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詩的に調合されたオブジェを「味わう」。中島水緒評 冨樫達彦「Eat Your School, Don’t Do Vegetable」展

トーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)による公募プログラム「TOKAS-Emerging 2022」は、4月から6月までの2会期にわたって、選出された6組の作家が個展形式で展示を行うもの。その第1期に参加した冨樫達彦による個展「Eat Your School, Don’t Do Vegetable」は、様々なリサーチをもとにした9つの立体作品からなるインスタレーションを展示。料理と美術の関係を探る作家がつくり出す「味わい」とは?

中島水緒=文

展示風景より、左から《Rose Is a Rose》《Mitti Attar》《Bouquet》(すべて2022) 撮影=加藤健 画像提供=Tokyo Arts and Space

五感の“めざめ”(not only but also...)

視覚だけでなく

 マルセル・デュシャンは視覚の快楽に奉仕する絵画作品を「網膜的」と呼んで嫌った。頭脳(観念)の世界に重きを置く彼の一連の作品は(一部の例外を除いて)紛れもなく「反網膜的」なものであったし、彼が唱えた「アンフラマンス」は視覚に限らない諸知覚(聴覚、触覚、嗅覚、味覚)を極薄の次元で分離/結合する新しい知覚概念だった。視覚優位の美術作品に異を唱えたデュシャンはかくしてコンセプチュアル・アートの始祖となった──が、最初のレディメイドが美術館で展示されてから1世紀以上が経ったいまもなお、美術における視覚中心主義は依然として覇権を振るっているかに見える。人間の情報処理能力は視覚を中心に行われているのだから、美術作品もまた視覚を重んじるのは当然であると人は考えるかもしれない。

 他方である研究は、人間は「聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚」の順番で記憶を忘れていくと説明し、視覚記憶の儚さを明らかにする。また別の研究は、人間の知覚体験がクロスモーダル現象(感覚間相互作用)にいかに影響されているか、すなわち五感がどのように日常的に連動しているかを認知心理学の見地から実証する。視覚以外の諸知覚の働きを低く見積もることはできない。では、諸知覚の次元をまたいだデュシャンの嫡子を、アンフラマンスの系譜を、私たちはどこに見出せばよいのだろうか?

展示風景 撮影=加藤健 画像提供=Tokyo Arts and Space

 「五感を平等にする」。アーティストの冨樫達彦は過去のインタビューで自身の制作テーマをそのように語った(*1)。この関心はまだ彼のなかで生き続けているだろうか。トーキョーアーツアンドスペース本郷で開催された個展「Eat Your School, Don’t Do Vegetable」を見る限り、その答えはYESであるかに思える。会場となったのは3階の長方形のスペース。ファウンド・オブジェクトによる9つの作品が一定の距離を保ちながら点在し、モノとしての主張よりも空間のがらんとした広がりをむしろ際立たせていた。

解釈(あれかこれかvsあれもこれも)

「ジャガイモとキャベツを賽の目に切る。/それらを鍋に入れ、充分に浸るくらいの水を加え、火にかける。/沸騰したら、火を弱める。/もしあれば、塩と胡椒で味を整える。〔……〕」(*2)。

 入り口の脇にレシピを記したプリント用紙が貼り付けてあり、本展のイントロダクションとして鑑賞者を「作品の味わい」に誘う。ここで示唆されるのは美術と料理のアナロジカルな関係だ。美術作品を料理のように味わうことは可能だろうか? だとしたらどのように? 仕上げに干し葡萄を散らすシンプル・スープのレシピには、アーティスト兼料理人である冨樫の造形感覚と料理美学とが縮約されていそうだ。高価で希少な食材をふんだんに使うわけではなく、秘伝の調味料に頼るのでもなく、手間暇かけた調理法をこれみよがしに開陳するのでもなく──冨樫の作品は市民の日常感覚に立脚する。それでいてリサーチの成果物たる作品には、素材の配合/調合の妙、要素間で引き立てあう繊細な色彩感覚、少しの細工で感官のよろこびを引き出す造形センスが結実しているのである。

