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2019.8.29

VR作品は鑑賞者の身体をどこへ連れ去るのか? 大岩雄典評 小泉明郎個展「Dreamscapegoatfuck」

ドキュメンタリーと演劇的な要素を組み合わせた映像や、鑑賞者の心身に揺さぶりを掛けるような作品をてがける小泉明郎。無人島プロダクションで開催中の個展にて、ヴァーチャル・リアリティ(VR)用ヘッドセットを装着して体験する作品《Sacrifice》が日本初公開されている。同作品に内在する身体を徴集する力について、アーティストの大岩雄典が論じる。

大岩雄典=文

Sacrifice 2018 VRインスタレーション 
© Meiro Koizumi Courtesy of the artist, Annet Gelink Gallery and MUJIN-TO Production
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指呼の演劇性

 小泉明郎の個展「Dreamscapegoatfuck」に展示されたヴァーチャル・リアリティ(VR)映像《Sacrifice》は、戦災で家族を失ったイラク人青年アハメッドの視点と述懐をめぐる作品だ。

私の身体を感じますか あなたの脳は私の身体を感じていますか これが私の身体です これが私の唯一の身体です これが逃れることのできない私の唯一の身体です 手をそのまま動かし続けてください ──小泉明郎《Sacrifice》より
映像のなかでですね、腕が出てくるシーンがございます。そのときに自分の手を一緒に動かしてもらえると、ちょっと不思議な体験というか、憑依体験というか、映像を少し深く体験していただくことができます。 ──会場スタッフによる案内より(2019年8月2日15:00の回)
所長、今日はご苦労でした。よく務めを果たしてくれました。教育部長、あなたも。保安課長、あなたも。あなたも。あなたも。あなたも。あなたも。あなたも。この映画を観てくださったあなたも。 ──大島渚『絞死刑』より(*1)
会場風景より。鑑賞者がヘッドセットを付けて《Sacrifice》を体験する様子 
撮影=森田兼次 © Meiro Koizumi Courtesy of the artist and MUJIN-TO Production

 VRヘッドセットを装着して待っていると、映像が始まる。空間に「私」の視点がある。家の中のシーン、洗面所に立つ中東系の青年の頭に、「私」は被せられる。鏡越しに、ヘッドカメラを被った彼が見える。それが……「これ」が「私」であり、しかし「私」でないアハメッドだ。彼の独白は冒頭からずっと、被せられたヘッドフォンのここで聞こえていて、咳さえも、「私」のここで響くかのようだ。「この家を捜索する」というアメリカ兵の言葉を彼が回想する。アメリカ兵の言う「この家」とは「私」がいる「この家」か……と、私は「私」をいつのまにか、「そちら側の、ここ」に位置づけてしまう。「この」という指示代名詞がもたらすような認知言語的な錯覚によって、「私」は前線へ送り込まれる(*2)。​

 あなたも。
 隣室までこのアハメッドが歩き出す。あなたは歩く。あなたがこのアハメッドに歩かされる。いや、この彼も、この頭にヘッドカメラを被せた日本人の男に歩かされている(*3)。彼が、あなたが、ここに座らされる。いや、ここにあなたは座っていた。このヘッドセットをつける前からこの椅子に。「こんな音」と、爆撃ヘリの音をこのアハメッドが、ここで口真似する。上方の字幕を見上げると、その……この天井には扇風機があり、「これ」がこの彼がこの時ヘリを見上げていた姿勢かと、あなたはここで思う。「彼らは目の前で生きている」とこのアハメッドが言う。あなたの「目」の「前」はヘッドセットにすり替えられている。ここにいないあなたがいられるのは、このアハメッドのいるここなのだ。

 Sacrifice 2018 VRインスタレーション
© Meiro Koizumi Courtesy of the artist, Annet Gelink Gallery and MUJIN-TO Production

