む円安は物価高を助長し国民生活を圧迫」野村総合研究所(NRI).(2025年10月30日最終閲覧)。
*4──高級感覚と低級感覚の区分に基づいて対象が芸術かどうかを判断するという見方については現代美学で見直しが進んでおり、料理に際しても知的な内容の表現や、非主観的な経験が発生し得ることが議論されている(青田、2024、145-146頁)。家事、とくに料理と芸術の関わりについては、コースマイヤー(2009)および青田(2024)に詳しい。キャロリン・コースマイヤー『美学 : ジェンダーの視点から』長野順子・石田美紀・伊藤政志訳、 三元社、2009。青田麻未『「ふつうの暮らし」を考える 家から考える「日常美学」入門』光文社新書、2024。
*5──今回の展示でキュレーションを担当したアーティスト・磯村暖のテキストはこちらから閲覧することができる。
*6──ユークレスの実践についての記述は、伊東(2018)を参照。伊東多佳子「革命の後、月曜の朝に誰がゴミを拾いに行くのか?―ミアレ・レイダーマン・ユケレースの《ランディング》をめぐって―」『富山大学 芸術文化学部紀要』第12号、2018、86–97頁。
*7──女性参政権の獲得など集団における制度変更を推進する第1波フェミニズム運動に続き、1960年代頃から活発化した個人や家庭という単位においても男女差別の根源的な撤廃を目指す運動の傾向が第2波フェミニズムと呼称される。「個人的なこと~」のスローガンはHanisch(1969)によって掲げられ、家父長制や家庭内暴力への抵抗などの重要なムーブメントの精神的支柱となった。Hanisch, Carol. 1969. “The Personal Is Political.” Notes from the Second Year: Women’s Liberation. Reprinted in Hanisch, Carol. 2006. “The Personal Is Political.” pp. 1-5. (2025年10月30日最終閲覧)

「個人と社会」の関係性を再考する

百瀬文「ガイアの逃亡」(gallery αM

百瀬文 《ガイアの逃亡》 2025 3チャンネルビデオインスタレーション 30分 撮影=飯川雄大

 次に紹介したいのは、武蔵野美術大学が運営する非営利ギャラリー・gallery αMにて展示された百瀬文「ガイアの逃亡」。芦屋市立美術博物館学芸員の大槻晃実キュレーションによる全8回の連続企画「立ち止まり振り返る、そして前を向く」の第3回にあたる。

 上映作品《ガイアの逃亡》(2025)は、ざわめく海に浮かぶ孤島を表現した3DCG映像と南フランスでのワークショップの記録映像から構成されるビデオインスタレーションである。展示室の床には前面に黒いカーペットが敷いてあり、鑑賞者は入場前に靴を脱いで照明を落とした展示室内の好きな位置に座ることができる。作品タイトルにある「ガイア」は、女神は新たな生命を生み出す母なる女神、あるいは肥沃な大地を司る豊かさの象徴として語られる存在であった。しかし、百瀬はこのような言説が「女性の生殖機能と自然の生産性」を結びつけて称揚する「一つの本質主義的なステレオタイプ」を招くことを指摘し(*8)、この神話を解体しようと試みる。

 作品内で記録されるワークショップは、3人の参加者によって構成される。参加者たちの前に置かれた台には百瀬が横たわっており、3人は「島」の象徴となった百瀬の裸体に時折触れ、身体のくぼみや皮膚の感触を確かめ、それらを島の地形や自然と重ねているようだ。本編に登場する3DCGで描かれた「島」は、じつは百瀬の身体にモーションキャプチャーを施すことによって表現されたものである。参加者たちは、女性の身体を社会的なものとして捉えるとき、そこにどのような状況が立ち現れるのかについて議論を巡らせる。例えば、大地が豊穣であること、その土地が「生産性」を持つことは、植民地主義による支配やレアアースの採掘などの環境破壊といった暴力的行為とひとつづきのものではないのだろうか。このような議論に触れた鑑賞者は、歴史のなかで繰り返されてきた暴力的な行為が、土地(あるいは私たちの身体)につくってきた傷跡に改めて向かいあう。

