いくつかの場所で/から
最初の入口(待ち受ける展覧会)
「完璧に抗う方法」──態度表明を前面に押し出した勇ましい企画タイトルもさながら、展覧会のメインヴィジュアルイメージがまず印象に残った。「新世紀エヴァンゲリオン」風フォントによる題字。参加作家名と会期だけを記したシンプルなレイアウト。画像の縦横比(アスペクト比)はテレビやインターネット動画で一般的なワイド比(16:9)に近く、映画作品のタイトルバックや予告篇の画面を連想させる。
「完璧に抗う方法」のヴィジュアルイメージは2種類存在する。ひとつはA4四つ折タイプの印刷物に対応した縦長構図、もうひとつは先に説明したウェブ用の横長構図である。文字組を微妙に変えてアナログとデジタルという2経路の宣伝に対応した格好だが、やはり印象に残るのはタイトルバック風にデザインされた横長構図のほうだ。インターネット上の動画文化に親しむ者の目にとっては、YouTubeのサムネイル画像にも適しそうなこの画面は「待ち受け」として目を引くだろう。「完璧に抗う方法」のヴィジュアルイメージは、鑑賞者の訪問(クリック)を待ち受けるプレビュー画面であり、これから始まる「展覧会」という名の物語の予告カットであり、不可視の再生ボタンを潜在させて次回の企画に備える「動画の静止画」でもある。展覧会の導線はこうした演出からすでに始まっているのだ。
基本情報を確認しておこう。2人展形式の展覧会を隔月で連続開催する本展は、半年以上にも及ぶ長期プロジェクトである。作家の図師雅人と藤林悠が共同企画者となり、9名と1組の作家に参加を呼び掛けた。さらに参加者にはインタビューなどの事前リサーチを行い、そこで交わされた会話をもとにコンセプトを抽出した。コロナ禍に見舞われて一時は開催延期となったが、第三者の目から見ても、かなりの労力をかけて丁寧につくりあげた展覧会であることが伝わってくる。「動画の静止画」たるヴィジュアルイメージは、スロウなペースでじっくりとコンセプトを醸成し、間歇的に複数の展覧会を開催していく本展の性質に適ったものと言えよう。
展覧会タイトルについては疑問も浮かぶ。「完璧に抗う」の「完璧」とは何か。本展のコンセプトは「何に」抗っているのか。会場となったあをば荘は複数人の共同運営によるオルタナティブスペースであり、アーティスト主導による企画展や地域と連携したプログラムを随時開催している。しかし、メインストリームが不在である現在、「オルタナティブ」なる概念はかつてのような対抗勢力の役割を担ってはいない。企画タイトルはマイケル・J・サンデルの著作“THE CASE AGAINST PERFECTION”(邦題『完全な人間を目指さなくても良い理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』)の意訳からつけられたというが、現在のオルタナティブスペースをめぐる状況を鑑みたとき、抗う対象が漠然としていて不在であるような印象を受けないわけではない。「完璧」の語の解釈はひとまず各自に委ね、その空欄にはどんな言葉を代入しても構わないということだろうか。
もっとも、本企画にとって「強大な仮想敵の不在」はすでに織り込み済みの話なのかもしれない。当初、企画者である図師と藤林は、「促進」「増強」等を意味する「Enhancement」というキーワードをコンセプトの手掛かりにしていたが、議論を重ねるなかで「SingularityやEnhancementといった力ある言葉には決して括ることができない、アーティストの『営み』」に関心が移行したという(*1)。強力な理念で複数の展覧会を束ねるのでなく、個々人の営みを重視する方向へ。ステートメントはこの舵切りの過程も率直に言明している。
また、「完璧に抗う方法」の各展示が個別性を持っていること、リサーチのなかで作家が発した言葉をボトムアップ式に汲み上げて各展示のタイトルに採用していることは、本企画の重要な側面である。大文字の「完璧(PERFECTION)」は内側から分解される──総体としての連続企画展(大きな山)が個別の2人展(小さな山)の開催で少しずつ稜線を変えていくように。そういえば、「完璧に抗う方法」のエヴァ風フォントがランダムなドットの集積で個々の文字の解像度に揺らぎを与えているのも、本企画の特性を体現した象徴的な事態ではないか(勇ましく掲げられたタイトルは手描きを思わせる地道な点々で成り立っている、ということだ)。