  「あなたの脳は私の身体を感じていますか」と字幕。〈この私の身体において私がここで感じるのだから私の身体がこれで当然だ〉という再帰的な有機性、此性に、「あなた」は巻き添えを食らっている。

 代名詞による、不安定な指呼関係の飛び交う乱反射。「これ」という、「私」への近接の指示が跳弾するたび、「見る」「感じる」知覚へ彼が言及するたび、「私」の位置のほうがそこに引っ張られては、映像の懐中の「ここ」へと召喚され続ける。

​ このアハメッドが「連れていって」と懇願する「そっち」とは、家族のいる死後の世界なのか、それとも私=あなたがいるこの──この?──世界なのか。あなたとこの私が呼びかけられる以上、そっちはこっちになるが、この私というあなたではなくあの彼らのほうなら、こっちではなくあっちだろう。止まない乱反射のなかで私=あなたは振り回される。これはまさしくマイケル・フリードの言う意味で〈演劇性〉なのだ(*4)。

 語られる「ここ」に観者の身体を徴集する技術は、どこかポルノグラフィの技術と連帯していないか。死者の幻を抱擁するジェスチャーは、はたして触覚デバイスと結びつく、全面的な私の「ここ」への没入を射程に入れていないだろうか(*5)。

Battlelands 2018 ヴィデオインスタレーション(2チャンネルバージョン)
© Meiro Koizumi Courtesy of the artist, Annet Gelink Gallery and MUJIN-TO Production

 同時に展示された2面スクリーン映像作品《Battleland》も、米軍帰還兵にヘッドカメラで撮影させながら、戦争や家に関する個人的な体験を話させたフッテージを編集した作品だ。戦地を思い出して「このあたり」「その壁を破って」と言いながら街路や自室を指すとき、やはり指呼を活用した〈演劇〉は実演されている。つぶさに見れば、過去形の英語が日本語字幕で現在形にされていたり、また直接話法の頻出など、語られる「ここ」へと観者を連れ去る効果が多く散見される。「彼の涙が見える?」「ここはイラクの……」というナレーションの箇所は真黒の画面で、この空虚を梃子に、私は「その、ここ」へ抑留される。

 あえて破廉恥な主語を冠して以下の文句を繰り返そう。「あなた」は、あなたであるために、「ここ」という主題が燃え広がるさまを冷ややかに見つめ返す、炯眼をたずさえねばなるまい(*6)。

会場風景より。手前が《Sleeping Boy》(2015)、奥が《Battlelands》(2018) 
撮影=森田兼次 © Meiro Koizumi Courtesy of the artist and MUJIN-TO Production

 