 また、土地について考えるとき、その場所を誰が「所有」しているかという問題は無視できない。参加者たちは、自分の体は自分のものであると感じるいっぽうで、それは自分が身体を「統治」している感覚には直結しないし、所有者が所有対象を常に穏便に扱って大切にしているとはいえない、と語る。このような声は、自分の身体を他者に所有されることへの抵抗はもちろん、私たちが自身の身体に対して行うケアの困難さをも象徴するものであろう。

百瀬文《ガイアの逃亡》2025 3チャンネルビデオインスタレーション 30分 撮影=飯川雄大

 さらにワークショップのなかでは、「島」という地形に接続する宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』(みすず書房、2018)が引用され、議論は暴力やトラウマをめぐる語りの困難さへと発展してゆく。ここで参照されるのは、トラウマについて語ることの困難さを島になぞらえて形象化した「環状島モデル」(*9)である。このシーンでは、別の場面で百瀬が横たわっていた台座にドーナツ型の環状島の模型が置かれ、身体と島の接続を視覚的にも強めている(*10)。ワークショップの参加者たちは、このトラウマのメタファーから個人と集団の経験を並列的に考えることに思いを巡らせ、「環状島モデル」にガイアの身体を重ねあわせる。 

百瀬文 《ガイアの逃亡》 2025 3チャンネルビデオインスタレーション 30分 撮影=飯川雄大

 一連の映像鑑賞は、筆者に「個人と社会」の関係性を再考させた。本作品のなかでは、「島」としての身体に触れる行為を媒介することで、自分が自分の身体をどのように扱うのかという個人的な問題が浮かび上がってくる。そして、鑑賞者はその個人的な問題が、土地の所有、社会的生産性に付随する暴力、そしてトラウマを語ることの困難さと接続するものであることにも気づかされる。とくに印象的だったのは、「環状島モデル」についての議論のなかで、島を囲む水がどのようなアナロジーをもたらすかという点に議論が進み、それは島と相互浸透性のある社会的環境を示すのではないかという見解がもたらされたことである。トラウマ的な体験や痛みを感じることも、あるいはそのような痛みを他者に与えてしまう可能性も、私たちの生活からは切り離すことができない。私たちは、複層的な痛みの経験を経てなお社会環境と繋がり続け、進んでゆかなければならないのだ。

 映像のラストシーンで、ガイアは文字通り「逃亡」する。この場面は神戸に育った筆者に阪神淡路大震災を連想させたが、鑑賞者はそれぞれの経験に応じて異なるメタファーを想起するのだろう。ガイアの行く先は明かされぬまま、作品は幕を閉じる。

 2025年10月、自民党は日本維新の会と連立し、連立政権合意書のなかに社会保障改革を盛りこんだ。高市政権は合意書の項目を支持し、病床数削減やOTC類似薬の公的医療保険適用除外など社会保障の削減が進行することが見込まれる。まるで政治と個人の結びつきが忘却されたかのような動向が蔓延する社会のなかで、「個人的なことは政治的なこと」というスローガンはいっそう説得力を持って立ち上がってくるだろう。これらの展覧会は、鑑賞者自身の生活や身体と社会のかかわりを問い直し、共感と連帯による抵抗の在り方のヒントを与えてくれるのではないだろうか。

*8──参加作家の百瀬・キュレーターの大槻のテキストはいずれもこちらから閲覧することができる。
*9──環状島モデルに関する記述は宮地を参照。宮地尚子(2023)「精神科医療における感情労働とトラウマ―環状島モデルから考える―」『 精神神経学雑誌』第125号、2023、63-70頁。
*10──「環状島モデル」は広島・長崎の爆心地から同心円状に広がる被害者の状況からも着想を得たもので、島の中央にある内海はトラウマの核心部分、ないしは死によってトラウマを語ることすらできない状態を示す。生存者は島の内斜面におり、尾根へと向かいながら声を挙げようとする。トラウマ的な出来事に関心を持つ支援者は外斜面から手を差し伸べることもあるものの、島の外海には出来事そのものを知らない無関心な人たちが位置している(宮地、2023)。

編集部