前置きが長くなった。ウェブサイトならば「ヘッダー」に相当するであろうイントロダクションはこのくらいにして、実際の2人展で何が起こったかを具体的に見ていきたい。1月中旬から下旬にかけて開催された第2回目の展示は、戸田祥子と三枝愛による2人展だった。両者に共通するのは自身が関わる「土地」へのアプローチを作品に反映している点だ。
三枝愛《庭のほつれ》
三枝の作品には生家が椎茸農家という出自が色濃く反映されている。たとえば展示室の中央にインストールされた《庭のほつれ》(2021–)。あをば荘の床面に固定されて動かせない水栓柱を利用して織の道具を設置し、天井から細長く紐状に編んだ紙布織を吊るしたインスタレーションだ。織物の縦糸には椎茸の原木から出た樹液で茶色く染めた絹糸が、横糸には富山新聞を細く裂いてこより状に捩ったものが使用されている。遠目に見れば茶色一色の織紐も、近くで見れば新聞独特の灰色といろんな色彩が混じった風合いが感じられ、手織りならではの呼吸が伝わってくる。
ところでなぜ富山新聞なのか。その経緯は三枝が作文用紙に手書き文字で近況を綴った文章で確認できる。令和3年、参加を予定していた展覧会(*2)が延期になったことをきっかけに、作家は一度も訪れたことのない土地の新聞(富山新聞)を取り寄せるようになる。新聞を読んでいるうちにある事件について調べるようになるが、「自分の口から言えそうなことがみつけられなくて、立ち止まってしまった」。調査は暗礁に乗り上げるも新聞の購読は「やめます」と言えないまま継続し、2年目に突入する。以上のような経緯が綴られた作文用紙の文章には赤字が所々に入っており、末尾には「展覧会がはじまることが作品を終わりにする理由にならないように」という含蓄ある追記も見られる。
延期になった展覧会、自宅に溜まっていく新聞、宙吊りになった調査。作家は前方へと進んでいかない状況をあえて引き受け、決定や完成といった区切りによる解決法を回避する。ここから浮かび上がるのは、能動的に何かを選択したり、生産的なふるまいをしたりするのとは真逆の消極的な構えだ。状況を未決のまま自分のなかに留めて流れが変わるのを待つ態度、と言い換えてもよい。赤字による添削もまた、文章のたんなる「更新」「上書き」ではなく、未決の状態に留まりながら言葉を探る、適宜的な「補修」「繕い」「手入れ」のようなものと見るべきだろう。三枝にとっての「庭」とは第一に生家の椎茸農家のそれを指すが、原稿用紙の規則的なマス目もまた、縦糸・横糸が交差する織布、あるいは「庭」のメタファーとして受け取れるのではないか。
自分に縁の深い土地(家の「庭」)とそうでない土地(展覧会や調査、仕事のために異邦人として訪れた地)を行き来する生活は、三枝の作品において縦糸・横糸の関係に象徴される。その2つを交差させつつも安易に距離を埋めない構えは、どんどん溜まっていく新聞紙と少しずつしか織り進められない紙布織の対比にも現れているだろう。あるいは、小さなキャンバスに織物を張って絵画風に仕立てた《庭のほつれ》(2022)の、横糸1本だけ新聞紙を織り込んだ絶妙な案配にも現れているかもしれない。
滞在制作やリサーチベースのアートプロジェクトがしばしば「成果発表」というかたちで「作家とその土地との関わり」の視覚化・言語化を重視するのに対し、未決の状態に留まることを辞さない三枝の活動は異色とも言える。今回展示された《庭のほつれ》に関して言えば、結局のところ三枝が調べていた「事件」がどういうものであったかは語られず、紙布織のそばに積み上げられた富山新聞の束は「もの」としてただそこに在るばかりだ。しかし、「もの」の眼前が「語れないこと」「できないこと」と対であることに気づくとき、土地と土地の埋めがたい距離、文化的差異、様々な活動のテンポの違いといったものが時差を伴って感得されるのだ。
戸田祥子《擦りつけるようにして捏ね、まとまってきたら、たたきつけて折り返し、転がす》