*1──『絞死刑』(1968)は、大島渚が監督した日本映画。在日朝鮮人の死刑囚「R」をめぐって、死刑制度や差別の問題を扱っている。御園生涼子はこの映画における、スクリーンを貫いて鑑賞者へ「呼びかけ」るナレーション・字幕について、「あなた」という代名詞に注目して論じている。
 「『私』から『あなた』への直線的な形をとって結ばれようとするこのコミュニケーションは、映画が複製芸術であり、何度でも再生可能であるというアイロニーを乗り越え、ただ一回の出来事として大島の言葉を『いま、ここ』において生起させようとするのである」「注目すべきなのは、冒頭の字幕において措定される『皆さん』という不特定多数の対象と非人称を装った話者との関係が、これに続くドキュメンタリー部分のナレーションの『声』によって、実体を持った発話行為として生起しているという点である。ここにおいて、映画は私たち観客を否応なく『私』と『あなた』との対話という関係へと呼び入れる。映画のラストシーンにおける『呼びかけ』の試みは、映画の端緒からすでに始められているのである。このスクリーンからの『呼びかけ』において、発話行為の対象は『あなた』という目的格代名詞によって表示されている。『所長』や『保安課長』といった物語内人物に対する呼びかけの声がふと一瞬止まった後、その言葉を引き継ぐようにまったく異なる人物の声──おそらく監督である大島自身の声──が、『あなたも、この映画を観てくださったあなたも』と力強く呼びかけ、物語外空間に位置する私たち観客を再び『私』と『あなた』によって構成される対話関係へと引き戻すのである。〔…〕『呼びかけ』の言葉における『あなた』という対象も、この映画が特定の『誰か』によって鑑賞され、発話行為が生起しない限り、あらかじめ定められた実体としては存在しない。この空隙を埋め、『呼びかけ』に対し応答すること、他者への責任=応答可能性responsibilityへの道を開くことこそが、この映画の企図であり、私たち観客に求められていることなのだ。おそらくそれは、Rが在日朝鮮人=『追放された人々displaced persons』あるいは『国家によって包摂/排除された他者』として自らの主体性を引き受けたことへの応答として、私たち観客が『いま、ここ』に生き、国家の主権権力の一部分を担う主体としての『私』という主体性──生政治の場における責任=応答可能性を引き受けることに他ならない。たとえそれが、決して予定調和的な対話ではなく、『私』と『あなた=他者』との解消しがたい共約不可能性を埋めるための『魂を締めつけられるような痛みを感じる』プロセスでしかあり得ないのだとしても」。(御園生涼子「法の宙吊り:大島渚『絞死刑』(一九六八)における国家と発話主体」2012、月曜社『表象06』所収、それぞれ92頁、105〜106頁)
 『絞死刑』が観者へ「呼びかけ」るのに比べて、VRを用いた《Sacrifice》は「ここ」へと頻く頻く「呼びつけ」ることで、観者の「反応可能性responsibily」を動員する、と言えよう。

*2──人称代名詞や指示代名詞のこうした機能は、「転換子(シフター)」と呼ばれるものだ。「転換子」とは、それが発話された状況によってその指示する対象が変化する語をいう。「いま」という語は、それが発言された会話のなされたその時を指すし、「さっき」「あとで」は、発話の瞬間から相対的に遡ったり経ったりした時間を指す。それは「8月15日」という、発話の状況に拠らずに特定の日付を固定的に指すことのできる言葉とは異なる。「わたし」「あなた」もそうだ。「わたし」とはそれを発話した存在を、「あなた」とは発話の呼びかけ相手を指す。
 さて、註1で参照している御園生が大島渚の映画に見出している効果は、この「あなた」という呼びかけがスクリーンという水準を貫いても作用できることを利用している。例えばミシェル・ビュトールの『心変わり』という小説は「きみは……」と呼びかける「二人称小説」で、あくまで「きみ」は物語のなかの架空の存在なのだが、しかしこの文章を読むさなか、読者はあたかも自分を指して「きみ」と呼びかけられているような錯覚を覚える、と佐々木敦もまた指摘している。
 「こそあど」とも言われる指示代名詞はより複雑で、発話者と聞き手、そして指示される対象との相対的な位置にかかわる。「あれ」は発話者からも聞き手からも遠いものを指すだろう。たいして「これ」はつねに発話者の「私」に近接する語で、《Sacrifice》ではVRヘッドセットというスクリーンを貫いて、「これ」「ここ」という語が「私」を何度も編纂するように作用しているのだ。
 ともあれ、《Sacrifice》に見出されるような「指呼」の効果は、人称・指示代名詞など言語的要素にかぎったものではない。ロザリンド・クラウスは「インデックスについてのノート」で、ヴィト・アコンチの映像や、マルセル・デュシャンの一連の作品の視覚的要素についても、「シフター」およびそれを包含する「インデックス」概念を用いて論じている(ちなみにシフターは指標詞、指呼詞と訳されることもある)。
以下参考:エミール・バンヴェニスト「代名詞について」岸本通夫監訳・河本正夫翻訳『一般言語学の諸問題』(みすず書房、1983)、星野太『奥村雄樹──ジュン・ヤン』(美学出版、2013)、Rosalind E. Krauss 1976, ’Note on the Index: Part 1’ “The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths”(MIT Press , 1986)、佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生』(慶應義塾大学出版会、2014)

