新たな地平を切り開く
鈴木はこのシーンについてひとつ重要なことを明らかにしている。池内個人は、ニヒリスト少年的なアートという椹木と村上を通じて築かれたスタイルをとくに好んでいたが、それ以外のスタイルにも舞台を与えていたのだ。一度だけだが女性作家たちが主役になったこともある。西原珉は椹木や楠見と比べても著しく異質なライター/キュレーターであり、その詩的で明晰なDIYスタイルの文章は、やがてくる時代の口憚ることのないブログやSNSの前身でもあった。
西原が1993年初頭にてがけた「Fo(u)rtunes」という2部制の企画は、この時代の新たな才能を取り上げた、もっとも重要にして本格的な展覧会である。ここでは昭和40年会の同輩である会田誠と小沢剛、そして1990年代のテクノポップ作家の代表格であり、今日では会田や小沢ほどは知られておらずとも象徴的な存在であり続けている中野渡尉隆と鳴海暢平が、それぞれ学生時代の作品を展示した。若き会田誠の作品群のお披露目となった1993年2月の「Fo(u)rtunes」第2部の衝撃的な影響は到底無視することのできないものであり、それは1990年代の東京のもっとも力を秘めたレガシーとなる唯一無二のビジョンであった。ポルノ漫画のスタイルで描かれた総面積12平米に及ぶ《巨大フジ隊員VSキングギドラ》を含む巨大な作品群は、すでに時代を超えた古典として完成しているかのような佇まいでレントゲン藝術研究所の壁を飾ったのである。
もちろん、会田のビジョンは村上の楽観的な商業主義を、日本人の精神のゆがみの荒涼たる風刺性へと転じてしまうものであり、日本の外ではなかなかお気に召されることがないまま今日に至っている。それはクールジャパンとして消費されるにはあまりにも鋭く際立った日本らしさとアイロニーを兼ね備えており、そのビジョンは会田の教え子であるアート・コレクティブ、Chim↑Pom from Smappa!Groupというより若い世代の後継者を経由してようやく世界に届いているといってもいいだろう。
鈴木が指摘するように、西原を例外とすれば、レントゲン藝術研究所のスタイルとフレーバーは徹底して男性的であった。そのことはこのシーンの中心人物としての西原の存在をより一層重要にしている。西原自らがトークで論じたように、ライターとしての西原と村上はこのシーンの原動力となった様々なアイデアの形成の中心であったことは間違いなく、それはヨーロッパのドクメンタやヴェネチア・ビエンナーレを巡りながら、それぞれが観察してきたことを自分なりに日本に落とし込んだものであった。
また、レントゲン藝術研究所は曽根裕や松蔭浩之などの当時はまだ新人であった作家たちの初期作品を展示した空間でもある。日本のアート界の若い世代の作家たちへの彼らの影響は、長い目で見れば村上や会田を凌ぐと言えるかもしれない。また、レントゲン藝術研究所を通じて西原はフェミニズム的なアート作品を世に送り出すことで新たな地平を開拓し、そこには福田美蘭と花代などによるこの時代のもっとも優れた作品が含まれていた。