戸田の映像作品《擦りつけるようにして捏ね、まとまってきたら、たたきつけて折り返し、転がす》(2022)──まるで制作の身振りとパンづくりのプロセスが重なり合っているかのようなタイトルだ──は7つのチャプターで構成される。個々の尺はさほど長くない。チャプターの冒頭にはわらべうたや普段の日常会話からの一節をインスピレーションとしたタイトルが表示され、シーツや洋服を頭まですっぽりかぶった戸田によるパフォーマンスがそのあとに続く。
フレームにおさまるのは基本的に戸田の上半身、もしくは腕や手指のみだ。映像作品の被写体として特別なものではない身体の一部分である。しかし、そうした身体スケールを風景の広大なスケールへと一足飛びさせるところに本作の真骨頂がある。シーツをかぶった頭はなだらかな禿山に、指で押し拡げられた洋服の袖は半島に、重ね着した洋服を少しずつ脱いでいく所作は大陸プレートの移動に。波打つシーツが荒れ狂う海へと変化(へんげ)したところで映像は幕を閉じる。既知であるはずの身体の部位を未知のものとして見つめ、想像的な「風土」へと変換するパフォーマーは、湖沼や山を生成した伝説上の生き物ダイダラボッチを連想させる。
人間は成長とともに自己の身体図式を把握する。自分の体の各部位がどういう位置関係にあるのか、どれくらいの大きさなのか、視覚や触覚といった諸感覚と連動させて無意識上に適切な身体像を生成するのだ。他方で戸田のパフォーマンスは、身体図式が確立する以前の未分化な状態へ降りてゆくような側面がある。背中にまわした右手と左手は別々の身体に属してはいないか、シーツの下でうごめいている身体に背中とお腹の区別はないのではないか(いわば「おなかとせなかがくっつくぞ」状態)、山や海に変化(へんげ)した身体は境界のない広がりとなって布地の下で諸感覚を分裂させているのではないか。こうした想像を抱かせる戸田のパフォーマンスが、5歳の子供を育てる日常やわらべうたから触発されて生まれていることは、本作と同時期に制作されたドローイング集『顔を歩く』(ハンマー出版)を見ても明らかだ。
本展に関連してYouTubeで公開されたトークイベントで、戸田は「コロナ禍で生活のリズムに影響を受け、まとまった制作時間が減ってしまったが、そうした状況でつくることを肯定的に捉えたかった」「(ショートショートの小説のように)制約のなかでしか生まれない文体みたいなものが美術にもあるかもしれない」と語る(*3)。パフォーマンスを行った場所も自宅の一室で、子供を保育園に預けている午前中の限られた時間のみで毎日少しずつ撮影したという。作家の身体を照らすのは確かに朝の時間帯特有の清澄な光であり、一連のパフォーマンスは、これから始まる1日のために脳と身体をほぐすエクササイズにも思えてくる。ドローイング集が示す日々の継続的な思索も含め、戸田の作品は、生活上のタスクに埋められていく1日24時間の有限に「他所への飛躍」の時間を仕掛けるものと言えよう。
継続と反復(フッターを穿つ水のように)
最後にもう一度、「完璧に抗う方法」という企画タイトルから三枝と戸田の活動をおさらいしたい。一見すると2人のアーティストの活動は「抗う」という動詞の持つ激しいニュアンスからは程遠く、どちらかといえばその振る舞いはディフェンシブに映るかもしれない。しかし、ディフェンスのなかにも多様な手立てがあること、継続や反復によって強固な地盤も少しずつ変動しうることを2人の活動は示している。
会期の最終日には三枝の公開制作と戸田のパフォーマンスが行われたが、マイペースに始まり適度に中断して来場者と言葉を交わし合う風景からは、フレキシブルに「波」に乗りながら自分の歩む「地」を均していく作家の胆力が感じられた。交差しないようで交差する2人のアーティストの組み合わせも含め、長期的な展望をもたらす好企画と言えるのではないか。展覧会はまだ終わっていない。
*1──本企画のステイトメントは以下を参照。
「本展に向けて」
*2──延期された展覧会「⼀歩離れて / A STEP AWAY FROM THEM」は2021年10月2日から10月25日にかけてギャラリー無量(富山)で開催された。
*3──以下の動画を参照。
「2022/01/30収録_アーティストトーク_完璧に抗う方法 – the case against perfection – 戸田祥子/三枝 愛『波を掴み、地と歩む手立て』」