*3──谷崎潤一郎『春琴抄』(1933)を思い出そう。盲目の春琴に使えた佐助という手曳き(世話係)は、春琴と好仲になるものの、春琴が顔に大怪我をして籠ってしまったのを案じて、自らも針で眼を突き盲目となる。この2人の盲目者の世話係として、てる女という3人目の手曳きが現れる。春琴を佐助が世話し、佐助をてる女が世話する、という奇妙な多重性がある。
 さて、福嶋亮大は『厄介な遺産 日本近代文学と演劇的想像力』(青土社、2016)で、日本近代小説の成立に際して暗に蠢いていた「演劇的」な想像力を代表するひとりに谷崎を挙げ、「呪われた戯曲」(1919)が入れ子構造を持つメタ戯曲であることや、上述の『春琴抄』において語り部が盲者であることが、語りというものの不透明性を強調し、「つくることのアレゴリー」を畳み込んでいると指摘した。谷崎の作品は身体感覚を生々しく描写したエロティックな主題も含め、そうした「演出」を多分に意識している。
 『春琴抄』の手曳きの多重性、さらにはこの物語自体が伝え聞きの連続であることは、つくり物である文学が、つねに盲目という演出、演出という盲目を抱えていることのアレゴリーだ。それは「作者=語り部=演出家」という存在の無限多重化を示唆するとも言える。《Sacrifice》における「歩かせ」行為は、盲目者の手を引く、まさに「手曳き」を私に(そしていまここであなたに)連想させる。あるいは後半、「Touch them.」という英語の指示が背後で聞こえたと思うと、随行していたアラビア語通訳者が「ハサンに触って」とアハメッドに指示を伝える場面も、まさに文字通りの「演出」の多重性をアレゴリーするかのようだ。
 以上のような「演劇」は、次註4で触れるマイケル・フリードの演劇性と同義ではないが、本作《Sacrifice》の分析として比較検討する価値があるだろう。

*4──フリードが論文「芸術と客体性(Art and Objecthood)」で指弾した、ミニマリズム(リテラリズム)の「演劇性(theatricality)」について、林道郎の説明が簡潔なので引く。「演劇とは、観客がいてはじめて成立する種類の出来事である。舞台の上で演じられる芝居は、つねに観客への効果を意識して演じられる。同時に、その効果のあるなしは、観客の心理に依存することにもなる。〔……リテラリズムの〕作品は、観者の移動にともなってその様相を変え、無限の意味を生産するようだが、それは、〔…〕意味の欠落、すなわちなにも読むべきものがないことから生じる任意的な多義性なのである」「これを観者の主体の構造という点から言い直してみれば、演劇的な状況における主体とは、目の前の客体の関数的な効果として生じる主体であ〔る〕」(林道郎「美術史を読む─第四回 マイケル・フリード」『美術手帖』1996年4月号所収)。
 ここで言う「意味の空白」を、転換子という、それ自体では何も指さない語も共有している、と拡張して論じたい。ミニマリズム(リテラリズム)の作品が周囲の空間と移動する観者の位置を関数にその意味の表れを更新し続けるように、「これ」「あなた」そして「私」を中心とした転換子がめくるめく、その指示するところを微妙に変えながら続出するとき、私はそれらを処理することでしか自らを位置づけられない「関数的な効果」となる。それは註1の引用で御園生が述べるような、観ている私の応答を仰ぐ「空隙」だろう。
参照:マイケル・フリード、川田都樹子・藤枝晃雄訳「芸術と客体性」(1967/1995)『批評空間 臨時増刊号 モダニズムのハード・コア』(太田出版、1995)

