真に「政治的」なアートとは何か
当たり前の話だが、「アートに政治を持ち込むな」も「アートは政治的でなければならない」もおかしな言い草である。方向は正反対だが、どちらも「アート」と「政治」の関係性を自分勝手に解釈しており、両者の定義もはなはだ曖昧である。より精確かつ穏当に述べるなら、あらゆるアートは政治と関係を持っているし、それはアーティスト自身の意志であろうがなかろうか結局のところ不可避である、といったことになるだろうか。「政治的なアーティスト」という言い方は普通にある。それは、自らの政治的主張を開陳し伝達するためにのみアートを用いる者、という意味ではないだろう。だがほかの誰とも同じようにアーティストだってしかじかの「政治的信条」を抱いていることはあるわけで、だとすれば表現や作品にそのようなものが入り込むことだってあるだろうし、そうしていい。そのとき、アートと政治のどっちが上位にくるのか的なことを考え始めると罠に嵌まる。だがむしろ「政治」を露骨に押し出したほうが「アート」として高く評価されるという風潮もあったりするので、傍で観ててもなかなか厄介だと思うのである。
小泉明郎は間違いなく「政治的なアーティスト」のひとりと言ってよいだろう。だが彼の作風は必ずしも単一で明解な「政治的信条=主張」には還元されない。近年、小泉が矢継ぎ早に発表している映像を用いた作品群は、私にとっては「アート」が「政治」を扱う際のもっとも望ましい見本というべき力作ばかりである。小泉の2作目のVR作品『縛られたプロメテウス』は、その最新の達成である。
『縛られたプロメテウス』は「体験型演劇」として提示される。1時間の上演は前半と後半に分かれており、VRが使用されるのは前半のみである。観客がVRゴーグルを装着すると、変調された男の声が聞こえてくる。幼少時の幸福な想い出から「彼」の話は始まるが、やがてそれは悲痛さを帯びてゆく。「彼」は身体が次第に動かなくなったと語る。VRを通した視界では光が乱舞している。「彼」の声は悲愴感を強めていき、ついに頂点を迎える。機械と一体化することによってかろうじて生きている自分への絶望感が無機質な声に滲んでいる。そこで前半の終了を告げられ、VRゴーグルを脱いだ観客は別室に移る。暗い空間に長いベンチと大小のモニターが並べられている。着席しヘッドホンを装着する。壁の向こうから次の回の観客へのスタッフの説明、先ほど自分が聞いたばかりの説明が漏れ聞こえてくる。つまり30分の前半後半を互い違いにして公演は行われているのだ。モニターに映像が映る。電動椅子に座った男性の姿がある。一目で「彼」が身体の動きに障害があることがわかる。そして「彼」は喋り始める。それは前半で聞いたのと同じ内容だ。先ほどの声も同時に聞こえており、「彼」の声が変調されて壁の向こうに流れているのだとわかる。あれは「彼」が語っていたのだ。突然、モニター上部の壁が水平に開き、向こう側が見える。そこでは次の回の観客がVRゴーグルを付けてうろうろしている。「彼」が語る内容と人々の動きが一致していることに観客は気づく。だがそれは30分前の自分の姿でもある。映像は椅子につながれた「彼」を映し続けている。「彼」は表情を変えることなく口だけで話している。やがて上演は終わる。
終演後に配布されたハンドアウトを読んではじめてわかったことだが、この作品の出演者である「彼」の名前は武藤将胤(むとう・まさたね)、2013年にALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、以後はALS患者の課題解決や社会参加に関わる様々な事業の研究開発を行っているという。『縛られたプロメテウス』は、後半になってからその作品としての核心が露わにされるようになっており、公演情報には武藤の出演も含め何ひとつ触れられていない。それだけに事前知識なしで体験した私を含む観客の驚きは大きかった。アイスキュロスのギリシャ悲劇『縛られたプロメテウス』は、ゼウスから火(=テクノロジー)を盗み人間に与えた罪によって永遠の受刑を強いられるプロメテウスの物語だが、小泉はそれをもとに、おそるべき「演劇=アート作品」をつくり上げた。
《Sacrifice》は、VRゴーグルによって観客が家族を殺されたイラク人青年(の視線)に同定されるというものだった。同じくVRを用いながらも『縛られたプロメテウス』は、そのようなつくりにはなっていない。観客はALS患者である武藤将胤の身体を仮想体験するわけではない。《Sacrifice》も追体験の不可能を提示する作品だったのだが、『縛られたプロメテウス』は「体験」と「観劇」が分離されたうえで重ね合わされることで、他者になることの「不可能」を「体験」することさえじつは不可能なのだということ、むしろそこにこそ欺瞞があるのだということを、われわれに突きつける。そして私は、こういう試みこそ真に「政治的」だと思うのである。