冨樫達彦 Rose Is a Rose 2022 撮影=加藤健 画像提供=Tokyo Arts and Space

 いくつかの作品に触れておこう。オーバーヘッドプロジェクターにバラの花を写した写真フィルムをセットし、壁面にその映像を投影した《Rose Is a Rose》(2022)。どんな写像に変換したところでバラはバラ──トートロジカルな作品タイトルはそのように嘯くかもしれないが、肉眼で確認できる写真フィルムのバラ、解像度の変化を楽しめるルーペ越しのバラ、アンティークな光学装置を介して壁面に投影されたおぼろげな画像のバラ……というふうに、実際にここには3種の異なるバラの視覚像がある。どの視覚像もリアルなバラの香りを漂わせるわけではないし、言ってしまえば「本物の」バラではない。それらはファーストハンドの視覚・嗅覚体験からいったん遠ざけられた「代用物」としてのバラの像なのだ。

 同時に、《Rose Is a Rose》には、異なる3種の視覚像の偏差に鑑賞者の知覚を滑り込ませるような側面がある。古来よりバラが香料としても人々に親しまれ、数ある品種の交配・交雑によって香りのバリエーションを増やしてきたように、異なる視覚像の掛け合わせが実在しない「芳香」を錯覚させることもあるかもしれない。そんな夢想を本作から広げてみることも不可能ではないだろう。

展示風景より、手前から《Your Mine I Sea》《Green Sky》(ともに2022) 撮影=加藤健 画像提供=Tokyo Arts and Space

 香料といえば、水を通わせたチューブをとぐろ状に巻いて床に敷いた作品《Your Mine I Sea》(2022)は、部分的にサフランの赤で染められているようだ。香辛料、薬味、着色料など多様な用途を持つサフランで、透明なチューブの一部にほんの少しの色味を挿す操作が絶妙な効果を上げている。いわば本作は、たとえその料理/作品全体にとって些細な要素に過ぎないとしても、スパイスとしての「色素」が総合的な「味わい」にいかに影響するかを示した実演(デモンストレーション)なのである。香辛料としてのサフランを1グラム得るためには300個のサフランの花から雌しべを手摘みで採取しなければならないというが、チューブ全体に対するごく少量の差し色はその比率を思い起こさせるものであり、チューブ内の水にサフランが染み出してゆっくりと黄色に変化するありさまは、「味」が消費者の「口」に届くまでの生産過程・流通経路に想像を馳せさせるものでもある。

展示風景より、左から《I Sleep Barefoot》《Eat Your School, Don’t Do Vegetable》(ともに2022) 撮影=加藤健 画像提供=Tokyo Arts and Space
冨樫達彦 Eat Your School, Don’t Do Vegetable 2022 撮影=加藤健 画像提供=Tokyo Arts and Space

 床面から奥の壁に視線を転じると、白い壁面がほんのり黄色味を帯びて見えた。近づくと黄色の濃度がより鮮明に知覚され、ただの壁面に官能的な膨らみを感じることができる。個展タイトルと同名の作品《Eat Your School, Don’t Do Vegetable》(2022)だ。マスクを外し、目を閉じて、壁にキスするような体勢で匂いを嗅ぐと、スパイスと品のよい香水が混じったようなエスニックな香りが微かに鼻孔をくすぐった。ターメリックとフレグランスを調合して壁に塗布した本作は、視覚と嗅覚のフラジャイルな結合を果たしたという意味で、まさにデュシャンのアンフラマンスの系譜を引き継いだ作品と言えるだろう。食欲に結びつく「いいにおい」と趣味判断として下される「良い香り」はどう区別されるのか。前者が低級な感覚で後者が高級な感覚だなどと誰が言えるのか。食品着色料と香料を掛け合わせた《Eat Your School, Don’t Do Vegetable》はその線引きを限りなく曖昧にして鑑賞者に問う。

冨樫達彦 Eyes Closed 2022 撮影=加藤健 画像提供=Tokyo Arts and Space

 異なる感覚の配合は《Eyes Closed》(2022)においても確認できるかもしれない。網のなかにサウンドテーブルテニスのボールとコルク栓を投入しただけの作品だが、網の青とボールのオレンジの対比がまず視覚的に美しい。言うまでもなく、視覚障碍者のために考案されたサウンドテーブルテニスのボール(中に鈴のような音が鳴る金属球が仕込んである)は聴覚に関わるものであり、ワインの風味を密閉するためのコルク栓は味覚や嗅覚の次元と接面する。さらに言えば、自然素材であるコルク栓は独特のコルク臭を醸すこともある嗅覚的なモチーフだ。むろん、《Eyes Closed》自体はなんの音も発さないし強い匂いもしないのだが、それはメトニミカルな次元で知覚概念を拡張する。無機質なオブジェの組み合わせで五感の錯綜を引き起こすところに《Eyes Closed》の真価が認められるはずだ。