*5──ところで「没入(absorption)」とは、フリードがまさに「演劇性(theatricality)」と対置させる語である。しかし林道郎によれば、フリードにおけるその二項はたんに絵画が非歴史的に持つ対照的属性なのではない。絵画が必然的にはらんでしまう演劇性、つまり観者との流動的で外的な関係を「超克」して、「内向性=没頭(absorption)」を再獲得することこそが、絵画の歴史が展開する弁証法的プロセスだとみなす。この歴史観がクレメント・グリーンバーグのモダニズム由来の「自己批判」を軸とする歴史観であるのは言うまでもない。
 こうした没入/演劇性の批判的な止揚は、小泉本人の発言にも見出されるものだ。「何をもって『面白い』と思うかという基準ですが、たぶん、映像のフレームが意識され、虚構性が暴かれながらも、その虚構性の中に取り込まれてしまう、そういった映像のメカニズムに触れたときに、何か面白いものができたんじゃないかと思うことが多いですね」(小泉明郎インタビュー『美術手帖』2015年6月号所収)。
 さてそうした、演劇性と没入が止揚する過渡的な表現として、フリードはギュスターヴ・クールベの一連の絵画と、トマス・イーキンズ《グロス博士の医学講義》(1875)を参照する。前者について、フリードはクールベを、絵画への自身の「没入」を主題に絵を制作しつづけた画家と見なし、そのモノグラフを記す。ここで言及したいのは「自画像」と「闇」だ。クールベの自画像は、クロースアップやその姿勢などで、画家のキャンバスへの「ここ」での対峙そのものを写し取ろうとしている。また晩年の《ルー川の源泉》(1864)などに描かれた洞窟の闇は、没入の対象として配されている、とフリードは語る。《Sacrifice》や《Battleland》に登場する、ヘッドセットをつけた撮影者を映す鏡や、抱きしめる腕で視界が覆い隠される闇、あるいは端的に真黒の画面などは、そうした「演劇性」から「没入」を発生させるデザインとして、クールベに類比できる。
 後者、イーキンズの「痛み」については、林の説明を引こう。「つまり、ここに描かれているのは、画面内の人物たちを『没頭』させるための究極のテクニックとしての『痛み』のモティーフなのである。そのように過剰にリアルなテーマを導入することによってしか、『内向』のテーマ自体がすでに真実味をもてない。そういう状況が十九世紀の半ばだったのである。〔…〕しかし、その『痛み』は過剰に『absorptive』であるがゆえに、画面内の閉域を超えて、観者の目をもその空間に引きずりこむ、そのような予期せぬ力を発揮することになってしまったのだ」(林、同、143頁)。
 ここで言う「痛み」を、註1で引用した御園生が言及する「魂を締めつけられるような痛み」と重ね合わせることは、しかし「この身体」を私とアハメッドのあいだで重ね合わせるような文体の踏襲にほかならないのかもしれない。
 ともあれ、この「痛み」のように観者を没入させるモチーフとして、「性的興奮」は無視できない。クールベの《白いストッキングのヌード》《世界の起源》などこれ見よがしにポルノグラフィックな絵画、そして「主観もの」アダルト・ビデオやVRアダルトコンテンツの受容は、この「没入と演劇性」を、主題の側面に助けられながら止揚している実践に数えられはしないか。

*6──「ものを並べるとき、必ず意味の火種がある。それも「不用意」に。鑑賞者がゆくりなく向けた関心に煽られ、意味は次々に燃え上がる。だがあらゆる展示が見舞われるこの劫火が、たしかに現実まで延焼するものなのか、私たちは炯眼をたずさえねばなるまい」(大岩雄典「用心せよ:平川祐樹 Rêve d’artiste La Magie à travers les âges」展レビュー、ウェブ版美術手帖)。文全体の趣旨はリンク先を参照いただきたい。大岩が毎月執筆しているレビューは、独立した展評であるとともに、テーマを共有する連載としても構想されている。