レントゲン藝術研究所の伝説とその影響
レントゲン藝術研究所は、今日の東京アートシーンの系譜学においてじつに伝説的な地位を享受しており、それは1990年代から2000年代初期にクール・ブリタニアの誕生に寄与したロンドンの「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」(YBA)と同じような位置づけにある。しかし、ポストコロナの2025年に若い世代のあいだでは、この重要な結節点についてのたしかな記憶や知識は薄れつつあった。若い世代にとってバブル期の日本は、まるでベルリンの壁崩壊のような遠い昔の歴史である。それゆえに、もはや壮年期を過ぎようとするこの世代への鈴木の関心は一層の驚きをもたらした。
いまや60代前半となるアーティストやギャラリストたちは、当然ながら、自分たちの功績について口をつぐんできたわけではない。いまから10年前、より若い世代の中村ケンゴが1990年代を題材にした書籍『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』(ART DIVER、2015)には、鈴木の展覧会にも似た関心に基づく討論会の言葉がまとめられており、中ザワヒデキが自主出版した『現代美術史日本篇1945-2014』(2008/2014年にART DIVERから再版)は、著者自身も関係した出来事についての逸話とともにこの系譜の見取図を提示している。
さらには、この時代の作家を部分的に扱う国際的な展示の一端として、1990年代初期の状況をキュレーターの言語でまとめたテキストも書かれてきた。その例として、松井みどりの「Public Offerings」(2001)、ルーベン・キーハンの「We Can Make Another Future」(2014)、吉竹美香の「Parergon」(2020) などが挙げられる。これらの文章に示されたこの時代についての解釈は、当時『美術手帖』で若手批評家として台頭してきた、機知に富んだ池内と確固たる信頼を築いていた椹木野衣の文章に多くを負うており、この時代に椹木が論じた戦後日本とそのおぞましくも退廃的な大衆文化についての思想はレントゲン藝術研究所の核となった。
新たな東京アートシーンの誕生の象徴となるような最初期のいくつかの展示には、もちろん村上隆も関わっていた。村上は鈴木の手がけたこの展覧会にも姿を見せたものの、関連イベントに参加することはなかった。村上が当時の盟友たちと関わることはいまとなっては稀である。そのことは、筆者がすでに詳しく論じたように(*1)、国外での消費主義的な流通を促すためにのために村上が入念な編集と装飾を施し、この時代に起きていたことの多くを自身の陰に追いやってしまった史観がほとんど支配的となっている現状を反映している。鈴木の博士研究とこの展覧会は、こうした見解を修正していくものとなるだろう。しかし、当時のシーンにおける西原の見過ごされてきた役割について西原自身が常々口にする鋭い自己言及を除けば、このアーカイヴが美術史的にどのような立場を表明しうるかということについての意識は、この展覧会に参加した人々のあいだにほとんど見られなかった。全体としていえば、開催されたトークイベントは素晴らしいユーモアを交えた逸話と自分たちがかつて関わっていた黄金時代の回想に終始していた。