冨樫達彦 I Sleep Barefoot 2022 撮影=加藤健 画像提供=Tokyo Arts and Space

  展示室をうろついていると、シャリンという鈴のような音がどこからともなく響いた。空耳だろうか。サウンドテーブルテニスのボールの音かもしれないが、音の源が分からない。なんとなく注意を引かれた気がして床面に置かれた《I Sleep Barefoot》(2022)に視線を遣った。アディダスの靴の包装箱にスリット状の切れ目を入れた作品だ。切れ目から箱の中身──包装紙らしきもの──がわずかに覗くものの、何が入っているのか、本当に靴が入っているかまでは確認できない。スリットの入った箱は外見的にスピーカーにも似ている(案外、サウンドテーブルテニスのボールの音はこの箱から鳴ったのかもしれない──「秘めたる音に」といった具合に)。

 靴は使い込むにつれて臭気が気になる日用品だが、スリットによって通気孔を穿たれた包装箱は、内に籠もる「におい」を微かに解放しているようにも見える。臭気から香気へ。独特な癖のあるブルーチーズを好む人がいるように、《I Sleep Barefoot》の風味を愉しむ鑑賞者があらわれても不思議ではない。Barefoot(裸足)という単語を作品名に冠せられながらも過剰包装によってじかの接触を絶たれた不可知の靴は、スリープモードに入って触覚を閉ざしていた。

展示風景 撮影=加藤健 画像提供=Tokyo Arts and Space

Roseの頭文字は2つとも大文字のR

 ファウンド・オブジェクトを扱う手つきから個々の作品の空間構成、自然光の使い方に至るまで、総じて造形的・感性的な洗練を感じさせる展示だった。「五感を平等にする」とは必ずしも鑑賞者の諸知覚をフル作動させることではなく、むしろそれらの調停をいかに行うか、どうバランスを取るかに要諦があることを冨樫の作品は示している。比喩的なレベルで五感の連動を示唆し、知覚を遅延させ、ときには錯覚さえも生じさせながら、全体的な「味わい」を調整する。壁や床に作品を沿わせて部屋の中央を広く取る展示は、鑑賞者の注意力をたくみに分散させることに成功していたし、オブジェの詩的な配合/調合は「これこそがインスタレーションだ」という大仰な賛辞からもすり抜け、無形の香気を立ち上らせるかのようだった。

展示風景より、左から《Shade (yellow)》《Eyes Closed》(ともに2022) 撮影=加藤健 画像提供=Tokyo Arts and Space

 ただのファウンド・オブジェクトに「味」を感じるというのは極めて倒錯的な事態だが、そもそも料理や食文化自体が高度に洗練された倒錯なのだ。合成着色料で人工的に食材に色をつけて食欲を増進させたり、オレンジは橙色という通念に合わせてきれいに色づかないオレンジを不良品と見なしたり、倒錯した操作や判断は常態的に行われていることである。今日はイタリアン、明日は中華、明後日はエスニック……あれも食べたい、これも食べたい、飽食の時代のさらにその先にあって、人々の「味わい」への欲望は果てを知らない。

 冨樫の作品も五感のよろこびと可能性を引き出すための飽くなき探究といえようが、むろんそれは、食品産業や市場のような経済原理が生み出す倒錯とは位相が異なる。それは、アーティスト兼料理人というトランスボーダーな立場から諸知覚の次元移行を試すものであり、ある対象を美しい、快い、美味しいと感じること、すなわち趣味判断──美学用語において「趣味(taste)」と「味覚(taste)」は同義──が発生するメカニズムを、現在──そして遅れてやってくる未来においても──鑑賞者に問うものなのである。

*1──以下のインタビューを参照。
「海外留学で作品の方向性が180度変わった、人生のターニングポイント。」『PARTNER』
*2──本展に掲示されたプリント用紙の本文より引用。

編集部

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